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その言葉を、愛だと思った  作者: リフェリア
やさしかった人

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やさしかった人

 義幸は、やさしい人だった。


 少なくとも、私は長いあいだ、そう思っていた。


 出会った頃の義幸は、少し不器用なくらい真面目な後輩だった。

 新卒で入ってきたばかりで、何をするにもぎこちない。要領がいい方ではないし、仕事を覚えるのも飛び抜けて早いわけではない。

 それでも、言われたことをきちんとやろうとする人だった。わからないことを、わからないままにしない人だった。


 私は二つ上の先輩で、義幸の教育係を任されていた。


「酒田くん、そこはその処理じゃなくて、先に確認取ってから」


「あ、すみません。順番、逆でした」


「うん。今のうちに直せば大丈夫」


 義幸は叱られるとすぐ顔に出た。

 でも言い訳はしなかったし、ふてくされることもなかった。

 同じ失敗を、同じ形ではあまり繰り返さない。そんなところが、私は嫌いじゃなかった。


 仕事の話以外をするようになったのは、わりと早かったと思う。

 昼休みにコンビニへ行くついでに一緒になったり、残業帰りに駅まで並んで歩いたり、きっかけなんてその程度だった。


 義幸は、黙っていると少し近寄りがたく見える。

 背が高くて、表情もきりっとしていて、初対面では怖く見られがちなタイプだ。

 でも実際は、思っていたよりずっと素直で、拍子抜けするくらいまっすぐだった。


「明美さんって、面倒見いいですよね」


 ある日、義幸がそんなことを言った。


「急にどうしたの」


「いや、普通に。みんな、聞いたら教えてくれるけど、明美さんは聞く前に気づいてくれるから」


 少し照れたのを覚えている。


 年下の男の子なんて、その頃の私にはほとんど恋愛対象の外だった。

 同年代の方が話も合うし、わざわざ職場で面倒なことになるのも嫌だった。


 それでも、義幸と話す時間は心地よかった。


 わかったふりをしない。

 変に背伸びをしない。

 でもこちらをきちんと立てることはできる。


 可愛い後輩だった。

 最初は、本当にそれだけだった。


 変わったのは、義幸の方から食事に誘われるようになってからだ。


「今度、お礼させてください」


「お礼?」


「いつも面倒見てもらってるので」


「そんな大げさなものじゃないでしょ」


「それでもです」


 そう言って妙に真剣な顔をするから、私は結局断れなかった。


 最初は本当に軽い食事だった。

 仕事帰りにご飯を食べて、少し話して帰るだけ。

 それが二度、三度と続くうちに、仕事以外の話も増えていった。


 家族のこと。

 学生時代のこと。

 どんな家庭を持ちたいか、みたいな、今思えばずいぶん青い話までした。


 義幸は、自分の話をたくさんする方ではなかった。

 でも少しずつ打ち明けてくれることが、私は嬉しかった。


 付き合い始めるまでに、それほど時間はかからなかった。


 告白してきたのは義幸の方だった。


「明美さんのこと、ずっと好きでした」


 その時の義幸は、仕事中には見たことがないくらい緊張していて、顔まで少し赤かった。

 断る選択肢もあったはずなのに、私は驚くほど自然に頷いていた。


 たぶん私は、その頃にはもう、義幸のことを“可愛い後輩”以上に見ていたのだと思う。


 付き合っていた頃の義幸は、やさしかった。


 連絡はきちんとくれるし、約束も守る。

 忙しくても、放っておかれたと感じることはなかった。

 私が体調を崩した時には、仕事終わりに飲み物や食べやすいものを持ってきてくれたこともある。


「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」


「でも、明美さん無理するから」


「無理してないって」


「してます」


 そう言い切るところが、少し可愛くて、少し頼もしかった。


 私はたぶん、普通に恋をしていた。


 義幸が二十四、私が二十六の時、妊娠がわかった。


 予定外だった。

 怖さも戸惑いも、もちろんあった。

 でも義幸に伝えた時、彼は少し黙ってから、泣きそうな顔で笑ったのだ。


「ほんとに?」


「うん」


「……よかった」


 その「よかった」に、私は救われた。


 子どもができたことを、まっすぐ喜んでくれる人なのだと思った。

 この人となら大丈夫かもしれないと、素直に思えた。


 義幸は、結婚しようと言った。

 迷いのない言い方だった。


 私はその言葉を、愛情だと受け取った。


 結婚してすぐ、私は仕事を辞めた。


 義幸に頼まれたからだ。


「子どものこと、ちゃんと見てほしい」


「産んだあとでも、続けられないことはないと思うけど」


「俺が働くから。明美が無理する必要ない」


 その頃の私は、それを愛情だと思った。

 育児に専念できるようにしてくれる。

 外で働いて消耗しなくていいようにしてくれる。

 家族を守ろうとしてくれている。


 だから私は、大きく迷うことなく退職した。


 今思えば、その時点で少し考えるべきだったのかもしれない。

 でも当時の私は、義幸が私を大事にしてくれているのだとしか思わなかった。


 結婚して、同居が始まって、子どもが生まれて、生活が回り始める。

 最初のうちは、たしかに幸せだったと思う。


 寝不足でふらふらになりながら子どもをあやして、義幸が帰ってきたら二人で小さな顔を覗き込む。

 そんな時間が、ちゃんとあった。


 でも、一緒に暮らし始めてから、少しずつ違和感も増えていった。


 義幸は、思っていた以上に嫉妬深かった。


「今日、誰と会ったの?」


