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第1章 醤油の海に沈む手料理



時計の針は、午後八時を少し回っていた。


「……よし。ちゃんと染みてる」


結衣は鍋の蓋を開け、大根に竹串を通した。

すっと抵抗なく入る。

鰹と昆布から取った出汁の香りが、白い湯気とともに台所へ広がった。


今日の夕食は、大根と鶏肉の煮物。

ふっくらと巻いた出汁巻き卵に、豆腐とわかめの味噌汁。炊きたての白いご飯。

どれも派手な料理ではない。


けれど、仕事帰りの体には、こういうものが一番いい。

結衣自身も、そう思っていた。


なにより――。


最近、夫の翔太がよく言っていたのだ。

胃がもたれる。

体がだるい。

朝、起きるのがつらい。


だから結衣は、昼休みにスマートフォンで献立を調べ、休日には料理本まで買った。

脂っこいものを減らそう。

塩分も少し控えよう。

それでも味気なくならないように、出汁だけは丁寧に取ろう。


共働きで、結衣も毎日のように残業している。

肩は凝るし、足はむくむ。

それでも、夫が元気になってくれるなら。

そう思って台所に立つ時間を、結衣は惜しいとは感じていなかった。


愛する人の健康を支える。

それが妻としてできることなのだと、信じていた。


ガチャリ。

玄関の扉が開いた。


「あ、翔太。お帰りなさい」


結衣は火を弱め、エプロン姿のまま玄関へ向かった。


「今ちょうどできたところ――」

「あー、疲れた」


翔太は結衣を見もしなかった。

ネクタイを乱暴に緩め、鞄をソファへ放り投げる。


「今日マジで最悪。部長うぜぇし、電車混んでるし。最悪だわ」

「そっか。大変だったね。ご飯できてるから、着替えたら――」

「腹減ってんだよ。先食う」


翔太はそのままダイニングへ向かった。

そして。

食卓を見た瞬間、露骨に顔をしかめた。


「……なんだよ、これ」


結衣の胸が、わずかにざわつく。


「大根と鶏肉の煮物。あと出汁巻きと――」

「また病院食?」


吐き捨てるような声だった。


「え……」

「最近ずっとこんなんじゃん。茶色い煮物とか豆腐とかさ。俺、老人じゃねぇんだけど」

「でも、胃がもたれるって言ってたでしょう? だから今日は油を少なくして――」

「だからって、こんな貧乏くせぇ飯にする必要ある?」


翔太は椅子に座り、大きなため息をついた。


「俺さ、仕事で疲れて帰ってきてんの。もっと肉とかニンニクとか、ガツンとくるもん食いたいわけ」

「でも――」

「見ただけでテンション下がるわ」


翔太は箸を取ると、不機嫌そうに大根を一つ口へ運んだ。

一度噛む。

その動きが止まった。

そして、眉間に深い皺が寄った。


「……まっず」


結衣の手が止まる。


「え?」

「なにこれ。お湯?」

「ちゃんと鰹節と昆布から出汁を取って――」

「味しねぇよ」


翔太は結衣の言葉を遮った。

そしてテーブルの端にあった醤油差しを掴む。


「ちょっと待って」


結衣が声を上げた時には、もう遅かった。


トクトクトクトク――。


黒い液体が、大根へ落ちる。

鶏肉へ落ちる。

薄い黄金色だった煮汁が、瞬く間に黒く染まっていく。


「翔太!」

「味ないから足してんだよ」


今度は出汁巻き卵だった。

ふっくらと焼き上げた黄色い卵の上に、醤油がどばどばと注がれていく。


結衣は、ただ見ているしかなかった。


朝、卵を買った。

昼休みにレシピを確認した。

残業を終え、急いで帰宅した。

大根が柔らかくなるまで煮た。

卵も破れないよう、一本ずつ丁寧に巻いた。


その時間が。

自分がそこへ込めたものが。

目の前で、黒い液体に沈んでいく。


醤油差しが半分ほど空になったところで、翔太はようやく手を止めた。

黒く染まった大根を一口。

今度は満足そうに頷く。


「うん。これでやっと食える」


結衣は呆然と翔太を見た。


「……それじゃ、塩分取りすぎだよ」

「は?」

「最近、体調悪いって言ってたでしょう? そんな食べ方してたら――」

「あー、もう!」


ダンッ!


翔太が拳でテーブルを叩いた。

食器が跳ねる。

結衣の肩がびくりと震えた。


「疲れて帰ってきてんのに説教すんなよ!」

「説教じゃなくて、心配して――」

「その心配がうぜぇんだよ!」


翔太は吐き捨てた。


「そもそもお前がちゃんと味のある飯作れば、醤油なんか足す必要ないだろ」

「……」

「母さんなら、こんなもん出さねぇよ」


その一言だけは、聞き慣れていた。


母さんなら。

母さんの唐揚げは。

母さんの煮物は。

母さんのカレーは。


結婚して三年。

何度その言葉を聞いただろう。


「俺の家系は濃い味なんだよ。男はガツンとした味じゃなきゃ力出ねぇの。お前みたいな貧乏舌には分からないだろうけど」


翔太はポケットからスマートフォンを取り出した。

画面を数回操作する。


「……もしもし、母さん?」


先ほどまで結衣へ向けられていた刺々しい声が、嘘のように甘くなる。


「ああ、俺。いやさあ、今日も結衣の飯がマズくてさ」


結衣は顔を上げた。


「翔太……」

「ほんと味しないんだよ。煮物とか病院食みたいなのばっかでさ。母さんの飯が恋しいわ」


電話の向こうから、甲高い笑い声が漏れてくる。


「え? マジ? 明日来てくれんの?」


結衣の背中を、冷たいものが走った。


「うん、頼むわ。こいつに本物の味ってやつ教えてやってよ」


通話が終わる。

翔太はスマートフォンをテーブルへ置いた。

そして、勝ち誇ったように笑った。


「明日の夜、母さん来るから」

「……え?」

「料理教えてくれるってさ」

「私、頼んでないけど」

「は?」


翔太の目が細くなる。


「誰のためだと思ってんだよ」


結衣は口を閉じた。


目の前には、自分が作った料理がある。

けれどもう、そこからは出汁の香りなどしなかった。

鼻を刺すような醤油の匂いだけが、食卓を支配していた。


黒い液体の底に沈んだ大根を見つめながら、結衣は思った。


どうして。

私は、この人のために、こんなに頑張っているんだろう。


その疑問はまだ小さかった。

けれど確かに、結衣の心の奥に生まれていた。

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