縞を紡ぐ
今来た、三行。
俺の名前は一ノ瀬迅。時は令和三年、コロナ禍のまっさなか。
ネットのマッチングアプリで出会う約束をして鯖江に出陣
特急が鯖江駅を通過して武生駅で下車←今ここ
「お客さん、どちらまで?」
あからさまな観光客の出で立ちをしている俺に駅員が親切に声をかけてくれた。
「兵隊さんが復員した駅を探しているのですが」
「ああ、それなら神明駅でしょう」
駅員さんは機器を操作して発券してくれた。
神明駅、彼女はそこで待っているのだろう。俺は切符を購入して、発車間近の列車に飛び乗った。
座席に腰掛けホッと一息ついて俺は、メッセージが届いているのに気付いた。キミさんからだ。
「西山公園の展望台で待ってます」
え?
西山公園、どこ?
場所が分からない。キョロキョロと車内を見渡す。完全に変態不審者だ。だがその甲斐あって出入り口の上に張られている路線図に気付いた。西山公園駅は西鯖江駅の一つ向こうだ。列車は越前市の街中を抜けると川を渡って鯖江市に入る。
「鯖江市、何もかもが懐かしい」
俺は気持ちを落ち着けようとネットミームを連発していた。特急列車の通過で遅刻。更に間違えて神明駅へ行きそうになった失態。彼女に何て言い訳をしようか、許してくれるだろうか。自宅を出発する前の高揚感から、今は惨めに打ちのめされていた。
西鯖江駅に到着した。この次の駅が西山公園駅だ。だが、ドアが閉まったのに列車は止まったまま動かない。ここまで来て、トラブルが続くのか。悲観的になっていると対向の列車が隣接線に入って来る。それから列車が出発した。今度こそ、彼女に会える。持ち物をチェックする。
忘れ物、なし。
マスク、ヨシ!
座った状態でも右足が上がる。本当に悲しいオタクの性だ。
「西山公園駅に到着しました」
申し訳ない気持ちでメッセージを送る。返信を待たず俺は目の前の階段を登った。白いタイルのような舗装を登る途上、目の前の幾重にも重なるツツジの花が咲いている光景に目を奪われる。思わず職業病のようにアングルを考えていた。
いや今は、キミさんに会うのが先決だ。彼女はどのような気持ちで待っているだろうか。このような情けない男を待つ彼女を失望させていないだろうか。グルグルと思考が負のスパイラルに向かう。
考えている間に展望台が見えて来た。展望台の向こうに白い塔が見える。見晴らしの良い展望台からは鯖江市内が一望できそうだ。だが今は彼女を探さなければ。
「ああ、ダメだったか」
展望台に彼女の姿はなかった。遅刻してくるような男に愛想を尽かしても仕方ない。期待が大きかった分、落胆も大きい。ぼんやりと鯖江の街並みを眺める。白い塔の向こうには赤煉瓦の建物が見えた。都内のような高層ビルがないので、遠くまで良く見える。彼女もこの景色を見て育ったのだろうか。
とりとめもないことを考えているとスラリとした女性が展望台へ向かって来るのに気付いた。花柄のワンピースに、小さめのカバンを持ち、日差しを遮るような鍔の大きな帽子。赤いフレームの眼鏡、淡い色彩のマスク。胸元には藍色のリボン。もしも彼女を被写体に写すとしたら、やはり胸元の藍色のリボンが目立つように…。
「え?」
その女性はドンドンこちらに近付いて来る。誰かと待ち合わせなのだろうか。それならば失恋した男がいては迷惑だろう。女性が目の前まで来たので俺は慌てて立ち上がろうとし、手元からスマホを滑り落としてしまった。
乾いた音を立て、スマホが彼女の足元に転がる。
「落としましたよ?」
俺のスマホを拾い上げる彼女の柔らかな声に、宇宙の果てまで飛んで行きそうだった俺の思考が現実に引き戻された。雪国特有の透き通るような肌、たおやかな指先が俺のスマホを差し出している。
「ジンさん、ですよね?」
彼女だ。間違い無く彼女だ。ドギマギする俺は精一杯の格好を付けようと、勇気と一緒に声を絞り出した。
「ジンです。お名前、伺っても?」
俺は慌ててマスクを剥ぎ取るように外す。すると狙い澄ましたかのように、遮るもののない展望台の四阿を悪戯な突風が激しく吹き抜けた。
「きゃ」
短い悲鳴を挙げて、彼女はワンピースの裾と帽子を押さえている。スマホはまだ彼女の手の中。そして俺の手の中からは慌てて外した味気ない不織布マスクが飛び立って行った。
「しまった」
何てことだ。令和三年のこのご時世、ソーシャルディスタンスが取り締まられる時期に、マスクなしでは彼女に近づけないではないか。都会の気取りも、カメラマンの冷静さも、すべてが今の突風に吹き飛ばされた。絶望する俺の目の前で、クスクスと鈴を転がすような笑い声が響く。
「あらら、やってまったのぉ」
眼鏡の奥の瞳は悪戯っぽく笑っているように見えた。彼女はカバンの中から布を取り出す。その風合いは彼女が今、口元を隠している布と全く同じものだ。
「私の予備で良ければ使ってんでの。今野君枝と申します」
スマホと共に差し出されたのは、優しく深く染め上げられた、藍と白の石田縞のマスクだった。
「これ、もしかして……」
「ふふ。もしマッチングが本物やったら、お揃いで着けて、鯖江の街を歩きたいなって思っとったんやっての」
可愛い。いや、年頃の女性に可愛いなんて失礼か。だが、彼女を守りたいと思ったのは本物の気持ちだ。
「嫁に会いに行く」
と誓って家を出て来た今日、俺は本当にキミさんを、いや君枝さんを幸せにしたいと、この出会いを繋いでくれた何かに感謝した。
負けられない戦いがある。
これから彼女の両親に結婚の意思を伝える。失敗は許されない最重要ミッションだ。
身支度、ヨシ。
手土産、ヨシ。
決意、圧倒的にヨシ!
