↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
299/302

強い

「おやっさん!」


 ノブロの顔が希望を見出したように沸く。声の主――伝説のトレーナー、エドワード・ダマト・ダンペーはアフロ王の手を借りてリングサイドによじ登った。


「今までどこにいたんだよ!」


 ノブロの非難めいた視線に、エドワードは呆れたような表情で答える。


「何を言うとるんじゃ。わっしに断りもせず勝手にエキシビジョンマッチなんぞおっぱじめおってからに。おかげで今年のマッチメイクの予定が全部狂うてしもうたわ」


 エドワードの愚痴を一切無視して、ノブロはエドワードに詰め寄った。


「この血、止めてくれ! おやっさんならできるだろ!?」


 エドワードは苦笑し、そして真剣な瞳でノブロを見据えた。


「血を止めりゃ、闘わにゃならんぞ。ここで終わったほうが楽かもしらん」

「ダメなんだよ! ここで終わっちゃダメなんだ!」


 ノブロは必死の形相で訴える。エドワードは眉を寄せ、不可解そうに言った。


「お前さん、何をしようとしとる?」


 ノブロは挑むようにエドワードを、いや世界をにらむ。


「俺は、知りてぇんだ」

「何を?」


 濁りのない目でノブロは即答した。


「ボクシングの力!」


 エドワードが意外なものを見たように大きく目を見開く。ノブロは揺らがぬ瞳でエドワードを見ている。ふっと力を抜くように笑って、エドワードは横にいるアフロ王に右手を差し出した。


「綿棒」


 アフロ王が心得ていたと言うように手早く綿棒を渡す。エドワードは懐からアドレナリン液を取り出し、渡された綿棒でノブロの傷口に塗り付けた。仕上げにワセリンを塗りつけ、エドワードはバチンとノブロの頬を両手で挟む。


「叫べっ!」

「うおぉぉーーーーーっ!!」


 ノブロが素直に叫び声を上げる。すると、まるで魔法のように瞼の出血が止まった。ノブロがドクターを振り向く。ドクターは驚いたようにノブロを見つめ、レフェリーに向かってうなずきを返した。試合続行――その判断に観客から歓声が上がる。ノブロが安堵の息を吐き、アレクサンデルが冷めた目で鼻を鳴らした。




「ファイト!」


 レフェリーの声と同時に、アレクサンデルは猛然とノブロに襲い掛かる。第六ラウンド残り一分二十四秒。充分に倒せる時間だ。次ラウンドに持ち越すつもりはないのだろう、今まで距離を取っていたのが嘘のように、アレクサンデルは最短距離でノブロに迫る。

 一方のノブロはガードを上げ、アレクサンデルを迎え撃つ姿勢だ。血が止まったとはいえ、再び顔にクリーンヒットを浴びれば傷口は開くだろう。そうなれば今度こそドクターストップ、ノブロの負けが確定する。足を使って避ける器用さもないノブロには、ガードを上げて打撃を防ぐ以外の選択肢がない。そうなれば必然、ボディのガードは薄くなる。そして、それを見逃してくれるほどアレクサンデルは甘くない。


 バシンッ!


 アレクサンデルの左がノブロの脇腹に突き刺さる。ノブロは歯を食いしばってそれに耐える。アレクサンデルの狙いはガードを下げさせること。ガードを下げた瞬間に、ノブロの傷口を狙った拳が飛んでくる。ガードは、下げられない。


 バシンッ!


 躊躇なく放たれた右のボディが右脇腹を抉り、ノブロは小さくうめき声を上げた。ガードは下げない。さらに左のダブル、からの切り返しの右。ノブロの息が止まる。それでも、ノブロはガードを下げない。


「タフにもほどがある」


 苛立たしげにアレクサンデルがつぶやく。無酸素運動が途切れ、攻撃にわずかな隙間ができた。『精密機械』アレクサンデルのKOを期待したファンの歓声と、『殴り屋』ノブロの逆転を祈る観客の悲鳴が交錯する。途切れた攻撃の間隙を突き、ノブロが右を強振する。アレクサンデルは冷静にガードを上げる。

今までならアレクサンデルは距離を取って拳を躱していた。だが、流れを止めたくなかったのだろう。彼はノブロの拳をガードすることを選んだ。ガードでパンチを弾き、返す刀で顔面にフィニッシュブローを見舞う――そんな筋書きを描いていたのだろう。アレクサンデルはこの試合の中で、一度もノブロのパンチを受けたことがなかった。だから、知らなかったのだ。ノブロの拳の威力を。


 ズドンッ!


