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第4章 特製流動食



雅子は大命を取り留めた。

だが、以前のような生活にはすぐ戻れなかった。


もともとの高血圧や生活習慣上の問題も重なり、脳血管障害を起こしていたという。

麻痺。

嚥下機能の低下。


医師からは、血圧管理と厳格な食事管理の必要性を何度も説明された。


「塩分を控えてください」


医師ははっきりと言った。


「特に今は、誤嚥を防ぐため食事形態にも注意が必要です。病院で管理しますので、勝手に食べ物を持ち込まないでください」


結衣は隣で聞いていた。

翔太も聞いていた。

――はずだった。


数日後。

結衣が病室へ入ると。


見慣れた保温ジャーがあった。


嫌な予感がした。

蓋が開く。


あの匂いがした。

濃い醤油と油が混じった、息苦しくなるような匂い。


「翔太」


結衣の声が低くなる。


「それ、何?」

「母さんの飯」

「病院から止められてるでしょう」

「病院の飯なんか食ってたら弱る」


翔太は真顔だった。


「見ろよ、こんなの」


病院の食事を指差す。


「ドロドロで味もしねぇ。こんなんで元気になるわけねぇだろ」


翔太はジャーから、黒っぽいペーストを掬った。

結衣の背筋が寒くなる。


「何を入れたの?」

「母さんが好きだった唐揚げと煮物。ミキサーにかけた」

「……」

「薄かったから醤油とたれも足した」


雅子がベッドの上で目を見開いた。


「ぁ……」


小さな声。

その顔に浮かんでいたのは。


恐怖だった。


「ほら母さん」


翔太が笑う。


「これ食えば元気になるから」


スプーンを近づける。

雅子が首を振った。


「ぅ……あ……」

「大丈夫だって」


さらに近づける。

雅子が必死に顔を背ける。


「翔太」


結衣が呼んだ。

夫は振り返る。


「何だよ」


以前なら。

結衣はここで怒鳴っただろう。

泣いたかもしれない。

必死になって止めたかもしれない。


あなたのお母さんでしょう、と。

死んだらどうするの、と。


けれど。

結衣は静かだった。


「やめなさい」

「うるせぇな」

「それ以上やったら、あなたの責任になるよ」

「俺は母さんのために――」

「分かった」


結衣は、それ以上言わなかった。

鞄からスマートフォンを取り出す。


録画を開始する。


「おい、何撮ってんだよ」

「記録」

「消せよ」

「嫌」


翔太が睨む。

結衣は目を逸らさなかった。


もう。

怖くなかった。


この三週間で、結衣はようやく理解した。

翔太を変えることはできない。

雅子を説得することもできない。


自分がどれだけ尽くしても。

相手がそれを踏みにじることを選ぶなら。

その人の人生まで背負う必要はない。


私はもう。

この人たちのために壊れない。


「ほら母さん。口開けろって」


翔太が再びスプーンを押し付ける。

雅子が呻く。

黒いペーストが頬へ落ちる。

白いシーツへ染みを作る。


その時。


「何をしているんですか!」


病室のドアが開いた。

看護師と担当医が入ってくる。

医師の顔色が変わった。


「食べさせないでください!」

「なんだよ!」

「嚥下機能が低下していると説明したでしょう! 誤嚥したら肺炎や窒息につながります!」


医師が翔太の手からスプーンを取り上げる。


「しかも、食事管理が必要な患者さんにこんな濃いものを――」

「母さんはこれが好きなんだよ!」

「好き嫌いの問題ではありません!」

「病院の飯がまずいから母さんが弱るんだ!」

「翔太」


低い声だった。

全員が振り返る。


病室の入口に、一人の男性が立っていた。

六十代半ば。

白髪交じりの髪。

細身の体。


翔太の父――誠一だった。


「父さん……?」


翔太の表情が固まる。


雅子と誠一は、十年以上前に離婚している。

結婚式にも最低限しか姿を見せなかったため、結衣も数えるほどしか会ったことがなかった。

結衣が連絡をしたのは、雅子が倒れた直後だった。


どうして離婚したのか。

どうして翔太と距離を取っているのか。

今なら。

聞かなければならない気がしたから。


誠一は床に落ちた黒い食べ物を見る。

そして、大きく息を吐いた。


「……まだ、こんなことをやっていたのか」

「何だよ」


翔太が睨む。


「母さんを見捨てた父さんに言われたくねぇよ」

「見捨てた?」


誠一はゆっくりと翔太を見る。


「雅子はそう説明したのか」

「違うのかよ」

「違う」


短い言葉だった。


「私は逃げたんだ」


病室が静まり返る。


「……は?」

「食事だけの話ではない。自分の考えが絶対に正しい。家族なら従って当然。嫌がれば愛情を拒絶したと言う」


誠一の視線が雅子へ向く。


「何十年も、それだった」


雅子が唇を震わせる。


「う……」

「濃い味が好きなら、それ自体は個人の好みだ。だが、他人へ同じものを強制するのは違う」


誠一は翔太を見る。


「お前も同じことをしている」

「違う!」

「何が違う」

「俺は母さんのためにやってんだよ!」

「嫌がっている母親へ、医者に止められた食事を無理に食べさせることがか?」


翔太の顔が引きつる。


「母さんは……」

「今のお前の姿を見ろ」


誠一の声は静かだった。

怒鳴りもしない。

だからこそ、一言一言が逃げ場なく響いた。


「妻の話も聞かない。医者の話も聞かない。母親本人の意思すら聞かない」

「……」

「お前が守っているのは母親じゃない」


誠一は言った。


「自分が正しいという思い込みだ」


翔太の呼吸が荒くなった。


「違う……」

「現実を見ろ」

「違う……!」

「雅子は倒れた」

「うるさい!」

「今の雅子は未来の、お前の姿だ、目を覚ませ」


翔太が何か言おうとした。

その瞬間。

表情が変わった。


「……あ?」


右手が胸元へ行く。

続いて頭へ。


「翔太?」


結衣が眉を寄せる。


「な、んか……」


言葉がもつれる。

翔太の体がふらついた。


医師の顔色が変わる。


「座って!」


だが間に合わなかった。

翔太の膝が崩れる。


「翔太!」


医療スタッフが駆け寄る。

ナースコールが鳴る。

ストレッチャーが運ばれてくる。

次々と指示が飛ぶ。


その混乱の中。


結衣だけが。

動かなかった。


スマートフォンを構えたまま。

目の前の光景を見つめていた。


やがて。

録画停止のボタンを押す。

画面が暗くなる。


そこに、自分の顔が映った。

泣いていなかった。


結衣は、そのことに自分でも少し驚いた。

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