挑戦者
「青コーナー、十八戦十八勝十八KO、百六十七パウンド三分の二、東洋太平洋スーパーミドル級チャンピオン、WBAC世界ランキング八位、『殴り屋』ノォーブルォォーーーーッ!!」
リングアナウンサーが青コーナー側を指し、過剰な巻き舌で挑戦者の名を呼んだ。野太い歓声が会場を包む。花道で差し出されたファンの手を弾きながら、ノブロは軽い身のこなしでリングに上がった。アフロ王の力によって、ノブロの連戦の疲労は完全に回復したようだ。魔法の凄さ、というか卑怯さを改めて感じる。
「赤コーナー、二十二戦二十一勝一敗十一KO、百六十八パウンド、WBACスーパーミドル級世界ランキング三位、『精密機械』アレクサンデルゥーーーーーヴェントレェェェーーーーイィィーーーーー!!」
コールに応えて周囲から雷鳴のような歓声が上がる。赤コーナー側から現れたのは、ネコ科の猛獣を思わせるしなやかな体つきをした白人男性だった。歓声の半分以上が女性の声。彼が軽く手を上げて微笑むと、会場のあちこちで悲鳴に似た至福と共に気絶者が現れる。荒事のイメージにそぐわぬ甘いマスクは、ボクシングというスポーツの新たな客層を開拓しているらしい。そしてそれを快く思わない野郎どもが今、ノブロを応援してくれている。
アレクサンデルはファンに一通り応えると、リングの中央に歩みを進める。ノブロもまた、中央に進み出る。レフェリーがルールを説明し、二人は互いのグローブを確認し合った。アレクサンデルは柔和な笑顔をノブロに向けた。
「エキシビジョンマッチとはいえ、まさかこんなところで君と戦うことになるとはね。君との試合は二年後くらいを想定していたのに」
「二年後?」
唐突に出てきた具体的な数字にノブロは眉を寄せる。アレクサンデルは気やすい様子でうなずきを返した。
「そう、二年後。タイトルマッチでアフロ王を倒し、王座防衛の第三戦あたりで君と戦う予定だった。でもアフロ王に逃げられてしまったでしょう? 正直、気持ちを持て余していたところだったんだ」
にこやかに、事実のように未来を語るアレクサンデルをノブロはにらむ。
「アフロ王は逃げてねぇ」
「そうかな? こちらが試合を申し込んだ直後の王座返上と階級変更。逃げた、と言われても仕方ないんじゃないかな?」
ノブロのにらむ目が険しさを増す。はぐらかすようにアレクサンデルは笑った。
「どうかお手柔らかに、ノブロ君。勝っても負けてもランキングに影響しないし、私も下位ランカーに負けてる場合じゃないんだ。さっさと君を片付けて、空の王座は私がいただく」
アレクサンデルはノブロの肩越しに青コーナーに――そこにいるアフロ王に視線を向け、一瞬だけ激しい憎悪を滲ませると、背を向けて赤コーナーに戻る。ノブロは不快そうに鼻を鳴らして青コーナーに向かった。セコンドのアフロ王がノブロに声を掛ける。
「アレクサンデルの動きは頭に入っているな?」
ノブロはややうんざりした様子で息を吐いた。
「嫌なタイプだとは思ってたけどよ。今話したら嫌な奴だったわ」
ノブロはオーソドックススタイルのベタ足ファイターで、その剛腕は当たれば相手を沈めるだけの威力がある。『殴り屋』の異名はクロスレンジでの応酬に一歩も退かない姿から付いたものだが、額が触れるほどの超近距離戦がノブロの本領だ。一方でアレクサンデルは基本アウトボックススタイルのクレバーな試合運びが持ち味、だが戦歴の半分以上をKO勝ちしている。パンチがない選手ではなく、KO勝ちにこだわらない――ポイントの取り方もダウンの取り方も心得ている、厄介な選手なのだ。
「嫌な物言いも駆け引きの内だ。アレクサンデルは無駄なことはしない」
アフロ王は軽くノブロの肩を叩いた。ウォームアップされた筋肉はノブロの身体をいつもより大きく見せている。ノブロは雑念を払うように大きく息を吐いた。アフロ王の口調が厳しいものに変わる。
「やることは分かっているな?」
「まず、当てる」
「上出来だ」
マウスピースを嵌め、ノブロはリングを振り返る。対面にアレクサンデルの姿がある。先ほどの侮るような気安さは完全に消え、獲物の喉を噛みちぎらんとこちらを見据える猛獣がそこにいた。ノブロがにぃ、と笑みを浮かべる。
「行ってこい!」
アフロ王がノブロの背を押す。レフェリーが二人を中央に招く。ゴングが鳴り、二人が中央に進み出て、軽く拳を合わせ――
――闘いが始まった。
第一ラウンド。
ノブロは基本に忠実に、ガードを上げやや背を縮めて、細かく身体を左右に揺らしながら相手の様子を窺う。対するアレクサンデルはリング中央にいるノブロを中心に円を描くように回っている。ノブロが踏み出せば同じ距離だけ下がり、時折踏み込む素振りを見せて反応を見る。アレクサンデルはガードを上げず、ステップを見せつけるようにサークリングを続ける。キュッキュッというボクシングシューズがマットを踏む音が聞こえる。
試合開始一分、観客と、そしてノブロが焦れ始めたその時、アレクサンデルが自ら踏み込み距離を縮めた。不意を打たれたか、ノブロの反応が半瞬遅れる。両者の腕が届かない絶対安全圏から、中距離を飛び越えての至近距離。ノブロの手打ちの拳を簡単にかわし、アレクサンデルの左ジャブがノブロの顔面を捕らえる。ノブロは被弾しながら大ぶりの右フックを放った。しかしすでにそこにアレクサンデルの姿はない。彼はすでにノブロの拳が届かない距離まで下がり、リズムを取るようにサークリングを再開しながらノブロを見ていた。
――至近距離なら自分が上と思っていたか?
