ほどけぬ縞
一
明治三十七年初冬。
初夏の出征から数ヶ月が経ち、季節は雪がちらつく冬へと移り変わっていた。新聞の号外が伝える華々しい戦果と、毎日のように村へ届く「戦死の公報」が、残された人々の心をじわじわと蝕んでいる。
「諸君、御国のために身を捧げる誉れを胸に刻まれよ。生きて再び故郷の土を踏むと思うなかれ。生への執着を捨ててこそ、武人の魂は不滅となる――」
誠照寺の老僧が京訛りで語った低く重い声が千代の脳裡に残響となって張り付いている。新婚の幸福は、真夜中に届いた一枚の赤紙によって一瞬にして粉砕された。
「この藍の糸が、あんたの命を嶋野の家に繋ぎ止めるんや。どれほど遠い戦場へ行こうと、うらが毎日、この縞の続きを織って待っとるで。ほやから、生きて、帰ってきて。あんたぁ」
自身が織り上げたばかりの、深く、どこまでも丈夫な藍色の石田縞の端布を、夫の清吉が背負う背嚢の紐へ、二人の絆のよう引きちぎられぬようにと、固く結び付けた。夫の能面のような顔が、一瞬だけ歪み、彼は自分の胸元に刻まれた『嶋野清吉』の名札と、背中の藍色の結び目を交互に見つめ、小さく、だが力強く頷いた。
その翌朝、鯖江駅のホームを揺るがした万歳三唱の嵐の中から、清吉は旅立っていった。残された石田村の暗い部屋で、千代は織り機に向かう。
ガッチャン、バッタン。
千代が鳴らす機織りの音は、誠照寺の本堂で聞き流したあの「死の訓話」を打ち消すように、清吉の心臓の鼓動の代わりとなって、静まり返った村の夜に響き渡るのだった。
そんな陰鬱としたある日の夕暮れ、糸の仕入れから戻った千代は、集落の中央にある地蔵堂の前で異様な人だかりと激しい怒号に遭遇した。
「御国のために名誉の戦死を遂げたんやぞ!」
竹槍を握りしめた男が、目を血走らせて叫ぶ。その足元には、息子の戦死公報を抱えて泥の中にへたり込み、咽び泣く老夫婦がいた。その男に食ってかかる農夫は檄を飛ばす男の胸ぐらを掴み、溜まった鬱憤をぶちまけた。
「勝ち戦、勝ち戦と新聞は騒ぐが、我が子を肉団子のように突撃させて、何が名誉なものか!」
「うるさいッ!」
食って掛かった農夫を突き飛ばし、竹槍を突きつけながら男は狂ったように笑った。
「どいつもこいつも、甘ったれた泣き言を言いやがって!
非国民の恥晒しめが。御国のために死ぬ以上の誉れがどこにある!」
国家の大義を説く熱に浮かされた者と、その熱とは真逆の泥まみれの生身の怒りと狂気が渦巻く。千代は風呂敷包みを強く抱きしめ、息を潜めて通り過ぎようとした。だが、我が子を亡くして正気を失いかけていた男の目が、冷酷に千代を捉える。
「おい、嶋野の嫁。何を他人事のような顔をして歩いとる」
男の鋭い声に、騒然としていた群衆がしんと静まり、その視線が一斉に千代へと集まった。
「嶋野んとこの倅も死んどるわぁ。旅順で生き残ったわずかな兵も、今度こそ全滅やと。帰らぬ骨を待って何になる、お前も早う御国のために泣け。御国が名誉の戦死をお膳立てしてくれとるんや!」
「名誉」という名の呪いが、千代の鼓膜を容赦なく引き裂くようだった。
ドクン、と千代の心臓が激しく跳ねた。頭の芯がカッと熱くなる。
清吉が死んだ?
御国が死をお膳立てした?
ただ泣いて諦めろと?
ふざけるな。あのお寺で固く結んだ藍の糸が、嶋野の糸がそんなもので切れてたまるか。千代は群衆に向き直ると、腹の底から、あらん限りの声を絞り出して叫んだ。
「生きとる、あの人は生きとる!」
それは村の狂気に対する、千代の魂の宣戦布告だった。誰もが身内を亡くした村で、まだ戦死公報の届いていない嶋野家への、八つ当たりのような呪詛に対する。
「あの人は絶対に死なん。うらがこの手で、嶋野の糸を結んだんや!」
言い放つと同時に、千代は踵を返した。背後の嘲笑や罵声、羨望と嫉妬が混じった暗い視線を置き去りにして、嶋野家の敷地内にある機織り小屋へと駆け込む。バタン、と激しく木の扉を閉め、内側からかんぬきをかける。外の世界の狂った怒号を遮断した薄暗い小屋の中で、千代は風呂敷包みを投げ捨てると、まだ冷え切った織り機の前に滑り込んだ。涙で視界が真っ暗になる。それでも、清吉を戦場の泥から引き戻すため、千代は狂ったように踏み板を踏み、杼を左右に走らせた。
「生きとる、生きとる、生きとる」
静まり返った雪夜の石田村に、地獄の呪詛を撥ね退けるような、圧倒的な音塊が響き渡る。
織り機が鳴らす音は、そのまま千代の祈りとなり、清吉の心臓の鼓動となって暗闇を震わせる。村人が「嶋野の嫁は狂った」と囁こうとも構わない。千代は一心不乱に、ただ一本の藍色の糸に己の全生命を懸けて、縞の続きを織り進める。少しずつ伸びる藍色の縞が、夫の命運を伸ばすと信じて。
二
あの日から一心不乱に織り続けた千代の糸は、残り少なくなっていた。
「糸を買い足さな」
織り上がった布地を風呂敷に包み、千代は鯖江駅近くの寺に向かった。そこはかつて清吉が「生きて帰るな」と出征訓話を聞かされた場所であり、今の千代にとっては、糸の問屋が集まる門前町へと繋がる唯一の道だった。広大な境内を通り抜けようとしたとき、千代の足がふと止まる。
チリン、チリン、チリン!
