縞の君
一
この街の朝は、細かな霧と、どこか遠くから響く「トントン、カラリ」という微かな音で明ける。
東洋一の盛り場と謳われた都会の、あの騒々しい銀座の灯りに後ろ髪を引かれながら、私が福井の、この鯖江という雪深い土地に臨時教員として赴任してきたのは昭和三年の雪が残る頃であった。都会のハイカラな空気に慣れた私の目には、駅を降りて学校へと続く一本の泥道の景色は、あまりにも素朴で、底知れぬ静寂に映った。
東京から東海道を西へ下り、米原で北陸本線へと乗り換え、煤煙にまみれた長い汽車の旅。ようやく鯖江の駅に降り立ったその時、駅前の茶店の蓄音機から流れていた少し前の流行歌の旋律──逢いたさ見たさに 怖さを忘れ─ひっかき傷のような雑音を交えた旋律だけが、私に寄る辺ない孤独を突きつけるのだった。
人々が身にまとう衣服も都会で見かける鮮やかな絹織物とは違い、どこか実直で、剛健な心を映す木綿ばかりのように思われた。
嗚呼、遠くへ来たのだ、という私の感傷を遮るように、カン、カン、カンという鋭い金属音が長屋の締め切った窓から漏れ聞こえた。それに和するように、どこか近くの民家からは、トントン、カラリと、この地を支える規則正しい機織りの羽音が響いてくる。
都会のジャズの狂騒や自動車の警笛とは、まったく違う世界の音がここにはあった。
私は赴任先である新設の女子師範学校へ続く道を、この生涯の先にも続くであろう泥濘を憂鬱な足取りで歩いていた。
この感傷はあの「教生道路」で、私の人生を永遠に変えてしまう、藍色の縦縞に出会う前のことである。
二
師範学校の学び舎から伸びる教生道路には、生活の匂いも音も忍び込む余地はない。ただ静謐なる空気、白磁のような霧が広がっているだけの静寂が支配していた。
ハッとして、思わず私は足を止める。
北陸の春は名ばかりで、朝の空気は肌を刺すように冷たい。朝霧が低く立ち込め、行く手をぼんやりと白く遮る中、朝霧の御簾の向こうから少しの迷いもなく真っ直ぐに大地へと伸びるかのような縦縞が、私の視線を釘付けにする。
新設されたばかりの女子師範学校の制服である藍と白の縦縞の袴を穿いている彼女。
都会の娘たちが好む絹の艶やかさではない。しかし、手織りの木綿が持つ独特の厚みと、職人の手によって幾度も藍に染め上げられた深い色彩は朝霧の中でも峻烈なほど厳かに、そして知的で、凛とした光を放っていた。
何より私の目を奪ったのは、その髪型であった。
前髪をふんわりと上げ、後ろの上半分だけを大きく結んで残りを艶やかに垂らした、いかにも女学生らしいお下げ髪。その結び目の上で、誇らしげに大きなリボンが羽根を広げている。かつて大正の世に都会の女たちが好んだ、あの華やかな絹のリボン。それが袴と同じく、実直な木綿で仕立てられた藍色のリボンが揺れている。
すっと伸びる足元は泥濘を厭わぬ黒い革靴が、一歩、また一歩と、確かな足音を刻んでいる。背筋を伸ばしたその美しい姿勢に合わせて、頭上の藍色のリボンがひらひらと私を誘う手招きのように揺れた。
霧を割って進むその佇まいは、まるでこの雪深く厳しい土地の冬を耐え抜き、凜然と咲く一輪の野の花、雪割草の気高さを持つかのようだった。
私とすれ違うその刹那、彼女は足を緩め、私に向けて小さく会釈を施した。すっと通った鼻梁、理知的ながらも、どこか憂いを帯びた瞳。雪国特有のきめ細かい純白の肌。
それよりも鮮烈に私の脳髄を刺激するのは、朝霧に混じる藍染の醸すほのかな匂いが鼻腔をくすぐる感触だった。
彼女が通り過ぎた後も、私の視線は、朝霧の中へと消えゆくあの藍色のリボンの残像を、いつまでも追いかけていた。
これがあの人が私の脳裏に焼き付いた出会いだった。
三
私の頭の中で彼女は最初、ただのどこにでもいる「お下げの人」であった。
都会の街角ですれ違うモダンガールたちの洗練された洋装に比べれば、それはどこか古風で、地方の素朴さを残したお下げ髪に過ぎない──そう自分に言い聞かせ、都会から来た男としての、ちっぽけな矜持を保とうとしていたのだ。
だが、私の目は毎朝どうしても縦縞のリボンを追ってしまう。いや正確に言えば、縦縞を纏う彼女の凛とした姿を追っている。
学校の職員室にいても、講義中に教科書を開いていても、私の脳裏を占拠しているのは、あの藍と白の峻烈な縦縞と、お下げ髪の上でひらひらと手招きする木綿のリボンの残像ばかりになっていた。
毎朝の逢瀬、と私が勝手に思っている教生道路でのすれ違い。彼女が白皙の首を傾けるたび、リボンが朝の光の中で一瞬だけ鮮烈に翻るたび、私の視線は否応なしに釘付けになる。それはほんの瞬き一つの間にも満たない、刹那の出来事だったかもしれないが、私の胸の奥には微熱のような、言葉にできぬ惑いが澱のように溜まっていた。
そんなある日の夕暮れ。
私は駅前の茶店で地元の同僚教師から、この土地の古い話を聴かされた。
「一ノ瀬先生、教生道路で見かける女子師範の生徒のこと、何て呼んどるか知っとるけの?
