紺碧庭園
晩餐会を無事に終えて、貴族科の寮に戻った僕は泥のように眠った。
人生において、あんなに長く、かつ濃い一日を終えたことはなかったと思う。ベッドに横たわるとそのまま睡魔に抱かれてしまう。全身の疲れが体を通して下へ……どこまでも下へ降りていくような感覚。汚れや不純物も残さず底へ落ちていく。上にいるのは僕で、邪魔なものは残さず下へ消えていく……。
モモとも話したが、カイゼンとのあれこれは僕らではどうしようもないものだ。奇々怪々な出来事が立て続けに起きている。これ以上の大きな事件にならないことを、祈るしかないだろう。
次の日。
そろそろ起きてください、とメイドのルルカさんにベッドごと引っ剥がされて起床する。貴族の人間に対してその起こし方はどうなんだ、と思いはするも、どうやらこの起こし方は僕だけらしい。ルルカさんなりの愛情表現として受け入れよう。
「あ、掃除したいので外出してくださいね」
「はい」
遅めの朝食を終えて外に出る。今もアズール側はプアロ王子との行事で大忙しだろう。ジンも嫌だろうけど、こればかりは国務なので仕方ない。今度会った時に労おうと思う。
本来ならせっかくの休日、ショッピングや遊びに行くのが一般的だ。ただ、僕にとって行く場所は既に決まっている。
言うまでもなく、かの書架である。アズール図書館に行ける喜びは、司書に合格したとしても存外変わらないのかもしれない。
「ここはいつ見ても綺麗だよなぁ」
四階にある「それ」を見上げながら思わず呟く。あるのは海を切り取って浮遊させているような場所。手を挙げると水がこちらにやってきて、優しく掴んでそちらの方へ運んでくれる。
ドボン、と中を入れば、透き通る海とのご対面だ。
ここを例えるなら、夏、不純物の一切ない海へ飛び込んだとする。海底へ潜っていき、クルリと反転して見上げれば、海面に映る陽の光が美しく海の空を飾り立てていることだろう。
僕のいる場所はまさにそれで、「紺碧庭園」という。以前、ジンと一緒に行った地下三階にある「深海庭園」の対となっているエリアだ。
深海庭園は落ち着きのある暗の海をゆったりと歩ける大人なエリア。こちらは明るく燦々と輝く太陽の光を、不純物ゼロな海の底で見上げることができるエリア。
どちらも海の中にあることは同じだけど、まったく別の光景を作り出している。実際、来る人は子供連れやカップルが多い。今も僕の横を恋人繋ぎをしながら仲睦まじく寄り添う恋人同士が歩いていく。
互いに穏やかな表情をしていて、夏の海底にある綺麗な世界を堪能しているようだ。
すると、彼氏が立ち止まり本棚から一冊の本を手に取る。彼女もまたそれを見て興味を示したようだ。二人で一冊の本を見て、幸せそうに頷いた。
そして視線を交差させて、口を開く。
「あばば、ばばばばばば!」
「ごば? ごばばばばば!」
「……あば」
「ごば……」
少しだけ無言になって、スッと本を元に戻す。そして互いに何とも言えない顔をして出口の方へ向かっていった。
ここは私語をしようとしても全てブクブク語になってしまう。イチャつきたいカップルや、多少の私語をしたい友達同士の人らには不評なれど、静かに読書をしたい人には概ね好評な場所である。
しかも綺麗な海の底で、陽の光を浴びながら読書を楽しめるのだ。雰囲気はとても良く、僕にとってもお気に入りの場所である。年配のご夫婦が横を通り過ぎていった。
「あばば、あんばぁ」
「ごぉば、ごばば!」
「あんばっ、ばば? あばごば」
「ごばば! ごばんばばばーん」
たまにブクブク語で会話をしている猛者もいるけど、それも含めて紺碧庭園の魅力である。
最近はいろいろと忙しかったので、たまに浮いたり光り輝く海底を歩きながら、リラックスする時間を過ごした。
◇
数時間後、ステラさんへ会いに、いつもの場所へ。
普段からのんびり紅茶を片手に読書をしている彼女。ただ、今日は云々と唸りながら書類に目を通していた。周りの本らも彼女の業務を手伝いながらせっせと書類を運んでいる。
「都民からカイゼンに関する本や書物の要望が雪崩のように押し寄せていてね。本来ならこれは私の仕事ではないのだが、人手が足りないということでこうなっているのさ。下の下だよ……」
「僕にできることはありますか?」
