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第四章 栞堂の夏休み(後編)


翌朝。


琴葉はいつもより少し早く目を覚ました。


カーテンの隙間から差し込む朝日が、床に細い帯を作っている。外では蝉が、まるで急かすように鳴いていた。


スマートフォンを見ると、まだ七時台。


「……早い」


夏休みなのに、こんな時間に目が覚めるなんて。


もう一度寝ようと思えば寝られるはずなのに、まぶたの裏が妙に落ち着かない。


頭に浮かぶのは、昨日のオルゴールだった。


十年以上鳴らなかった音。


止まったままの時間。


もし、もう一度鳴ったら――。


どんな音だろう。


澄んでいるのか、それとも少し濁っているのか。


あの人は、どんな顔をするのだろう。


驚くのか、泣くのか、それともただ静かに笑うのか。


「……なんでこんなに気になるんだろ」


自分が直すわけでもないのに。


ただ横で見ていただけなのに。


それでも、あの小さな箱の中に閉じ込められていた時間が、もう一度動き出す瞬間を――見逃したくないと思っている。


琴葉はゆっくりと起き上がる。


「……朝ごはん食べよう」


理由をつけるように呟いて、ベッドを降りた。


少しだけ、いつもより早い一日が始まった。



午前九時五十五分。


栞堂の前。


ガラス越しに覗くと、澪はすでに作業を始めていた。


カウンターの向こうで、いつものように静かに手を動かしている。


その前には、あのオルゴール。


――やっぱり、気になる。


自分でも少し呆れるくらい、足が自然と店の前まで来ていた。


目が合うと、澪がふっと笑って手招きする。


カラン、カラン――。


「おはよう」


「おはようございます」


「早いね」


「……ちょっと気になって」


言いながら、少しだけ視線を逸らす。


気になっているのは明らかなのに、それをそのまま認めるのが少しだけ悔しい。


澪がくすっと笑う。


「正直だね」


「別に隠してません」


琴葉はカウンターへ向かった。


「オルゴール、どうですか?」


「もう少し」


「見ててもいいですか?」


「もちろん」


その一言に、胸の奥が少しだけ軽くなる。


まるで、自分もこの時間に関わっていいと許されたみたいで。



小さな工具が並ぶ作業台。


澪の指先は迷いがなく、それでいてどこか慎重だった。


壊れたものを扱っているというより、壊れかけた記憶に触れているみたいに。


「交換しないんですか?」


思わず口に出る。


効率だけ考えれば、その方が早いはずだ。


「できるだけ、このまま使いたいから」


澪は手を止めずに言う。


「大切にしてたものだからね。できるだけ、そのまま返したい」


その言葉を聞いた瞬間、琴葉はオルゴールを見つめた。


小さな傷。


角の擦れ。


色の褪せ。


それはただの劣化じゃない。


その人が触れてきた時間の跡だ。


――新しくしたら、きっと綺麗になる。


でも、それはもう「これ」じゃなくなる。


「……難しいですね」


ぽつりと漏れる。


機械の話じゃない。


どこまで残して、どこを変えるのか。


何を守って、何を手放すのか。


「うん。でも、その分、直ったとき嬉しいよ」


澪は穏やかに笑った。


その笑顔を見て、琴葉は少しだけ納得する。


ああ、この人は――ただ直しているんじゃない。


ちゃんと「戻そう」としているんだ。



開店後、子どもたちがやってくる。


「琴葉ちゃん!」


「おはよう」


宿題を広げる二人。


その横で、オルゴールに興味津々。


「直った?」


「もう少し」


「宿題終わったらね」


そう言うと、二人は一瞬だけ不満そうな顔をして、それでも素直に机へ向かった。


「ここ教えて!」


「まず自分で考えて」


「厳しい!」


「約束したでしょ」


言いながら、自分でも少しだけ可笑しくなる。


――いつの間にか、こんなこと言う側になってる。


前は、誰かに言われる側だったのに。


澪がくすっと笑う。


その視線に気づいて、少しだけ背筋を伸ばす。


ちゃんとしなきゃ、と思う自分がいる。


いつもの栞堂の空気の中で、修理は続いていった。



昼過ぎ。


「終わった!」


宿題を確認し終えたそのとき。


澪の手が止まる。


「……ちょっと待って」


その声に、空気が変わる。


店内が静まる。


琴葉は無意識に息を止めていた。


澪がぜんまいを回し、手を離す。


――カチ。


一瞬の沈黙。


その一瞬が、やけに長く感じる。


――ポロン。


音が鳴った。


「……!」


胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。


かすれながらも、確かな旋律。


「鳴った!」


子どもたちが声を上げる。


琴葉はただ見つめていた。


止まっていた時間が、ゆっくりと、でも確実に動き出すように。


――こんなふうに、戻るんだ。


完全じゃなくても。


少し歪んでいても。


それでも「戻った」と言える瞬間がある。


「……鳴った」


ようやく声が出る。


澪は小さく頷く。


「まだ調整は必要だけどね」


「厳しいですね」


思わず笑ってしまう。


「誰かさんに言われたくない」


軽く笑いがこぼれる。


オルゴールの音は、静かに流れ続けていた。


その音を聞きながら、琴葉は思う。


――ああ、これを聞いたら。


あの人は、きっと。



夕方。


最後の調整を終えたオルゴールは、澄んだ音を奏でた。


さっきよりも、ずっと滑らかで、迷いのない音。


「完成」


「よかった」


自然に言葉が出る。


自分は何もしていないのに。


ただ見ていただけなのに。


それでも、胸の奥がじんわりと温かい。


――なんでこんなに嬉しいんだろう。


