戻れると思った
義幸が家に帰らない夜が増えてから、私は少しだけ楽になった。
夫婦として口にしてはいけないことなのだと思う。
でも、正直に言えばそうだった。
夜に機嫌をうかがわなくていい。
子どもを寝かしつけたあと、今日はどうするのかと身構えなくていい。
疲れていることを、わざわざ説明しなくていい。
ただそれだけで、息がしやすい日があった。
もちろん仕事なのだから仕方がないとも思っていた。
昇進の話も出ていたし、上からの期待もあるらしかった。
帰れない日が続くのも、今だけかもしれない。
そう思いながら、私は毎日を回していた。
朝起きて、子どもを着替えさせて、食べさせて、上の子たちを送り出して、洗濯をして、買い物に行って、またご飯を作る。
下の子が熱を出せば予定は全部崩れるし、夜中に咳き込めば私も眠れない。
やっと座れたと思ったら牛乳をこぼされるし、ようやく一息つけるかと思ったところで、おむつがないことに気づく。
誰かに殴られたわけでも怒鳴られたわけでもないのに、生活だけで人はちゃんとすり減るのだと、あの頃の私は思っていた。
義幸の変化に気づいたのは、そういう日々の隙間だった。
帰る時間が遅い。
泊まりが増える。
スマホを見る時間が増える。
それだけなら、仕事が忙しいのだと思うこともできた。
でも、少しずつ違和感が積もっていった。
洗面所に置いたシャツから、家にはない香りがしたこと。
今までは持ち帰っていたものを、妙に職場へ置きっぱなしにするようになったこと。
メッセージの通知に、前よりずっと敏感になったこと。
どれも、決定打にはならない。
だから余計に、自分が疑い深くなっているだけかもしれないと思った。
でも、一度そう思ってしまうと、もう前みたいには見られなかった。
その夜も、義幸は帰りが遅かった。
私は子どもたちをようやく寝かしつけて、シンクに残った食器を洗っていた。
帰ってきた義幸は「疲れた」とだけ言って、ネクタイを緩めながらソファに座った。
「ご飯、温める?」
「うん。軽めでいい」
私はいつも通り動いた。
味噌汁を温めて、おかずを皿に移して、ご飯をよそう。
義幸はスマホをテーブルの端に置いたまま、黙って食べ始めた。
会話はほとんどなかった。
子どもの話をしても、ああ、とか、そうなんだ、くらいの返事しか返ってこない。
疲れているのだろうと思った。
そう思おうとした。
食べ終えて、義幸が先に風呂へ行ったあと、テーブルの上でスマホが光った。
見ようと思ったわけじゃなかった。
ただ、子どもが起きたのかと一瞬身構えて、反射的にそちらを見てしまっただけだ。
表示されたのは、女の名前だった。
その名前の下に、短い文が見えた。
――今日はありがとう。また会いたい。
それだけだった。
たったそれだけなのに、頭の中が真っ白になった。
見間違いかもしれないと思った。
仕事関係の人かもしれない。
たまたま、そういう書き方をする人かもしれない。
でもそんな苦しい言い訳を並べている間にも、胸の奥ではもう答えが出ていた。
手が冷たくなった。
洗い物の水より冷たいものが、背中をすっと落ちていくみたいだった。
私はその場に立ち尽くしたまま、浴室の水音を聞いていた。
どうすればいいのかわからなかった。
問い詰めるのか。
見なかったふりをするのか。
今ここで何か言って、子どもが起きたらどうするのか。
そんなことを最初に考えてしまう自分が情けなかった。
夫の浮気を知って、真っ先に考えるのが子どものことなんて。
でもあの頃の私は、そういう順番でしか物事を考えられなくなっていた。
義幸が風呂から出てきた時、私はまだ台所に立っていた。
「まだ起きてたの」
「うん」
「先に寝ててよかったのに」
その何気ない声が、かえって腹立たしかった。
私の顔色に何か感じたのか、義幸の表情が少し止まる。
「どうしたの」
私は言葉を探した。
怒鳴ることもできない。
泣き崩れることもできない。
声を荒げたら全部が壊れてしまいそうで、怖かった。
「……その人、誰」
「え?」
「さっき、通知で見えた」
義幸の顔が変わった。
たった一瞬だったけれど、それで十分だった。
ああ、そうなんだと、そこで完全にわかってしまった。
「スマホ、見たの」
「見ようと思ったんじゃない」
自分でもひどく弱い言い訳だと思った。
でも、それしか言えなかった。
「通知で見えたの。……誰なの」
義幸はすぐには答えなかった。
その沈黙が、何より答えみたいだった。
「……職場の子」
「どういう関係」
「それは」
「どういう関係なのかって聞いてるの」
そこでようやく、少しだけ声が強くなった。
でも怒鳴るところまではいかなかった。
隣の部屋で子どもが寝ている。
それを思うだけで、声が喉の奥で止まった。
義幸は額に手を当てて、小さく息を吐いた。
「一回だけだよ」
その言葉に、膝から力が抜けそうになった。
一回だけ。
それはたぶん、言った本人にとっては言い訳なのだろう。
でも、聞かされる側には何の慰めにもならなかった。
「一回ならいいの」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味」
「……ほんとに、馬鹿なことしたと思ってる」
私は義幸の顔を見た。
言い逃れを探しているようにも見えたし、本当に後悔しているようにも見えた。
どちらなのか、その時の私にはわからなかった。
「ごめん」
義幸がそう言った時、私は怒りより先にひどく疲れてしまった。
ああ、やっぱり。
やっぱりこういうこと、あるんだ。
どこかでずっと、そんな予感はしていたのかもしれない。
「……私、何か悪かったかな」
口から出た瞬間、自分で自分が嫌になった。
聞くべきことはそこじゃない。
