072 小麦粉、バター、砂糖と卵
『リリー』
目が覚める。
体が重い……。
『リリー。大丈夫?』
『かなり、うなされていましたよ』
「イリス、エイダ」
体を起こす。
すごい汗をかいてる。
今のは、何だったの?
ただの夢……?
エイダが、タオルで私の体を拭く。
「エルを呼んで来ましょうか」
「大丈夫だよ」
サイドテーブルに置いてある紅茶を飲む。
美味しい。落ち着く。
「ひと眠りしたら、良くなった気がする」
『本当に?』
「無理はしないで下さいね?」
「二人とも、心配し過ぎだよ。……シャワー、浴びて来るね」
「起きて大丈夫ですか?」
「うん。さっきよりも調子が良いよ」
夢のことは気になるけど。
今は、汗を流してすっきりしたい。
※
シャワーを浴びて、台所へ。
あぁ、すっきりした。
「エル、まだ帰ってないんだ」
『出かけたばかりのようですからね』
思ったより寝てる時間は短かったのかな。
「じゃあ、私も鍛冶屋に……」
『駄目です』
『駄目に決まってるだろ』
駄目らしい。
どうしようかな。
台所は綺麗に片付いている。
お菓子を作ろうかな?でも、チーズタルトの時に使った型は、もう返してしまったらしく、ここにはない。
あ。サブレに使える型はある。今日は、サブレを作ろう。
まずはオーブンの準備からだ。
『お菓子でも作る気?』
「うん」
『オーブンの準備なら、手伝いますよ』
「ありがとう。エイダ」
炎の精霊なら、任せて大丈夫だよね。
材料の準備をする。
小麦粉、バター、砂糖。それに、卵。
せっかくだから、ジンジャミエルも借りようかな。
ボールを出して、材料を計量していく。
『本当に、大丈夫ですか?』
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
粉は振るっておいて……。
『そうだね。調子は良さそうだよ』
『イリスは、人間の体調がわかるというの?』
『これだけ一緒に居るんだから、わかるよ』
エイダが私を心配するのは、エルのせいだよね。
「エルは、私のことを心配し過ぎだと思う。いつも、自分のことなんてそっちのけで私の心配ばかりするんだから」
ディラッシュの宿で触れた冷たいエルの手を思い出す。
私の酔い止め薬を買う為に、雨の中、あんなに体が冷えるまで探しに行くなんて。
「エルは、もっと、自分のことを大事にした方が良いと思う」
『そうね……。エルは、いつもそうだった。あなたのことばかり考えてたわ。私は、リリーの気持ちに寄り添って恋を知ろうとしていたけれど。エルも、あなたに恋をしていたのね』
バターを滑らかになるように練って……。
『エルがリリーのことを好きなのなんて、傍から見てたらすぐにわかるだろ』
『そうかしら』
「……そうなの?」
『リリーはともかく、エイダまで気付いてなかったって言うの?』
『エルがリリーを何よりも優先していたのは知っているわ。他の人に対する態度と全く違うってことも。でも、それが恋だったなんて』
あれ……?