誰かの大切なものが、ちゃんと戻ったから。


それとも。


その瞬間を、自分も一緒に見ていたから。


「明日、連絡するね」


「喜んでくれるといいですね」


「うん」


その「うん」が、妙に確信に満ちている気がした。



翌日。


女性が店を訪れる。


「直りました」


澪が差し出すと、女性は震える手でぜんまいを回した。


――ポロン。


音が流れる。


女性はじっと聞き入り、やがて小さく言った。


「……この音です」


その一言に、胸がきゅっと締めつけられる。


目元がわずかに潤む。


「娘が毎晩これを鳴らして眠ってたんです」


懐かしそうに箱を撫でる。


「忘れていたと思ってたのに……覚えてるものですね」


琴葉はその様子を見ながら、思う。


――忘れてたんじゃない。


ただ、触れるきっかけがなかっただけだ。


音が鳴った瞬間に、全部戻ってきた。


時間ごと。


感情ごと。


澪は静かに頷く。


「大切にしてあげてください」


「はい」


女性は何度も礼を言い、オルゴールを抱えて店を出ていった。



静けさが戻る。


さっきまであった音の余韻だけが、まだ空気に残っている気がする。


琴葉は扉を見つめたまま言う。


「……すごいですね」


「直しただけだよ」


「違います」


琴葉は首を振る。


言葉を探しながら、でも確かに感じているものを掴もうとする。


「思い出も戻したみたいでした」


ただの修理じゃない。


あの人の中にあった時間を、もう一度動かした。


澪は少し驚き、やがて笑う。


「おじいちゃんも似たようなこと言ってた」


「物を直しても時間は戻らない。でも、思い出すきっかけにはなるって」


琴葉は店内を見渡す。


ここで積み重ねられてきた時間。


見えないけれど、確かに残っているもの。


――この店、ただの雑貨屋じゃない。


そう思う。


「おじいちゃんのこと、大好きだったんですね」


「うん」


迷いのない答え。


その一言に、全部が詰まっている気がした。


琴葉も少し笑う。


「会ってみたかったです」


本当に、そう思う。


この場所を作った人に。


この空気を残した人に。


「きっと気に入られてたよ」


「どうしてですか?」


「毎日来るし、細かいし」


「……」


少しだけむっとする。


でも、否定できない自分がいるのが悔しい。


軽く笑い合う。


そのやり取りが、妙に心地いい。



夏祭り前日。


商店街は準備で賑わっていた。


「琴葉ちゃん、こっち!」


呼ばれるままに動き回る琴葉。


気づけばすっかり準備の一員だ。


――最初は、ただの「よそ者」だったのに。


今は名前を呼ばれて、頼られている。


それが少しだけ、くすぐったくて。


でも、嫌じゃない。


「明日、一緒に回る約束!」


「覚えてるよ」


子どもたちが嬉しそうに笑う。


「浴衣も!」


「着ます」


言いながら、少しだけ胸のあたりを意識してしまう自分に気づく。


――気にしてないつもりだったのに。


そのやり取りを見て、澪が笑う。


その笑い方が、からかっているのに優しくて。


少しだけ、安心する。



夕方。


準備を終えた二人は、栞堂の前に並んで立つ。


提灯が揺れる、少し特別な商店街。


昼間の喧騒が嘘みたいに、静かで。


でも、その静けさの奥に、明日の気配が確かに潜んでいる。


「疲れました」


「でも楽しい?」


琴葉は周囲を見渡す。


知らなかった場所。


知らなかった人たち。


知らなかった時間。


それが今は、少しずつ自分の中に入り込んでいる。


――ここ、好きかもしれない。


その感覚は、前よりもはっきりしていた。


「はい」


素直に頷く。


澪も頷く。


夕風が吹く。


提灯がかすかに揺れる。


その揺れを見ていると、胸の奥も同じように揺れている気がした。


「明日、三時にここで」


「分かりました」


「絶対来るでしょ」


「もちろんです」


即答する。


迷いはなかった。


――来たいから。


ただそれだけで、十分だった。


澪が笑う。


「琴葉ちゃんだから」


その言葉が、胸の奥に静かに落ちる。


温かくて、少しだけくすぐったくて。


でも、それ以上に――


なぜか、離したくないと思った。


琴葉は小さく息を吸う。


言葉にはならない。


でも確かにそこにあるもの。


名前をつけようとすると、逃げてしまいそうな感情。


それでも。


――知りたい。


これは何なのか。


どうしてこんなふうに、ここにいたいと思うのか。


どうして、明日がこんなに楽しみなのか。


「また明日」


「うん、また明日」


カラン、カラン――。


扉が閉じる。


夕焼けの中、提灯が揺れている。


まだ灯りはついていない。


けれど、その一つ一つが、明日を待っているみたいだった。


琴葉はその光のない提灯を見上げる。


――明日、ここに灯りがともる。


人が集まって、音が鳴って、笑い声が重なって。


その中で、自分は何を感じるんだろう。


今日よりも、もっとはっきりと。


この胸の奥にあるものの正体に、触れられる気がする。


まだ名前のつかない感情。


でも、もう分かっている。


それは、ただ通り過ぎるものじゃない。


――ちゃんと、掴みたい。


逃したくない。


明日、その答えに少しでも近づけるなら。


どんな顔をしてでも、そこに立っていたい。


琴葉はゆっくりと歩き出す。


夕暮れの商店街を抜けながら、胸の奥に灯りがともるのを感じていた。


まだ小さくて、頼りない光。


でも確かに、消えないもの。


明日、それがどう変わるのか。


――確かめに行く。


(第四章 完)

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