第四章 栞堂の夏休み(後編)
翌朝。
琴葉はいつもより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、床に細い帯を作っている。外では蝉が、まるで急かすように鳴いていた。
スマートフォンを見ると、まだ七時台。
「……早い」
夏休みなのに、こんな時間に目が覚めるなんて。
もう一度寝ようと思えば寝られるはずなのに、まぶたの裏が妙に落ち着かない。
頭に浮かぶのは、昨日のオルゴールだった。
十年以上鳴らなかった音。
止まったままの時間。
もし、もう一度鳴ったら――。
どんな音だろう。
澄んでいるのか、それとも少し濁っているのか。
あの人は、どんな顔をするのだろう。
驚くのか、泣くのか、それともただ静かに笑うのか。
「……なんでこんなに気になるんだろ」
自分が直すわけでもないのに。
ただ横で見ていただけなのに。
それでも、あの小さな箱の中に閉じ込められていた時間が、もう一度動き出す瞬間を――見逃したくないと思っている。
琴葉はゆっくりと起き上がる。
「……朝ごはん食べよう」
理由をつけるように呟いて、ベッドを降りた。
少しだけ、いつもより早い一日が始まった。
*
午前九時五十五分。
栞堂の前。
ガラス越しに覗くと、澪はすでに作業を始めていた。
カウンターの向こうで、いつものように静かに手を動かしている。
その前には、あのオルゴール。
――やっぱり、気になる。
自分でも少し呆れるくらい、足が自然と店の前まで来ていた。
目が合うと、澪がふっと笑って手招きする。
カラン、カラン――。
「おはよう」
「おはようございます」
「早いね」
「……ちょっと気になって」
言いながら、少しだけ視線を逸らす。
気になっているのは明らかなのに、それをそのまま認めるのが少しだけ悔しい。
澪がくすっと笑う。
「正直だね」
「別に隠してません」
琴葉はカウンターへ向かった。
「オルゴール、どうですか?」
「もう少し」
「見ててもいいですか?」
「もちろん」
その一言に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
まるで、自分もこの時間に関わっていいと許されたみたいで。
*
小さな工具が並ぶ作業台。
澪の指先は迷いがなく、それでいてどこか慎重だった。
壊れたものを扱っているというより、壊れかけた記憶に触れているみたいに。
「交換しないんですか?」
思わず口に出る。
効率だけ考えれば、その方が早いはずだ。
「できるだけ、このまま使いたいから」
澪は手を止めずに言う。
「大切にしてたものだからね。できるだけ、そのまま返したい」
その言葉を聞いた瞬間、琴葉はオルゴールを見つめた。
小さな傷。
角の擦れ。
色の褪せ。
それはただの劣化じゃない。
その人が触れてきた時間の跡だ。
――新しくしたら、きっと綺麗になる。
でも、それはもう「これ」じゃなくなる。
「……難しいですね」
ぽつりと漏れる。
機械の話じゃない。
どこまで残して、どこを変えるのか。
何を守って、何を手放すのか。
「うん。でも、その分、直ったとき嬉しいよ」
澪は穏やかに笑った。
その笑顔を見て、琴葉は少しだけ納得する。
ああ、この人は――ただ直しているんじゃない。
ちゃんと「戻そう」としているんだ。
*
開店後、子どもたちがやってくる。
「琴葉ちゃん!」
「おはよう」
宿題を広げる二人。
その横で、オルゴールに興味津々。
「直った?」
「もう少し」
「宿題終わったらね」
そう言うと、二人は一瞬だけ不満そうな顔をして、それでも素直に机へ向かった。
「ここ教えて!」
「まず自分で考えて」
「厳しい!」
「約束したでしょ」
言いながら、自分でも少しだけ可笑しくなる。
――いつの間にか、こんなこと言う側になってる。
前は、誰かに言われる側だったのに。
澪がくすっと笑う。
その視線に気づいて、少しだけ背筋を伸ばす。
ちゃんとしなきゃ、と思う自分がいる。
いつもの栞堂の空気の中で、修理は続いていった。
*
昼過ぎ。
「終わった!」
宿題を確認し終えたそのとき。
澪の手が止まる。
「……ちょっと待って」
その声に、空気が変わる。
店内が静まる。
琴葉は無意識に息を止めていた。
澪がぜんまいを回し、手を離す。
――カチ。
一瞬の沈黙。
その一瞬が、やけに長く感じる。
――ポロン。
音が鳴った。
「……!」
胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。
かすれながらも、確かな旋律。
「鳴った!」
子どもたちが声を上げる。
琴葉はただ見つめていた。
止まっていた時間が、ゆっくりと、でも確実に動き出すように。
――こんなふうに、戻るんだ。
完全じゃなくても。
少し歪んでいても。
それでも「戻った」と言える瞬間がある。
「……鳴った」
ようやく声が出る。
澪は小さく頷く。
「まだ調整は必要だけどね」
「厳しいですね」
思わず笑ってしまう。
「誰かさんに言われたくない」
軽く笑いがこぼれる。
オルゴールの音は、静かに流れ続けていた。
その音を聞きながら、琴葉は思う。
――ああ、これを聞いたら。
あの人は、きっと。
*
夕方。
最後の調整を終えたオルゴールは、澄んだ音を奏でた。
さっきよりも、ずっと滑らかで、迷いのない音。
「完成」
「よかった」
自然に言葉が出る。
自分は何もしていないのに。
ただ見ていただけなのに。