『エイダって、あんなに愛について語ってる割りに、頭硬いんじゃない?』
『あなたほど、人間を理解できていないだけよ』
「エイダ。もしかして、恋をしてるの?」
『え?』
「違うの?」
『どうして、私が恋をしているって思うの?』
「上手く言えないけど……。私と同じな気がして」
『同じ?』
砂糖を少しずつすり混ぜていく。
「私……。エルの私に対する気持ちとか想いが、私に向けられてるものだって受け入れることが怖かったの」
『エルがしてくれることって、リリーにとっては、嬉しいことだったんじゃないの?』
「最初は嬉しかったけど……。でも、私以外にもすることなのかな、とか。私が特別なわけじゃないのかも、とか考えると、素直に喜べなくて……」
溶きほぐした卵を加えていく。
『嬉しいことなら、素直に喜んだら良いじゃないか』
「そんな簡単じゃないよ。好きだからしてくれるって思ってたのが、本当は違ったらどうしようって。エルには結婚を約束してた人だって居たのに。……言葉なんて、いくらでも嘘を吐ける。自分の気持ちですら良くわからないのに、相手の本当の気持ちなんて、もっとわからない」
『わからないの?』
『わからないんですか?自分の気持ちも?』
「うん。わからないよ」
ジンジャミエルを生地に加える。
『リリーは、エルが好きなんだよね?』
「好きだよ。エルは、私にとって特別な存在。他の人と全然違う。気づいたら、ずっと考えてる。もっと知りたくて。いつまでも見ていたくて。気が付いたら仕草を追ってる」
長い睫毛、優しい紅の瞳。柔らかい金色の髪。私より大きな手。
眼鏡が似合うところも好き。読書をしてる時に動く視線も。集中してる時の真剣な眼差しも。いつも繋いでくれる手も。歩く速さを合わせてくれるところも。ワインを飲んで少し酔った顔も。寝起きの声も。キスしてくれることも。
「好きなところがたくさんあり過ぎて。なのに、どんどん好きになっていくの。最初は、ただ、好きで居られれば良かった。エルの傍に居られるだけで、幸せだった。でも、エルが私にする色んな事が、私にとってどれだけ嬉しいことでも、エルにとっては特に意味のないことだって知るのが、悲しかった」
『どういうこと?』
「だって……」
ふるった粉を加えて混ぜていく。
「私がどれだけドキドキしてても、エルって、全然、顔に出ないんだもん」
一緒に暮らそうって言ってくれた時だって、すぐに話を逸らされてしまったから。
「だから、私に言うことって、誰にでも言うのかなって」
『あぁ……。そういうところはあるよね』
『エルは、他人と旅なんてしませんよ。複数人で行う依頼でも、私と組んでいることにして、基本的に一人で行動していますから』
それも、初めて知ったことだ。
「だから、ずっと、信じられなかった。エルが、そこまで私のことを愛して大切にしてくれてたなんて」
全然、気付かなかったから。
『今は、信じてるの?』
「うん。信じてる」
出来上がった生地を、ひとまとめにする。
『信じる?エルがあなたのことを愛してるのは事実ではないの?』
オーブンの準備も良さそうだし、このまま焼く準備をしようかな。
「気持ちに事実なんてないよ。だから、信じるの。信じてもらえるように、努力するの」
『難しいわ』
生地を、めん棒で伸ばしていく。
「気持ちも考えも、いくらでも移り変わるものだから。私は、私がエルを愛してるって気持ちを信じてる。湧き上がってくる気持ちを、エルへの想いを大切にしてる。……そして、エルも同じように私を愛してくれていて、その気持ちを大切にしてくれてるんだって信じてる」
『愛は、信じなければ存在しないものなの?そんな不確かなものを、人間は愛と呼んでいるの?』
「不確かじゃないよ。確かなの。エルは、私を信じさせてくれる。その愛で」
伸ばした生地を型で抜いていく。
『気持ちを信じることで愛の存在を証明するのに、愛によってそれが確かなものであると信じるというの?』
「うん」
それは、きっと間違いない。
「難しいよね。でも、エイダの気持ちならわかる。きっと、今のエイダは自分の気持ちを外に出すのが怖いんだと思う」
『私が、怖がっていると言うの?』
「たぶん。気持ちって、すごく大切なもので……。自分の中にある間は安全なんだけど。でも、外に出したら、壊れてしまう可能性があるから。壊れるぐらいなら、誰の目にも触れずにそのまま持っていた方が楽だって思ってしまう」
私は、壊したくなかった。
いつか自分の気持ちが否定されるのが怖くて。本当は違うって言われるのが怖くて。
「でもね。エルは、何度も私に言葉をくれて、勇気をくれたから。エルのおかげで、自分の気持ちもエルの気持ちも否定せずに、全部、信じられるようになったの」
だから、告白できた。
「私、エルを愛してる」
もう一度、生地をひとまとめにする。
「エイダも、恋をしてるんだよね?」
『そう見える?』
「ちょっと前の私と同じだと思う」
告白出来なかった時の私と。
『そうね……。リリーが話してること、理解できるわ。私たちには、お互いを信じ合う勇気も、愛を信じる勇気もなかった』
私たち?
「エイダの好きな人って?」
エイダが微笑む。
『もう少し、勇気が出た時に話すわ』
「わかった。頑張って、エイダ」
自分の気持ちを外に出すことは、とても怖いことだけど。
どんな結果であっても、必ず、今より一歩進める。