「買い物の帰りに、前の職場の子と少しだけ」


「男いた?」


「いないよ」


「ほんとに?」


 最初は軽いやきもちだと思っていた。

 好かれている証拠みたいに、少しだけ嬉しくすらあった。


 でも、それは少しずつ息苦しさに変わっていった。


 元同僚とご飯に行くのを嫌がる。

 男のいる場に顔を出すのを嫌がる。

 連絡が遅れると、目に見えて機嫌が悪くなる。


「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」


「心配してるんじゃないよ」


「じゃあ何?」


「明美のこと、ちゃんと知っておきたいだけ」


 その言葉も、最初のうちは愛情に聞こえた。

 でも、だんだん、少し違う気がしてきた。


 知りたいというより、把握していたいのだ。

 私が、自分の知らないところで動くことを嫌がっているのだと。


 それでも私は、その違和感を大したことではないと思おうとした。

 結婚したのだから、多少はそういうものなのかもしれない。

 義幸はただ、不安になりやすいだけなのかもしれない。

 そうやって、考えるのを先延ばしにした。


 子どもが生まれてからは、毎日があっという間だった。


 授乳して、寝かしつけて、やっと寝たと思ったらまた泣いて。

 自分のご飯は冷めるし、お風呂だってゆっくり入れない。

 トイレに立っただけで呼ばれるような日もある。


 朝からずっと誰かのために動いていて、夜になる頃には、もう何も考えたくなかった。


 義幸は、そんな生活の重さを、本当の意味ではあまりわかっていなかったと思う。


 手伝ってくれる日もあった。

 子どもを可愛がる時もあった。

 私がしんどそうにしていると、気にかけることもあった。


 だから余計に、はっきり悪い人だと思いきれなかった。


 でも、夜のことだけは、少しずつしんどくなっていった。


 付き合っていた頃の義幸は、もう少しやさしかった気がする。

 私の表情を見て、体調を気にして、ちゃんとこちらを相手として扱ってくれていた。


 結婚してからの義幸は、少しずつ雑になった。


 こちらの気分や体調より、自分の欲求の方が先にあるように感じることが増えた。

 私は授乳や抱っこで一日じゅう子どもに触られていて、やっと一人になれた夜にはもう身体を休めたかった。

 それなのに、夫婦なのだから当然みたいに求められると、身体だけ置いていかれるような気がした。


 断れば、義幸は不機嫌になった。


 怒鳴るわけじゃない。

 露骨に責めるわけでもない。

 でも空気が変わるのだ。


 返事が短くなる。

 食器を置く音が少し強くなる。

 家の中の温度が下がるみたいに、急に居心地が悪くなる。


 それが嫌だった。


 もっと嫌だったのは、その機嫌の悪さが、時々子どもに向くことだった。


「なんで今泣くんだよ」


 まだ小さい子ども相手に、そんな言い方をするのを聞くたび、胸が縮んだ。


 私が断ったからだ。

 私が機嫌を損ねたからだ。

 そう思うと、次からは断りにくくなった。


 応じれば、その晩はとりあえず平穏に終わる。

 子どもに強い声が飛ぶことも減る。

 そうやって私は、自分を納得させるようになった。


 気がつけば、子どもは三人になっていた。


 望んでいなかったわけではない。

 でも、心から準備して迎えた妊娠ばかりだったかと聞かれれば、違うと思う。


 家事と育児で一日が終わる。

 夜にはもう、目を閉じるだけで精一杯だ。

 鏡に映る自分を見ても、女としてどうこう考える余裕なんてない。


 それでも義幸に求められれば断りにくい。

 断れば空気が悪くなる。

 私が我慢した方が、家の中は静かだ。


 そんなふうに考えるようになっていた。


 もちろん、義幸がずっとひどい人だったわけではない。


 子どもを嬉しそうに抱く日もある。

 私が限界そうな時には、珍しく洗い物をしてくれることもある。

 外ではちゃんと働いて、家族を養ってくれていた。


 だからこそ私は、自分のしんどさを大したことではないと思おうとした。


 義幸は悪い人じゃない。

 少し不器用で、少し余裕がなくて、そのせいでうまくいかないだけ。

 私がもう少し上手にやればいい。

 私がもう少し我慢すれば、前みたいに戻れるかもしれない。


 そう思っていた。

 思いたかった。


 義幸が仕事で泊まり込むことが増えたのは、三人目が生まれて少し経った頃だった。


「最近忙しくてさ。たぶん、しばらく帰れない日増えると思う」


「そうなんだ」


「ごめん。家のこと任せること多くなる」


「ううん、仕事なら仕方ないよ」


 そう答えながら、私は心のどこかで安堵していた。


 夜、求められなくて済む。

 空気を読まなくていい。

 体調や機嫌に気を遣わなくていい。


 そんなふうに思ってしまう自分が、ひどく惨めだった。


 結婚して、子どももいて、夫が家に帰ってこないことにほっとするなんて。

 そんなの、幸せな家庭とはとても言えない。


 でも、その頃の私は、幸せかどうかを考える余裕すらなかった。


 朝起きて、子どもを着替えさせて、食べさせて、洗濯をして、片づけて、買い物をして、またご飯を作って、寝かしつける。

 その繰り返しの中で、私は少しずつ、自分が何を感じているのかもわからなくなっていった。


 義幸は、たしかに昔はやさしかった。


 そう思う。

 でも今の義幸も同じ人のはずなのに、どうしてこんなに遠く感じるのか、私にはもうよくわからなかった。


 変わってしまったのは義幸なのか。

 それとも、私がようやく見えていなかったものを見るようになっただけなのか。


 その答えを、私はまだ知らなかった。

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