 重く鈍い音がリングに響く。ノブロの右拳はアレクサンデルに完全にガードされていた。しかし、完全にガードされたその拳はアレクサンデルの身体を浮かせ、よろけるように三歩、アレクサンデルを後退させた。アレクサンデルの目が驚きに見開かれる。呆然とノブロを見るアレクサンデルに、


「……当たるじゃねぇか」


 ノブロはにぃっと笑みを浮かべた。




 ノブロが再びガードを上げ、アレクサンデルを正面に見据える。アレクサンデルは弾かれたように距離を取った。一気に畳みかける――そう思っていた観客席からどよめきが上がる。デジャヴのように、アレクサンデルはサークリングを再開した。


「決まりましたね」


 アフロ王がリングを見つめながらエドワードに話しかける。エドワードもまた、リングの二人を見つつ答えた。


「じゃな」


 ノブロは小さく上半身を揺すりながら近付こうとし、アレクサンデルは距離を保つ。第一ラウンドと変わらない光景がある。しかしアフロ王とエドワードは、今までとは決定的に違うことに気付いていた。


「半歩、遠い」


 アフロ王の呟きに、エドワードはよくできましたとばかりに目を細める。第一ラウンドと今の決定的な差――それは、アレクサンデルとノブロの距離にある。アレクサンデルはノブロとの距離を、当初より半歩分多く取るようになっていた。おそらくは、無意識に。


「円が歪んじょる」


ノブロが距離を詰めようとするとアレクサンデルは詰められた距離プラス半歩分の距離を取る。今までほぼ正円を描いていた彼のサークリングが、その半歩分によって歪な楕円に変わっていた。そして、明らかにノブロに対して踏み込む回数が減っている。それが意味するところは、つまり――


「アレクサンデルはノブロを恐れている」


 ポイントでは圧倒的にリードしている。TKO寸前まで追い詰めた。にもかかわらず、アレクサンデルの顔から一切の余裕が消えていた。ガードの上から叩きつけられた、有効打ですらないノブロの一撃――それが、精密機械の計算を狂わせていた。


「十八戦全勝なんぞ出来過ぎじゃ。負けるのも勉強と、黙って見とくつもりじゃったんじゃがなぁ」


 エドワードは自分自身に呆れたように苦笑いを浮かべる。


「いざとなったら、惜しいと思っちまったんじゃよ」


 ノブロが愚直に一歩を踏み出す。エドワードはその背を見つめた。


「王者の道(チャンピオンロード)を駆けるあやつを、もうちょっと見ていたいとな」


 アフロ王はうなずき、少しだけうらやましそうな表情を浮かべてノブロを見ていた。




 ノブロが一歩を踏み出す。アレクサンデルが距離を取る。向きを変え、ノブロが踏み込む。反対側にアレクサンデルが逃げる。そう、アレクサンデルは今、逃げている。今までは『どう追い詰めるか』で動いていた。今は『どう逃れるか』で動いている。しかしそれは、ボクシングというスポーツの中での悪手だった。

 ノブロが右に足を出す。アレクサンデルが逃げる。左に踏み出す。空間が削れる。逃げる。ノブロが大きく踏み込む。弾かれたように下がり――背に触れる固い感触にアレクサンデルの顔が強張った。彼の後ろにはコーナーポストがある。まだ、そうあと半歩分、コーナーポストは後ろにあるはずだったのだろう。右に逃れようとしたアレクサンデルに、ノブロが牽制の左ジャブを放つ。逃げ道を塞がれ、苦し紛れに放たれたアレクサンデルの右を沈み込んでかわし――ノブロの右が、アレクサンデルのボディを捉える。


――ズドンッ


 鈍い音が響く。アレクサンデルの身体がくの字に曲がった。ノブロの目がギラリと光る。アレクサンデルが引きつった顔でノブロを見る。左の拳を固め、ノブロは渾身のストレートを放った。


――バシンッ


 ノブロの拳がコーナーポストを打つ。アレクサンデルは膝から崩れ、リングに倒れていた。レフェリーが割って入り、腕を交差させる。けたたましくゴングが鳴った。


 第六ラウンド二分五十九秒、TKO。ノブロがこの試合で放った唯一の有効打は劇的な幕切れを生み、まるで奇跡を目の当たりにしたように、観客席は静まり返った。




 ノブロがリングの中央に退き、アレクサンデルのセコンドがロープをくぐって駆け寄る。アレクサンデルに意識はあるようだが、ボディに食らったダメージは深刻らしく、自力で立てないようだ。担架を呼ぼうとするセコンドをアレクサンデルが制し、歯を食いしばって身を起こそうとする。セコンドが両脇から支え、アレクサンデルは半身を起こしてコーナーポストに背を預けた。会場は未だ静まり返り、目の前の光景を疑っている。ただの一撃で試合をひっくり返した。そんな嘘みたいな結末が、本当に――? 観客の行き場のない感情が渦を巻いている。