アレクサンドルが挑発するようにノブロを見る。いや、実際にこれは挑発なのだ。クリーンヒットした左ジャブはノブロにほとんどダメージを与えていない。グローブで右頬を拭い、ノブロはアレクサンデルを厳しくにらんだ。
第二ラウンド。
アレクサンデルの距離を取る戦術は変わらず、第一ラウンドと同じ光景が続く。ノブロが前に出てもアレクサンデルは迎え撃とうとはしない。距離を決める権利は自分にあるのだと言わんばかりに、ノブロの思い通りの展開を許さない。ノブロは身体を左右に揺すり、牽制のジャブを放って、相手の移動可能な空間を削ろうとする。しかしやっとコーナーに追い詰めたと思ったとたん、アレクサンデルは突進するノブロをいなしてぬるりとコーナーから脱出した。
「……コーナーワークが抜群にうまい」
セコンドでアフロ王が感心したようにつぶやく。脱出の際に置き土産のようにジャブを喰らわせ、アレクサンデルはリング中央に戻った。ノブロが奥歯を強く噛む。その顔の右半分が腫れて熱を持った。
第三ラウンド。
アレクサンデルの足は衰えを見せず、華麗なフットワークでノブロを翻弄し続ける。ノブロの拳はことごとく空を切り、アレクサンデルは左ジャブだけでノブロを制していた。距離を取り、相手を焦らし、隙を逃さず、刺して逃げる。急いてダウンを狙いに行かないのはノブロの一発を警戒しているからだろう。ノブロに自分のボクシングをさせないことを徹底している。ノブロにとってアレクサンデルは相性最悪の相手だ。
――パシン
ノブロの顔を打つ軽い音がリングに広がる。アレクサンデルはおそらくわざと、ジャブに力を込めていない。侮りか、別の意図があるのか分からないが、彼のジャブは軽い。ノブロはそのことに怒りを覚えているようだった。
――パシン
再びノブロの顔を打つ。ノブロは前進の足を止め――ず、強引に身体をアレクサンデルの懐にねじ込んだ! アレクサンデルが軽く目を見張る。額が触れるほどの距離で二人が向かい合う。ようやく拳の届く距離にアレクサンデルを捉え、ノブロの左拳が脇腹を狙った。アレクサンデルはバックステップでそれをかわす。ノブロはさらに踏み込み、渾身の力を込めて右のボディを放った。アレクサンデルはさらに退き――彼の背をローブが阻む。
――喰らえ!