緊張のあまり、悲しいオタクの性でまたしても右足が上がってしまうのは、気にしない。
「何してんの?」
笑みを含んだ柔らかな声に、俺は現実に戻った。隣を見れば、あの日西山公園で俺の心を射止めた赤い眼鏡の奥で、君枝の瞳がいたずらっぽく揺れている。
「最終チェックだよ」
「ふふ、ジンさんは本当に面白い人やの。ほら、お母さんもお父さんも待っとるで、行こ」
案内された彼女の家は、どこにでもある普通の家だった。
居間に通され、緊張でカチコチになりながら、俺は君枝の両親に向かって深く頭を下げる。
「一ノ瀬、迅と申します。君枝さんとの結婚を、頼みに参りました」
嵐のような沈黙が居間を支配する。──と思いきや、顔を上げた俺の目に飛び込んできたのは、君枝の両親の鳩が豆鉄砲を食ったような呆然とした驚愕の表情だった。
「……一ノ瀬、……迅さん?」
眼鏡職人のゴツゴツした手をした父親が、震える声で俺の名を複唱する。母親は口元を押さえ、隣の部屋にある仏壇へと視線を走らせていた。
「お父さん、お母さん、どしたん?」
不思議そうに首を傾げる君枝を他所に、父親が唸るように呟いた。
「不思議なこともあるものやの……。君枝、お前がこの一ノ瀬さんと結婚したら、お前の名前は『一ノ瀬君枝』になるんやざ」
「え? うん、そうやけど……それがどうしたん?」
父親はゆっくりと立ち上がると、仏壇の抽斗から古い桐箱を取り出して来た。その桐箱から、色褪せた一葉の古い写真を俺たちの前に差し出される。
「お前が高祖母の千代さんから受け継いだあの石田縞のリボンな、それを昭和の初めに手渡されて、この鯖江の地で良縁を掴んだ曾祖母の名前……お前と同じ漢字で、『一ノ瀬君枝』って言うんや」
目の前に差し出されたのは、セピア色に褪せた古いポートレート写真だった。擬洋風の優雅なスタジオの背景の前で、仕立ての良いスーツを着た精悍な若者と、お下げ髪に大振りの藍色のリボンを誇らしげに結んだ美しい女性が、並んで静かに微笑んでいる。
「……待って、これ」
プロのカメラマンとしての本能が、その写真の質感に釘付けになる。写真の台紙の隅には、型押しされた美しいロゴが残されていた。
『鯖江・恵美写真館』
明治からこの街の歴史を見つめ続けてきた、あの美しい洋館の写真館だ。
震える手でその写真を裏返した瞬間、俺の脳裏を電撃のような衝撃が突きぬけた。経年で茶色く変色した紙の裏に、当時の万年筆の鮮やかなインクが、時を止めたかのようにかすれて遺されていた。
『昭和五年、春。鯖江・恵美写真館にて、仁と君枝』
殺伐としたネットのマッチングアプリで、顔写真のスペックもろくに見ず、ただ「藍色のリボン」のアイコンだけに俺のガチャセンサーが狂ったように反応した理由。世界がコロナ禍というディストピアに引き裂かれ、不要不急と罵られながらも、チクショーと悪態をついて北陸へ向かわずにはいられなかった理由。
偶然なんかじゃなかった。アプリのアルゴリズムの気まぐれでもない。百年前、地獄の戦場から夫の命を繋ぎ止め、恵美写真館の眩しいフラッシュの中で愛を誓い合った血脈と祈りが、この「じんと君枝」の宿世が、俺たちをこの鯖江の地へ手繰り寄せたのだ。
「ジンさん……?」
黙り込んだ俺を不安げに覗き込む君枝の赤い眼鏡のフレームに、五月の眩しい日差しが反射して輝く。
「いや……なんでもない。ただ、俺たちの出会いは、最初から決まってたんだなって思って」
俺と君枝の口元を覆うのは、あの日、西山公園の突風の後に彼女から手渡された、草木染めのお揃いの石田縞のマスクだ。それが今も確かな温もりを宿している。
「不思議なこともあるもんだの」と笑う君枝の両親の横で、俺は彼女と静かに見つめ合い、確信していた。藍色の縞が紡いだ、この運命の出会いが、絶対に解けることのない生涯の結び目であることを。
「そうして生まれたのが、香那ってわけ」
幼稚園の年中に上がった愛娘に、俺は冗談交じりで夫婦の馴れ初めを語っていた。
この子もいつか、あの藍色のリボンを受け継いで、良縁を掴むと信じて。