責めるべきなのは私じゃない。
頭ではわかっているのに、最初に出てきたのはそんな言葉だった。
「最近、子どものことと生活のことばっかりで……義幸のこと、全然見れてなかったかな」
「違う」
義幸は、思っていたより強い声で言った。
「それは違う。明美のせいじゃない」
私は黙ったまま立っていた。
今さらそんなふうに言われても、じゃあどうして、と思う気持ちと、でもはっきり否定されると少しだけ救われる気持ちが混ざって、自分でもよくわからなかった。
「ほんとに俺が悪い」
義幸は顔を伏せた。
「遊びだったとか、一回だけだとか、そういう言い方した時点で、もう最低だって自分でもわかってる」
私は少し驚いた。
もっと、寂しかったとか、家でうまくいってなかったとか、こっちにも原因があるようなことを言われるのかと思っていた。
でも義幸は、そうしなかった。
「ごめん」
声が少し掠れていた。
「明美を失うかもしれないって、今、初めてちゃんと怖くなった」
その一言に、胸の奥が妙に痛んだ。
嬉しいわけじゃない。
許したいわけでもない。
なのに、まだそんな言葉に反応してしまう自分が、ひどく惨めだった。
「俺、ほんとに馬鹿だった」
義幸は椅子に座ったまま、顔を伏せていた。
「家のことも子どものことも、明美に任せっぱなしで。明美ばっかり大変なのも、ちゃんとわかってたのに」
そこまでわかっていたなら、どうして。
どうして、そんなことをしたのか。
そう聞きたかった。
でも聞いたところで、何が戻るわけでもない気がした。
「……もう寝る」
それだけ言って、私は立ち上がった。
義幸は何か言いかけた。
でも結局、何も言わなかった。
布団に入っても眠れなかった。
怒りよりも先に、現実のことが頭を埋めた。
明日、子どもたちは何時に起きるか。
上の子の持ち物は揃っていたか。
下の子の咳は少し落ち着いていたか。
夫が浮気をした夜なのに、そんなことばかり考えている。
それがひどく空しかった。
でも、そうやって考えていないと、自分の気持ちに押しつぶされそうだった。
翌朝、義幸はいつもより早く起きていた。
私が台所に立つと、黙って炊飯器を開けて茶碗を並べる。
子どもの着替えを手伝って、上の子の水筒にお茶を入れていた。
そのぎこちなさが、かえって現実味を帯びていた。
ごめん、ともう一度言われたのは、子どもたちを送り出したあとだった。
「昨日のこと、本当に反省してる」
「……うん」
「もう二度としない」
私はそれを、すぐに信じたわけではなかった。
でも、その場で突き放すこともできなかった。
離婚という言葉が頭をよぎらなかったわけではない。
でも、すぐに現実の形を持つことはなかった。
子どもが三人いる。
私には今、収入がない。
住む場所は。生活は。保育園は。
考え始めると、頭の中がすぐ現実でいっぱいになる。
それに私は、まだ義幸のことを嫌いになりきれていなかった。
それが一番、情けなかった。
義幸はそれから、目に見えて変わった。
帰れる日はできるだけ早く帰ってくるようになった。
子どもたちにも前より丁寧に接するようになったし、私にも、結婚前のような声のかけ方をすることが増えた。
「疲れてるだろ。今日は俺がやるよ」
「これ、好きだったよなと思って買ってきた」
「最近ちゃんと寝れてる?」
そんな一つ一つが、昔の義幸を思い出させた。
私は戸惑いながらも、少しずつ肩の力を抜くようになっていた。
浮気のことは、消えたわけじゃない。
許したと言い切れるわけでもなかった。
でも、あの時の義幸の顔を思い出すと、本当に後悔していたのだとも思えた。
そして同時に、私は少しずつ自分の方も責めるようになった。
子どもや生活のことばかりで、義幸の気持ちまで見ていなかったのかもしれない。
疲れてるを言い訳にして、ずっと突っぱねるような態度になっていたのかもしれない。
もちろん、浮気したことが許されるわけじゃない。
でも、私も妻として、夫の寂しさに鈍くなっていたのかもしれない。
そう思うことで、私はこの出来事を、自分の中で処理しようとしていたのだと思う。
もし全部を義幸だけの罪にしてしまったら、この先一緒に暮らしていく理由が見つからなくなる気がした。
だから私は、自分にも落ち度があったのかもしれないと思う方を選んだ。
それが正しかったのかは、今でもわからない。
でも、あの頃の私は、そうするしかなかった。
義幸が前みたいに優しくなったと感じられる日が増えるにつれて、私も少しずつ、また普通の夫婦に戻れるかもしれないと思い始めていた。
食卓で子どもの話をして笑う。
休日に家族で出かける。
寝かしつけのあと、並んでテレビを見る。
そんな、ごくささいなことが戻ってくるだけで、私は思ったより簡単にほっとしてしまった。
人は、前より少しマシになるだけで、それを希望だと思ってしまうのかもしれない。
その頃、義幸はたまに職場の話をするようになっていた。
「最近、若い子に懐かれててさ」
「へえ」
「仕事の相談とか、よくされる」
私は深く考えなかった。
以前のことがあってもなお、そこまで疑い続けるほど、もう心に余裕がなかったのかもしれない。
「義幸、面倒見いいもんね」
「そうかな」
「そうでしょ。昔からそうだったし」
そう言うと、義幸は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、私はまた安心してしまった。
大丈夫かもしれない。
今度こそ、やり直せるかもしれない。
そう思いたかった。
たしか、その時に名前を聞いたことがあった。
でも、その時の私は、ちゃんと覚えようとしなかった。
義幸が取り戻したように見えたやさしさに、私はもう一度、賭けようとしていたのだと思う。