それでも、胸の奥がじんわりと温かい。
――なんでこんなに嬉しいんだろう。
誰かの大切なものが、ちゃんと戻ったから。
それとも。
その瞬間を、自分も一緒に見ていたから。
「明日、連絡するね」
「喜んでくれるといいですね」
「うん」
その「うん」が、妙に確信に満ちている気がした。
*
翌日。
女性が店を訪れる。
「直りました」
澪が差し出すと、女性は震える手でぜんまいを回した。
――ポロン。
音が流れる。
女性はじっと聞き入り、やがて小さく言った。
「……この音です」
その一言に、胸がきゅっと締めつけられる。
目元がわずかに潤む。
「娘が毎晩これを鳴らして眠ってたんです」
懐かしそうに箱を撫でる。
「忘れていたと思ってたのに……覚えてるものですね」
琴葉はその様子を見ながら、思う。
――忘れてたんじゃない。
ただ、触れるきっかけがなかっただけだ。
音が鳴った瞬間に、全部戻ってきた。
時間ごと。
感情ごと。
澪は静かに頷く。
「大切にしてあげてください」
「はい」
女性は何度も礼を言い、オルゴールを抱えて店を出ていった。
*
静けさが戻る。
さっきまであった音の余韻だけが、まだ空気に残っている気がする。
琴葉は扉を見つめたまま言う。
「……すごいですね」
「直しただけだよ」
「違います」
琴葉は首を振る。
言葉を探しながら、でも確かに感じているものを掴もうとする。
「思い出も戻したみたいでした」
ただの修理じゃない。
あの人の中にあった時間を、もう一度動かした。
澪は少し驚き、やがて笑う。
「おじいちゃんも似たようなこと言ってた」
「物を直しても時間は戻らない。でも、思い出すきっかけにはなるって」
琴葉は店内を見渡す。
ここで積み重ねられてきた時間。
見えないけれど、確かに残っているもの。
――この店、ただの雑貨屋じゃない。
そう思う。
「おじいちゃんのこと、大好きだったんですね」
「うん」
迷いのない答え。
その一言に、全部が詰まっている気がした。
琴葉も少し笑う。
「会ってみたかったです」
本当に、そう思う。
この場所を作った人に。
この空気を残した人に。
「きっと気に入られてたよ」
「どうしてですか?」
「毎日来るし、細かいし」
「……」
少しだけむっとする。
でも、否定できない自分がいるのが悔しい。
軽く笑い合う。
そのやり取りが、妙に心地いい。
*
夏祭り前日。
商店街は準備で賑わっていた。
「琴葉ちゃん、こっち!」
呼ばれるままに動き回る琴葉。
気づけばすっかり準備の一員だ。
――最初は、ただの「よそ者」だったのに。
今は名前を呼ばれて、頼られている。
それが少しだけ、くすぐったくて。
でも、嫌じゃない。
「明日、一緒に回る約束!」
「覚えてるよ」
子どもたちが嬉しそうに笑う。
「浴衣も!」
「着ます」
言いながら、少しだけ胸のあたりを意識してしまう自分に気づく。
――気にしてないつもりだったのに。
そのやり取りを見て、澪が笑う。
その笑い方が、からかっているのに優しくて。
少しだけ、安心する。
*
夕方。
準備を終えた二人は、栞堂の前に並んで立つ。
提灯が揺れる、少し特別な商店街。
昼間の喧騒が嘘みたいに、静かで。
でも、その静けさの奥に、明日の気配が確かに潜んでいる。
「疲れました」
「でも楽しい?」
琴葉は周囲を見渡す。
知らなかった場所。
知らなかった人たち。
知らなかった時間。
それが今は、少しずつ自分の中に入り込んでいる。
――ここ、好きかもしれない。
その感覚は、前よりもはっきりしていた。
「はい」
素直に頷く。
澪も頷く。
夕風が吹く。
提灯がかすかに揺れる。
その揺れを見ていると、胸の奥も同じように揺れている気がした。
「明日、三時にここで」
「分かりました」
「絶対来るでしょ」
「もちろんです」
即答する。
迷いはなかった。
――来たいから。
ただそれだけで、十分だった。
澪が笑う。
「琴葉ちゃんだから」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちる。
温かくて、少しだけくすぐったくて。
でも、それ以上に――
なぜか、離したくないと思った。
琴葉は小さく息を吸う。
言葉にはならない。
でも確かにそこにあるもの。
名前をつけようとすると、逃げてしまいそうな感情。
それでも。
――知りたい。
これは何なのか。
どうしてこんなふうに、ここにいたいと思うのか。
どうして、明日がこんなに楽しみなのか。
「また明日」
「うん、また明日」
カラン、カラン――。
扉が閉じる。
夕焼けの中、提灯が揺れている。
まだ灯りはついていない。
けれど、その一つ一つが、明日を待っているみたいだった。
琴葉はその光のない提灯を見上げる。
――明日、ここに灯りがともる。
人が集まって、音が鳴って、笑い声が重なって。
その中で、自分は何を感じるんだろう。
今日よりも、もっとはっきりと。
この胸の奥にあるものの正体に、触れられる気がする。
まだ名前のつかない感情。
でも、もう分かっている。
それは、ただ通り過ぎるものじゃない。
――ちゃんと、掴みたい。
逃したくない。
明日、その答えに少しでも近づけるなら。
どんな顔をしてでも、そこに立っていたい。
琴葉はゆっくりと歩き出す。
夕暮れの商店街を抜けながら、胸の奥に灯りがともるのを感じていた。
まだ小さくて、頼りない光。
でも確かに、消えないもの。
明日、それがどう変わるのか。
――確かめに行く。
(第四章 完)




