戦前の時代・かき消された「声」
昭和の初め、店主の言うとおりに駅の近くに陸軍の駐屯地ができた。それに伴いさらに町は大きくなり、行きかう人が増えた。ただ行きかう人の装いは軍服のカーキ色が増え、少し彩が暗くなっていった。私に聞こえる地響きは機関車のものよりも、、軍靴の規則正しい足音の方が大きくなっていった。
キナ臭い空気感が町を漂う中、すっかり巨木になった私は、いつしか「駅前の大きなイチョウの下で」という、町で一番の待ち合わせ場所になっていた。駅前の憲兵の厳しい視線が行きかう駅前で、私の木陰だけが、町の人たちがふっと肩の力を抜ける場所になっていた。
日曜日の朝になると、一人の若い兵隊さんがソワソワと私の根元で立っていた。やがて、改札から小走りでやってくる、絣の着物を着た若い女性。二人が目を合わせた瞬間の、弾けるような笑顔を、私はたくさんの葉の隙間から見つめていた。二人はそこで待ち合わせ、つかの間のデートとやらをしゃれ込むようだ。短いデートの時間も終わり、夕陽が駅舎を照らす頃、二人は私の足元に戻ってきた。
兵隊さんは売店でキャラメルを買い、二人ではにかみながら分け合う。キャラメルの甘さだけが、二人を笑顔にしていた。
「次の休みも、またこの木の下で」
そんな約束を二人で交わし、女性は改札口へと向かう。そんな光景が何度も繰り返された。私は精いっぱいに枝を広げ、豊かな葉を茂らせて、二人を街の鋭い視線から隠してあげようとした。それが、私にできる精いっぱいの応援だった。
そんな甘酸っぱい時間がいつまでも続けば良い。そう考えていた。
でも、キナ臭い空気はいよいよきつくなり、とうとう戦争が始まってしまった。
あの若い兵隊さんも、いよいよ南方へと出陣することが決まった。
出陣の日、駅前は日の丸で埋め尽くされ、地面を揺さぶるような「万歳!」の叫び声が響き渡る。皆が戦争に狂っている。そんな喧騒の中、あの若い兵隊さんと女性は、私の幹の陰でひっそりと身を寄せていた。
鉢巻を締め、精いっぱいの正装に澪包んだ彼、そして涙をこらえる彼女。
「立派に戦ってまいります」(必ず帰って来ます)
「ご武運をお祈りしています」(絶対に帰ってきて下さい)
本音を語ることも許されない、建前だけの二人の会話は、大音量の万歳三唱にかき消され、周りの誰も聞いていなかった。
だが、二人が私の幹に背中を預け、縋りついていたからこそ、その言葉は声ではなく「震え」として、ダイレクトに私の樹皮へ、奥深い心へと伝わってきた。
破裂しそうなほどの鼓動。涙がこぼれ落ちて、私の根元の土を濡らしたこと。私はそのすべてを記憶した。
彼を乗せた列車が、激しい黒煙を上げて発車していくとき、彼女は私の幹に顔を押し当てて激しく泣き崩れた。私はすべての枝を低く垂らし、大きな影で彼女をそっと包み込んだ。
狂った世の中で、涙を流すには私の木陰ぐらいしか残されていなかった。