「いや、まだないかな。青少年に本格的に司書として話をするのは祝賀会を終えてからと決まっている。だからまだ見習いという位置づけだよ。申し訳ないね」
「そんな……謝らないでください」
「こうして私の話し相手になってくれているだけでも嬉しいものさ。どうにも書類とのにらめっこは楽しくない。私は能動的な仕事のほうが好みなのに……」
どうして司書になったんだろう、と思ったけど言わないでおいた。
ステラさんはガラスペンで頭をコンコンと軽く叩きながら「うわぁ、また発注書だ」とうんざりしている。ただし頭は相当いいようで、「これは二日前にも来た発注書だろ。下の中だ、二度と出すなと伝えてくれ」と本に指示を飛ばしていた。
正直、発注者や図書館としての本の購入システムなど、その点について詳しく聞きたい。ただ、それも含めて祝賀会の後ということだろう。まだ先は長い。これからなのだ。じっくり楽しんでいこう。
「カイゼンについて、とんでもないことになっているみたいじゃないか」
そう思っていると、書類に判子をポンポンと魔法で押しながらステラさんから声をかけられる。
「私もたまたま見たけどね、あれは異常としか思えなかったよ。カイゼン名物・魔儀列車の爆発から、天高く縦一列に並んでいくまでの光景を見た時はね。やりたい放題にもほどがあるだろうか」
「そうですね、実際に目の前で見た時は卒倒しそうでした」
大ニュースになっているカイゼンの話は、もはや王都中で話題になっている。空を駆ける魔具の列車、来る途中で起きたクーデター、プアロ王子の返り討ち、一瞬にして消える車両、そして再度出現しての天高く縦一直線に並ぶ車両の群れ。
外から見た人からすれば、いったい何があったのかと興味と話題は尽きないはずだ。
そして、いよいよ隠せなくなってきているはずである。
三傑の存在を。
「間違いなく三傑だと、巷ではその話題で持ちきりだよ」
「こうなってしまっては公にするしかないようですね」
「ジン王子もプアロ王子も最初からそのつもりのようだね。軽い前振りかな」
「でも、今まで秘密にしてきた三傑の存在を公にする必要はあるのでしょうか」
結果には原因があるものだ。
ジンに聞けばいいけれど、可能なら察してあげたい。とりあえず思いつくものといえば……。
「反政府組織に対して、三傑を発表することでの抑止力に期待した?」
「昔から反政府組織はいるものだよ。今さらだと私は思う」
「プアロ王子に対抗したかったとしても、別のやり方があったはずです」
「上の中、その通りだ。となると、最も有力なのは政府側にしか知らない何らかの情報が入り、そのための最大戦力として三傑を招集し、公にした……かな」
そこまでするほどの情報ならば、かなり危険性のあるものだ。
「考えられるのは、やはり大掛かりな暗殺でしょうか」
「三傑を出すにしても、あそこまで派手にする必要はないからね」
「せっかくの交流というのに、きな臭くなってきました」
「下の上、用心に越したことはないかな」
本当だったら明るいニュースになっていたというのに、嫌なものだ。
ステラさんとあれこれ話していたら、一冊の本が彼女のもとへ。うーん? とした顔でステラさんは本に頭から触れた。
「……? ――ッ!?」
一瞬キョトンとして、眉を上げたまま顔をしかめ、ギロリと天井を見上げた。
口は真一文字に結び、彼女の髪が薄っすらと光る。
「ステラさん?」
「青少年、三傑を見たそうだね」
「え、はい。アズールとカイゼン、どちらも見ましたよ。どちらかといえば印象に残ったのはカイゼンの方です。特に」
「胸元に十字架の装飾品をぶら下げていた」
「……」
間髪入れず挿し込んだ司書に、言葉を失う。
ステラさんは三傑を見たことがない。そしてまだ、僕は三傑の外見を話していない。
彼女が知る術は……ほんの今まで、なかったのだ。
嫌な予感がした。
そしてこの時の予感は、遺憾ながらよく当たる。
「下の下だ。どうにも、我々としても脅威に直面している。――ありえない」
悔しそうな表情をしながら、しかし言わなければならないと決断した彼女は。
呼吸を整えながら立ち上がり、羽織っている半纏を整えて。
僕の方へ顔を向けてから……。
急転直下の言葉を告げる。
「橋の上に、三傑カイゼン代表がいる。キミをご指名だ、青少年」