「号外! 号外ィ!」
その奇妙な静寂を切り裂いたのは、門前街道の先から響いてきた、狂ったような鈴の音だった。
「我が軍、奉天を完全占領! ロシア軍、北へ敗走!」
その声が響いた瞬間、門前の商店街から、地鳴りのような足音とともに人々が溢れ出してきた。誰もが目を血走らせ、我が子の情報を求め、亡者のように売り子へ殺到する。人混みに押し流されそうになりながら、千代もまた、必死に手を伸ばして一枚の号外をひったくった。まだ印刷機の熱を持って生暖かい、ノートほどの小さな茶色い紙切れ。
「奉天占領」
大きく躍る黒い文字に、千代の指先が触れる。まだ乾ききっていない粗悪なインクが千代の指を黒く汚した。周囲の人間が、まるでお祭りのように手を取り合って泣き叫び、大勝利を祝っている。その眩しいほどの熱狂の真ん中で、千代だけが冷たい奈落の底に突き落とされたように立ち尽くしていた。
号外のインクの匂いの奥から、満州の平原で弾雨に晒される清吉の、血と硝煙の匂いが強烈に鼻腔を突いた気がした。村人が言った「わずかな兵も今度こそ全滅」という呪いの言葉が頭をよぎる。千代は、手にした号外をくしゃりと握りしめると、再び石田村の我が家へと走り出した。あの機織りだけが、今の清吉の命をこの世界に繋ぎ止める、唯一の蜘蛛の糸だと信じて。
三
明治三十八年、秋。
長かった戦争が終わり、奉天の地から復員兵士たちが鯖江に帰還するという噂が、石田村を駆け巡った。
「聯隊の生き残りが列車で帰って来るぞ」
その声を耳にした瞬間、千代は織り掛けの杼を投げ出し、駅へ向かうその列に加わった。かつて「生きて帰るな」と訓話を聞かされた本堂の横を抜け、線路沿いの道を鯖江駅のホームへと沈黙の群れが進む。千代は、夫の無事を祈りながら血の滲むような思いで織り上げた、深く鮮やかな藍色の石田縞をまとっていた。駅に滑り込んできた北陸本線の復員列車から、白煙が吹き上がる。開いた扉から降りてくる兵士たちを見た瞬間、駅のホームは地獄のような混迷に包まれた。
送り出した時の藍色の軍服ではなく、ヨレヨレのくすんだ軍服。生還した我が子を抱きしめる一握りの家族の狂喜と、帰らぬ息子の遺影を抱いて立ち尽くす遺族の慟哭が、激しく渦巻いていた。千代は人混みをかき分け、必死に夫の名を呼ぶ。
だが、降りてくる兵士たちは誰もが泥と硝煙にまみれ、顔や頭に薄汚れた包帯を巻いていた。幽霊のように虚ろな目で頼りなく歩く姿。この中から夫を見分けることなど、到底不可能に思えた。
一人の背中の丸まった兵士の姿が、千代の視界に飛び込んで来た。片足を引きずり、凍傷の痛みに耐えるような重い足取り。千代の視線が、その兵士が背負うボロボロになった背嚢の側面に吸い寄せられる。そこには、出征の夜、千代が祈りを込めて結びつけた石田縞の藍色の端布が、泥にまみれ、引きちぎれそうになりながら揺れていた。
千代は息を呑み、震える足で近寄る。震える手でその端布のすぐ横にある、色褪せた白い被服札に触れた。戦場の雨に打たれ、掠れて今にも消えそうな、だが間違いなく千代自身が出征の夜に涙で滲ませながら書いた墨の跡がそこにあった。
『歩兵第三十六聯隊 後備兵 嶋野清吉』
その消えかけた文字が網膜に飛び込んできた瞬間、千代の胸の奥から、せき止められていたすべての感情が爆発した。彼女の手をすり抜けて行ってしまう男の背中に千代はあらん限りの声を出した。
「あんたぁ!」
びくり、と兵士の痩せこけた肩が大きく跳ねた。虚ろな瞳で、虚空をさまよっていた男の視線が千代に向く。その瞳は、奉天の泥と血、凍てつく満州の闇に魂を囚われたかのように、濁って生気を失っていた。今にも泣き崩れそうな千代。視界が涙で激しく歪む。それでも千代は、命の全てをぶつけるように、もう一度叫んだ。
「あんたぁ」
千代の声が、男の失われかけていた精神を呼び戻した。男の濁った瞳の奥に、小さな光が灯る。凄惨な戦場の幻影がガラガラと崩れ落ち、目の前の色彩が、妻が、故郷の景色が、男の脳裏に急速に蘇って来る。
「千代……帰ったぞ。お前が織ったこの縞の糸が、俺を何度も、あの泥の中から引っ張ってくれたんだ」
カサカサにひび割れた唇から、掠れた声が漏れた。最愛の夫の声だった。清吉はもつれる足取りで千代へと一歩を踏み出し、彼女の肩を抱きしめる。周囲の慟哭も、勝利の万歳三唱も、今の二人には何も聞こえなかった。ただ、嶋野の家に、確かに生きて命が帰ってきた。