 ノブロはアレクサンデルをじっと見つめた。アレクサンデルはノブロをにらみつける。視線を正面から受け取め、ノブロは静かに口を開いた。


「ずっと、考えてた。ボクシングって何なのか。俺には何ができんのか。でも、俺ぁアタマが悪ぃからよ。ずっとグルグルしてた。俺ぁボクシングしかできねぇけど、ボクシングを通じて、俺ぁなんかできんのか。できねぇのか。ボクシングに、何ができんのか」


 静かな会場にノブロの声だけが広がる。何を言いたいのか分からないと言うようにアレクサンデルは眉を寄せた。ノブロは腫れあがった顔でにぱっと笑った。


「あんた、強ぇなぁ」


 あまりに単純な賞賛にアレクサンデルがぽかんとした顔になる。ノブロはカラッとした笑顔のままに言葉を続けた。


「戦ってる間ずっと、ヒリヒリして、ゾクゾクして、怖くて痛くて、すんげー楽しかった!」


 ノブロは右の拳を顔の前に掲げる。


「なんつーかさ、こう、なんか、強くなってくって、思えたんだよ。自分が、試合の中でさ。気のせーかもしんねーけど。でも、なんか、ぜってーそうなんだ」


 たどたどしく、確かな熱を持って、ノブロは拳をアレクサンデルに向けた。


「もっかいやったら、あんたは今よりもっと強ぇだろ?」

「当然だ!」


 険しい顔で叫びを返し、アレクサンデルは腹を押さえて身体を曲げる。確信を得たように大きくうなずき、ノブロは言った。


「それが、きっと、ボクシングなんだ。負けても終わりじゃねぇし、勝っても終われねぇ。戦って、戦って、戦った先に、世界がちょっと楽しくなんだ。面白れぇ試合だったって、人間ってすげぇな、ってなんだ」


 そこまで言って、ノブロは表情を改め、拳を下ろす。


「戦争はさ、ダメなんだよ。殺して、壊して、終わっちまう。負けたら消える。勝って終わらせる。戦争の先にゃ、世界が寂しくなってんだ。面白れぇも、すげぇも、何にもねぇんだ」


 ノブロは背を伸ばし、真剣な眼差しをアレクサンデルに向けた。


「あんたと戦えてよかった。あんたと戦ってはっきりわかった」


 大きく息を吸いこみ、会場に、いや世界に響かせようとするかのように、ノブロは天に向かって吠えた。


「ボクシングは、戦争より、強ぇ!!」


 にやりと笑い、ノブロはアレクサンデルを見る。


「だろ?」


 アレクサンデルは思わすといった様子で吹き出した。


「なんだ、それは」


 腹を押さえながら、アレクサンデルは苦しそうに笑う。自信が揺らいだのか、ノブロは視線をさまよわせた。


「え、間違ってっか?」

「いや」


 アレクサンデルは首を振り、観客席を指さす。


――パチ、パチ、パチ


 観客席の片隅から、一人分の拍手が上がった。


――パチ、パチパチ


 後ろから、


――パチパチパチ


 正面から、拍手の音が聞こえる。それは会場に伝播し、やがて会場全体を揺るがす轟音となった。


――のっぶっろ!

――のっぶっろ!


 観客席からノブロの名を呼ぶ声が聞こえる。それは勝者を、いやボクシングを讃える人々の熱狂だった。ノブロは驚いたようにぐるりと観客席を見渡し――嬉しそうに、笑った。




 観客席の後ろから、人々の熱狂を眺めるアディシェスの将が苦笑いを浮かべる。ノブロという一人の男が、ボクシングというスポーツの力で兵を魅了し、無力化した。もはやアディシェス兵はノブロを殺せないだろう。戦争で敵を殺せないということは、勝てないということだ。


「我が軍にアレクサンデルを超えるボクサーはおりません。どうなさいますか?」


 隣にいた副将が冷静に告げる。将はどこか清々しい様子で笑った。


「ボクシングは戦争より強い、だそうだ。ならば、戦争しか知らん我らに勝ち目はなかろう」


 確かに、と副将は真面目くさった顔でうなずく。それに、と将は言葉を続けた。


「俺自身が、見たいと思ってしまったのだ。ノブロとアレクサンデルの再戦を」


 確かに、と再び副将がうなずく。将は小さく笑って、声を張り上げた。


「撤退せよ! ケテルと、それを守った男たちに最大の敬意を!!」


 会場のノブロコールは未だ止まず、熱気と興奮は密度を増す。己の成し遂げたことの意味を自覚しないまま、ノブロは拳を掲げて人々の歓声に応えていた。




――ケテル東側防衛戦、ノブロ VS アディシェス軍


 勝者、ボクシング。


殺して、壊して、何千年前からいつまでやってんだ。そんなことよりボクシングやれバカヤロウ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
今この時代に読むと、より刺さりますね( ˘ω˘ )
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。