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第2章 義母襲来



翌日の午後八時前。

残業を終えた結衣がアパートの扉を開けた瞬間、強烈な匂いが鼻を突いた。


「……なに、この匂い」


焦げた醤油。

油。

ニンニク。

それに、何種類もの調味料が混ざった、喉にまとわりつくような匂い。


換気扇が最大出力で唸っている。

嫌な予感がした。


靴を脱ぎ、急いで台所へ向かう。

そこで結衣は立ち尽くした。


派手な花柄のエプロンを身につけた、ふくよかな女性。

翔太の母――雅子だった。


「あら」


雅子は振り向き、時計を見る。


「やっと帰ってきたの?」

「お義母さん……?」

「こんな時間まで翔太を腹ペコにさせて。妻失格ね」

「どうして家に……」

「翔太に鍵を借りたのよ」


当然でしょう、とでも言いたげだった。


結衣の視線が、コンロへ向かう。

そこでさらに言葉を失った。


「あ……」


火にかけられているのは、結衣が気に入って買った白いホーロー鍋だった。

その中では。

粘り気のある真っ黒な煮汁が、ぼこぼこと沸騰していた。


「あの、それ……私の鍋……」

「そうよ? 使っちゃいけないの?」

「そういう意味じゃなくて……」


焦げ付いている。

白かった鍋肌の内側に、黒い筋がこびりついていた。


雅子は鼻を鳴らした。


「翔太から聞いたわよ」

「……何をですか?」

「あんた、毎日味のしない料理ばっかり食べさせてるんですって?」

「味がしないって……」

「男はね、もっとしっかり味を付けないと駄目なのよ」


雅子は台所に置かれた調味料を指差した。


「それに何? この小さい醤油。こんなんじゃすぐなくなるじゃない」


横には、見たこともない大型の醤油ボトル。

チューブ調味料。

粉末スープ。

焼肉のたれ。


いくつもの調味料が並んでいた。


「お義母さん、それ全部入れたんですか?」

「まだよ」


雅子は大きな袋を掴んだ。


「味が決まらないから」


袋を傾ける。

バサッ。

白い粉末が鍋へ落ちた。


「ちょっと!」


結衣は思わず手を伸ばした。


「そんなに入れたらしょっぱくなります!」

「うるさいわね」


さらに一振り。


「料理っていうのは、思い切りなの」

「でも――」

「翔太は昔からこれくらいの味が好きなのよ」


雅子はにやりと笑った。


「あんたには分からないでしょうけどね」


そして醤油を手に取る。

ドボドボドボ。


結衣は絶句した。


「それはさすがに……」

「これが愛情なの」


雅子は胸を張る。


「息子が喜ぶ味を作る。それが母親でしょう?」


結衣は何も言えなかった。


愛情。

昨日、自分が料理に込めたものも、同じ名前だったはずだ。

なのにこの人の口から出る「愛情」は、なぜこんなにも息苦しいのだろう。


ガチャリ。

玄関が開いた。


「お、すっげぇいい匂い!」


翔太だった。

リビングへ入ってくるなり、目を輝かせる。


「母さん!」

「お帰り、翔太」

「これこれ!」


翔太は食卓に置かれた黒い煮物を見るなり、子どものように喜んだ。


「こういうの食いたかったんだよ!」


結衣は翔太の顔を見た。

本気だった。

冗談でも嫌味でもない。

この人は本当に、これを美味しそうだと思っている。


「いただきます!」


翔太は大盛りの白米へ煮物を乗せ、一気に掻き込んだ。


「うまっ!」


雅子が満足そうに笑う。


「でしょう?」

「やっぱ母さん天才だわ!」


そして翔太は、結衣へ視線を向けた。


「ほら」

「……何?」

「お前も食えよ」

「私はいい」

「あ?」


翔太の声が低くなる。


「せっかく母さんが作ってくれたんだぞ」

「でも――」

「食えって」


結衣は動かなかった。

すると。


「いいから食えよ!」


怒声が飛んだ。


条件反射のように、結衣の体が硬直する。

震える手で箸を取る。

一切れ。

口へ入れた。


その瞬間。


「……っ!」


強烈な塩味が舌を刺した。

旨味も辛味も甘味も、何もかもが過剰だった。

素材の味など完全に消えている。

飲み込もうとしても、喉が拒否した。


「ゴホッ……!」


思わず咳き込む。

水を飲む。

それでも舌がひりついている。


雅子の顔が険しくなった。


「なによ、その態度」

「すみません、でも、私にはちょっと濃すぎて――」

「信じられない」


雅子は心底軽蔑したような顔をした。


「人が作った料理をそんな顔して食べるなんて」

「母さんに謝れよ」


翔太まで言う。


「翔太……」

「せっかくお前のために料理教えに来てくれたんだぞ」


その瞬間。

結衣の中で、何かがすっと冷えた。


私は。

この人たちにとって何なんだろう。


雅子が腕を組む。


「決めたわ」

「……何をですか?」

「しばらくここに泊まる」

「え?」

「翔太の食生活を立て直さなきゃ」


結衣は目を見開いた。


「ちょっと待ってください。ここは私たちの家です」

「息子の家でもあるでしょう?」

「でも同居なんて――」

「俺は賛成」


翔太が即答した。


「母さんの飯、毎日食えるし」

「翔太!」

「嫌ならお前が実家帰れば?」


あまりにも軽い言葉だった。


結衣は返事をしなかった。

いや。

できなかった。


目の前で、翔太と雅子が楽しそうに笑っている。

まるで最初から、結衣などこの家にいなかったかのように。


その夜。

二人が寝静まったあと。

結衣は一人で台所へ行った。


シンクには、黒く焦げ付いたホーロー鍋が置かれていた。

スポンジで擦ってみる。

落ちない。

もう一度。

それでも落ちない。


白かった鍋には、醜い染みが残っていた。


結衣は手を止めた。

なぜか、その鍋が。

今の自分のように思えた。

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