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第5章 無味無臭の終着駅



翔太が目を覚ましたのは、それから数日後だった。


白い天井。

一定の間隔で響く機械音。

消毒液の匂い。


体を起こそうとする。

動かない。


「……?」


右手。

右足。

力を入れているつもりなのに、ほとんど反応がない。


「ぁ……」


声を出す。

上手く言葉にならない。


恐怖が押し寄せた。


何が。

何が起きた。


ベッド脇で、人影が動いた。


「目が覚めたのね」


結衣だった。

翔太の目が大きく開く。


「ゆ……ぃ……」

「無理に喋らなくていいよ」


優しい言葉だった。

けれど。

声には何の温度もなかった。


結衣はサイドテーブルへ、一枚の書類を置いた。


離婚届。


翔太の目が見開かれる。


「……!」

「弁護士さんには相談済み」

「ぁ……」

「今までの録音もある。お義母さんが勝手に家へ住み着いた経緯も、あなたが怒鳴った記録も」


そして。

結衣はスマートフォンを見せた。


「病室の動画も」


翔太が必死に左手を動かす。

結衣は一歩下がった。

触れさせなかった。


「あなたが倒れた時」


結衣は静かに言った。


「私、怖くなかった」


翔太が動きを止める。


「昔だったら、泣いてたと思う。助かってって祈ったと思う」


沈黙。


「でも何も感じなかった」


翔太の目に、初めて明確な恐怖が浮かんだ。


怒られるより。

責められるより。

その無関心が。

何よりも恐ろしかった。


「あなたが病気になったことを、ざまあみろとは思わない」


結衣は言った。


「病気は罰じゃないから」


翔太の瞳が揺れる。


「でも、私はもうあなたの人生を背負わない」

「ゆ……ぃ……」

「何度も言ったよね」


血圧。

むくみ。

息切れ。


病院へ行こう。

少し薄味にしよう。

体を大事にしよう。


「全部、余計なお世話だったんでしょう?」


翔太の目から涙が流れる。


「だからもう、余計なお世話はしない」


結衣は離婚届を見る。


「あなたの今後の生活や介護については、お義父さんや病院の相談員さんと話して。私が妻として世話をすることはない」


翔太の左手が、シーツを掴む。


「ぃ……ゃ……」

「嫌?」


結衣は首を傾げた。


「私もずっと嫌だったよ」


その言葉だけ。

わずかに感情がこもった。

けれどそれも、一瞬だった。


壁の向こうから声がした。


「うぅ……」


雅子だった。

同じ病棟に入院している。

状態は安定し始めていたが、リハビリには長い時間が必要だという。


翔太の目がそちらへ動く。

結衣も見る。

それから。

小さく息を吐いた。


「お義母さんも、これからリハビリだって」


翔太は何も言えない。


「大変だと思う」


結衣は鞄を持った。


「でもそれは、私の人生じゃない」


病室の扉へ向かう。

その時。

昼食を積んだワゴンが入ってきた。


「お食事ですよ」


看護師が翔太のテーブルへ配膳する。

食事形態に配慮された粥と、薄味のおかず。


翔太の目が、それへ向く。

結衣も一度だけ見た。


「じゃあ」


ドアノブへ手をかける。

翔太が声を絞る。


「ゆ……ぃ……」


結衣は振り返った。


「……なに?」


翔太は何かを言おうとした。


ごめん。

待って。

行かないで。


どの言葉だったのか。

もう結衣には分からなかった。

聞き取ろうとも思わなかった。


「さようなら、翔太」


扉が閉じる。

廊下へ出る。


何歩か歩いたところで。

結衣は立ち止まった。


涙が一滴だけ落ちた。


悲しいからではない。

嬉しいからでもない。


三年間。

良い妻になろうとして。

夫を理解しようとして。

我慢して。

自分さえ頑張ればいつか分かってくれると信じた。


その時間が。

ようやく終わったのだ。


結衣は涙を拭いた。

そして歩き出した。

もう振り返らなかった。


病室では。

翔太が左手でスプーンを握っていた。

震える指で、粥を掬う。

口へ運ぶ。


薄い。


今まで自分が好んで食べていたものに比べれば、驚くほど薄い。

けれど。

何度か噛むうちに。

ほんのわずかに米の甘さがした。


翔太の動きが止まる。


かつて。

結衣が作っていた料理。

大根。

出汁巻き卵。

味噌汁。


あの時も。

本当は味がなかったのではないのかもしれない。

自分が。

分かろうとしなかっただけなのかもしれない。


もう一口。

翔太は粥を食べた。

涙が頬を伝った。


今になって。

ようやく思い出す。


食卓に並んでいた料理を。

「お帰りなさい」と笑っていた妻を。

健康を心配する声を。

醤油を注いだ時の、あの顔を。


何一つ。

戻らない。


隣の病室から、雅子の声が聞こえる。

廊下を看護師が歩いていく。

窓の外では。

何事もなかったように、夕日が街を染めていた。


翔太はもう一度、薄い粥を口へ運んだ。

今度は。

ほんの少しだけ。

味がした。


それが何より。

苦かった。


――完。

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― 新着の感想 ―
翔太は会社員?昼飯や飲み会での飲食はどうしていたんだろう、他の人との食事でも醤油ドハドバ、ソースたっぷり、マヨネーズまみれとかやってたのかな? 結衣と付き合ってた時に良くバレなかったね。
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