みな口を揃えて『縞の君』って呼ぶんや。石田縞はただの布やない。かつて水害で何もかも失った貧しい村を救うために、高島善左衛門ちゅう男が命がけで広めた、命の織物が始まりなんや。
今も村を救い命を紡いどる。雨風に晒されるほどに藍の色は深うなって、一度結んだら決して解けん。生涯切れることもない。ほやで、あの厳しい学び舎で凛として学ぶ彼女を『縞の君』と呼んでるんや。
ほやからな、あの娘が自らの髪を結んだ縞の紐を男に託す時、っと、そっから先は自分で考えぇ」
一度結べば、決して解けず、生涯切れることもない。その言葉を反芻する内に、私の胸の奥底へと雪解け水のように染み込んで来る。もう彼女を「お下げの人」などという、ありふれた言葉で片付けることはできなくなった。あの人は、この雪深く厳しい鯖江の地が育んだ、気高く、美しい伝統そのもの。私の心を一瞬で縛りつけ、決して解いてはくれない、世界でただ一人の「縞の君」であった。
四
いつもの朝。
教生道路は、昨晩からの強い雨に煙っていた。霧の向こうから、和傘を差した女学生が歩いて来る。
霧雨に濡れた縦縞の袴は、普段よりもいっそう深く、鮮烈な藍色の光を放っていた。傘に隠されていたその頭上、お下げ髪を固く結ぶリボンもまた、雨を吸って重みを増しながらも、毅然と羽を広げている。
私の縞の君よ。
私の意識が感慨に耽る刹那、遮るもののない教生道路に強烈な横風が吹き抜けた。彼女の差す和傘が大きく煽られると同時に、あのお下げ髪を支える結び目が、はらりと解けるのが私の目に飛び込んで来る。藍と白の木綿のリボンが風にさらわれ、低く垂れこめる薄暗い雨の空へと舞い上がった。
逃がすものか。
私は懸命に腕を伸ばして、雲を掴みに行った藍色を、彼女の藍色のリボンを掴み取る。雨に濡れた木綿は、驚くほどに重く、そして確かな温もりを宿していた。都会の絹のように滑り落ちることはない。一度結べば決して解けぬという、この土地の命の織物。私は泥濘の中に足を止め振り返った。彼女もまた、解けたお下げの黒髪を春の激しい風にたなびかせながら、そこに立ち尽くしていた。
毎朝すれ違う時の、あの凛とした仮面は剥がれ落ち、そこにはただ、微かに肩を揺らす一人の少女がいた。私は喉の奥に焦げ付いていた憂鬱をすべて振り払うように一歩、また一歩と彼女へと歩み寄る。これまで毎朝、ほんの刹那の間ですれ違うだけだった二人の距離が、ついに、互いの吐息のかかる距離にまで縮まった。私はリボンを差し出し、震える声を勇気と共に絞り出した。
「落としましたよ?」
彼女はその涼やかな目を見開き、それから朝焼けのような美しい朱に頬を染めた。彼女の視線が、私の手元にある藍色のリボンから私の瞳へと差し迫る。まるで、言葉なき見交わしをされているかのようで、私の胸の心音は狂おしいほどに高鳴った。
「ええ」
鈴を転がすような、しかしどこか決意を秘めた声だった。彼女はリボンを受け取ろうとはせず、ただ、私の掌にあるその藍色の織物へ視線を落とした。ふと地元の迷信が脳裏をよぎる。
あの娘が自らの髪を結んだ縞の紐を男に託す時
一度結べば、決して解けず、生涯切れることもない
胸の奥から湧き出す感情が私の背中を衝き動かした。もう都会の気取りも、いつかはここを離れなければならない臨時教員という臆病な言い訳も、今朝の強風が吹き飛ばしたのかもしれない。刹那を永遠に変えたい狂おしいほどの熱情に押され私は意を決する。我が国に万葉の昔から伝わる最も狂おしい作法、言問いを彼女に投げかけた。
「お名前、伺っても?」
教生道路を吹き抜ける風が瞬時、止まったかのように思えた。静謐の中で私の心音だけがこだまする。永遠とも刹那とも判然としない時が流れ、彼女は私の目を真っ直ぐに見つめて、小さく微笑む。
桜貝のように閉じていた唇が開き、自らの名を明かした。
「嶋野、君枝と申します」
しまの、きみえ。し、ま、の、き、み、え。
その響きが私の耳に届いた刹那、口の中で繰り返すうち、胸の奥の熱が一気に目頭に集まり、溢れそうになった。
嗚呼縞の君。私が心の中で焦がれ続けたその呼び名は、迷信でも幻影でもなかった。彼女は最初から、私の「嶋野君枝」であったのだ。彼女はもう一度、愛おしそうに私と、そして私の掌にあるリボンを見つめると、今度は悪戯っぽく、微笑んでみせた。ほどけた黒髪が、鯖江の春の風に美しく舞っている。
石田縞の強靭な糸が雨風に耐えるように、二人の宿世の結び目は静かに、しかし確かに結ばれようとしていた。
決して断たれることのない強さで。
(了)