ノブロの顔に確信の笑みが浮かぶ。ノブロとロープの間に逃げる隙間はない。当たる。当たれば倒せる。ノブロの右がアレクサンデルの脇腹に突き刺さ――
――ブンッ
拳が空を切る音がやけに大きく聞こえる。逃げ場のないはずの空間から、アレクサンデルの身体が消えていた。ノブロが大きく目を見開く。ロープが大きく後ろにしなり、リング上に存在しないはずの空間を作り出していた。アレクサンデルは背をロープに強く押し付け、リングを広げたのだ。
――バシンッ
ロープの反動で勢いを増したジャブがノブロを襲う。ノブロはひるまず左フックを見舞った。アレクサンデルは再びロープをたわませ、ノブロの拳を避ける。ロープ際に追い詰められ、至近距離で暴風のように放たれる拳の連打を、アレクサンデルは芸術的なロープワークですべてかわしていく。信じられないものを見ているように会場が静まり返る。ノブロの大振りの右フックに被せるように放った左がカウンター気味にノブロの顔面に突き刺さる。ノブロが動きを止め――崩れるように膝をついた。
ロープ際に追い詰められたはずの人間が無傷で、追い詰めていたはずの人間が倒れた。
そんな魔法のような光景に、会場が一斉に沸いた。
レフェリーが無情にカウントを取り始める。ノブロは軽く首を振り、立ち上がってファイティングポーズを取ろうとする。アフロ王がセコンドから叫んだ。
「ギリギリまで休め!」
ノブロは腕を下げ、大きく息をする。カウントが9になったところで、ノブロはファイティングポーズを取った。続行の意志を認め、レフェリーが再開を宣言する。同時にアレクサンデルの拳がノブロを襲い――鼻先でぴたりと止まった。第三ラウンドの終了のゴングが鳴り響いていた。
第四ラウンド、第五ラウンドと回を重ね、ノブロの傷だけが増えていく。右の瞼が腫れあがり、半ば視界を遮っているようだった。アレクサンデルが執拗に軽い左ジャブの連打を繰り返していたのは、おそらくこれを狙っていたのだ。力を込めた拳は疲労が激しい。体力を温存しつつ相手の視界を奪う。つまり、第五ラウンドまではアレクサンデルの仕込みの時間だった、ということだ。そして仕込みが終わった今、アレクサンデルはノブロを倒しにかかるだろう。この試合は彼にとってただの通過点に過ぎない。できるだけ傷を受けず、疲労を残さず、手早く終わらせるもの。彼はすでに次を見据えている。
第六ラウンドまでのインターバル。ノブロは、青コーナーに座っている。顔が青く腫れあがっているだけではない、疲労はすでにピークに近く、肩で荒く息を吐いている。何度繰り出しても空を切る拳は、ノブロの精神と体力を同時に削っていた。アフロ王は氷袋をノブロの腫れに押し付ける。
「まだいけるか?」
口を水ですすぎ、血混じりに吐き出して、ノブロは答えた。
「当たる気がしねぇよ」
アフロ王は冷徹に問い返す。
「もうやめるか?」
ノブロは小さく首を横に振った。
「まだ答えが見えてねぇ。そこまではやるさ」
ノブロが立ち上がる。アフロ王がリングを出る。第六ラウンドのゴングが鳴る。半ば塞がれた右目は、まだ死んではいなかった。
ゴングと同時に、アレクサンデルは一気に距離を詰める。もう離れて戦う必要はない。ここで決着を付けるという意志が伝わってくる。ノブロはガードを固め、スタンスを広くとって正面からアレクサンデルを迎え撃つ。打ち合いならノブロの土俵、ここで退いては勝機はないのだ。
アレクサンデルは中距離まで近づき、左のジャブを放つ。ノブロはガードで防ぎ、素早く左ジャブを返した。アレクサンデルは右でノブロの左ジャブを外側に払った。ノブロの身体が開く。ノブロは右ストレートでアレクサンデルの頭を狙う。アレクサンドルはスウェーバックでそれをかわす。ノブロの伸び切った右拳がアレクサンデルの鼻先で止まった。完全に距離を見切られている。
ノブロが右腕を引くのに合わせてアレクサンデルが前に出る。ノブロの左フックを沈み込んでかわし、アレクサンデルの右がノブロのボディに突き刺さった。ノブロが目を見開き、その身体がくの字に曲がる。無防備に下がったノブロの頭を、アレクサンデルの左ストレートが撃ち抜く。ノブロの顔が後ろに弾けた。アレクサンデルは右の拳を強く握り、大きく腕を引いて――
「ストップ!」
最後の一撃を遮り、レフェリーが身体を張って二人に割って入る。アレクサンデルが不満そうな表情を浮かべ、すぐに拳を引いた。彼の目の前には顔の右半分が赤く染まった対戦相手がいる。さっきの左ストレートがノブロの瞼を裂き、派手な出血を引き起こしたのだ。試合が一時中断され、ノブロはセコンドに戻る。珍しく焦りを滲ませ、ノブロはアフロ王に叫んだ。
「血を止めてくれ! まだ終われねぇんだ!」
アフロ王は苦い顔を浮かべる。傷は筋膜にまでは達していないようだが、それでもかなり深い。ここで可能な応急処置程度で血が止められるか――それを判断しかねているのだろう。もちろん、魔王として力を振るえばこんな傷の治療など容易い。しかしそれをすれば、この試合はボクシングではなくなるのだ。
「この傷は、私では――」
タオルで血を拭いながら、アフロ王は呻くように言った。ドクターチェックで血が止まらないと判定されれば、ノブロの負けだ。そもそも今までの試合展開を見れば、ほとんど一方的な試合と言っていい。僅差でどちらに転ぶか、という試合ならともかく、怪我をおして続行させる理由をドクターは見出さないだろう。誰が見ても大丈夫なレベルで血を止めなければ、ドクターストップは免れられない。
ノブロが両手でロープを掴み、やり場のない感情を吠える。アフロ王が唇を噛んだ。ドクターがこちらを見ている。時間は、ない。アレクサンデルが確信に拳を握り、レフェリーがドクターに駆け寄り、ドクターが首を横に振って――
「難儀しとるかい、お兄ちゃん」
不意に聞こえた声に、ノブロは驚きと共に顔を上げた。
WBAのような、WBCのような組織。それがWBAC。




