表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その言葉を、愛だと思った  作者: リフェリア
やさしい人

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/6

祝福されないはずの未来

 気がつけば、酒田さんが私の部屋にいることは、特別なことではなくなっていた。


 最初の頃は、会うたびに少しだけぎこちなかった。

 玄関のドアを開ける時も、コンビニの袋をテーブルに置く時も、シャワーの音が聞こえるたびも、胸のどこかで、私は何をしているんだろうと思っていた。


 それなのに、人は慣れてしまう。


 酒田さんの靴が玄関にあること。

 冷蔵庫を勝手に開けて、水を取ること。

 私が先にシャワーを浴びている間、ソファに座ってスマホを見ていること。

 そういう小さなこと全部が、少しずつ日常みたいな顔をし始める。


 もちろん、本当の日常ではなかった。


 酒田さんには家庭がある。

 明美さんがいて、子どもたちがいて、帰る家がある。


 だから私は、都合のいい言い訳を抱えるようになった。


 私は奪っているわけじゃない。

 家庭を壊したいわけでも、明美さんから夫を取り上げたいわけでもない。

 ただ、傷ついたままの酒田さんを、私が少しだけ楽にしているだけ。

 明美さんがもう受け取らないものを、私が埋めているだけ。


 そう考えないと、自分のしていることに耐えられなかった。


 関係が続くうちに、二人きりの時だけ、酒田さんは私を彩花と呼ぶようになった。


 最初にそう呼ばれたのが、いつだったのかは、もうはっきりとは思い出せない。

 けれどたぶん、ごく自然な流れだった。シーツの中だったかもしれないし、帰り際に小さな声で呼ばれたのかもしれない。


 職場では相変わらず「佐伯さん」のままだった。

 人前で近づくこともなかったし、連絡だって用件だけなら事務的だった。


 それなのに、部屋の中でだけ「彩花」と呼ばれるたび、私はたしかに救われていた。

 ああ、ここでは私はただの部下じゃないのだと思えてしまった。


 私が「義幸さん」と呼ぶようになったのも、たぶん同じ頃だった。


 酒田さん、と口にすると、二人きりなのに職場の空気が入り込んでくる気がした。

 だから自然に、義幸さん、と呼ぶようになった。


 そのたびに、少しだけ胸が甘く痛んだ。


 最初は避妊具を使っていた。


 それが当たり前だったし、そうしない理由はなかった。

 私は一度だって、子どもがほしいなんて思ったことはない。

 そんな未来を想像するのは、あまりにも身の程知らずだと思っていた。


 でも、関係が一年を過ぎた頃、義幸さんが何気なく言ったのだ。


「これ、毎回買うのも目立つな」


 本当に、何気ない口調だった。

 私はその時は軽く笑って、「たしかに」と返しただけだった。


 その数日後、私は駅前の婦人科にいた。


 理由はいくらでもつけられた。

 避妊のため。

 自分で管理するため。

 毎回同じものを買うより自然だから。


 でも、本当はそれだけじゃなかったのだと思う。


 避妊具がなくなることを、私はどこかで、距離がひとつ減ることのように感じていた。

 肌と肌の間に何もないことを、愚かなくらい特別なものだと思ってしまっていた。


 今なら、それがおろかな勘違いだとわかる。

 でもあの頃の私は、そういう都合のいい意味ばかり拾っていた。


 義幸さんは、相変わらず家庭の話をした。


 下の子がまた熱を出したこと。

 上の子の学校行事のこと。

 明美さんが最近機嫌が悪いこと。

 家に帰っても、あまり会話がないこと。


 どれも、夫婦ならよくあるような話だったのかもしれない。

 でも私には、全部が自分に都合よく聞こえた。


 うまくいっていないのだ。

 もう壊れかけているのだ。

 私はその空白に、少し入り込んでいるだけ。


 そんなふうに思えば、少しだけ罪が薄まる気がした。


 義幸さんは、私にだけ見せる顔がある。

 そう信じていた。


 仕事中の整った顔とも、子どもの話をする時のやわらかい笑顔とも違う、疲れた顔。気を抜いた顔。時々だけ見せる、甘えるみたいな表情。

 そういうものを知っているのは私だけなのだと思うと、嬉しかった。


 最低だと思う。

 でも、嬉しかったのだ。


 同じくらい、認めたくない気持ちもあった。


 私の方が、義幸さんを幸せにできるのに。


 そんなこと、考えないようにしていた。

 考えた瞬間に、私はただの悪い女になる気がしたからだ。


 それでも、本当はどこかで思っていた。

 明美さんに拒絶されて、帰る家でも休まらなくて、それでも真面目に働いているこの人を、私ならもっと大事にできるのにと。


 そして同じくらい、私の方が必要とされたいとも思っていた。


 その欲を、私はずっと見ないふりをしていた。


 関係は二年を越えた。


 私は二十四になり、義幸さんは三十二になっていた。

 職場では相変わらず「酒田さん」と「佐伯さん」のままだったし、人前で距離が近いわけでもなかった。

 それでも、私たちは会うたびに自然に身体を重ねるようになっていた。


 週に一度、多い時は二度。

 仕事終わりに義幸さんが私の部屋に来る。

 遅い時間にコンビニのご飯を食べて、他愛ない話をして、それから抱き合う。


 そういう夜が続いていた。


 誰にも祝福されない関係なのに、私はその時間を失いたくなかった。


 ある日、ピルの休薬期間に入っても、消退出血が来なかった。


 最初は、ずれただけだと思った。

 疲れているのかもしれない。

 最近忙しかったし、睡眠も不規則だった。


 でも二日、三日と過ぎても何もなくて、胸の奥がざわつき始めた。


 馬鹿みたいだと思いながら、何度もスマホで調べた。

 ピル 休薬期間 こない。

 消退出血 遅れる。

 妊娠 可能性。


 画面を見つめる指先が冷たかった。


 そんなはずない。

 ずっと飲んでいた。

 飲み忘れだって、ほとんどなかった。


 それでも、絶対じゃないことくらいは知っていた。


 休日の昼間、私は一人でドラッグストアに行った。

 レジに並ぶ時間が、ひどく長く感じた。

 店員の視線なんて何も含んでいないはずなのに、全部見透かされている気がした。


 部屋に戻って、説明書を何度も読んで、それから検査をした。


 結果が出るまでの数分、呼吸の仕方がわからなかった。


 陽性だった。


 たった一本の線が増えただけなのに、世界の色が変わった気がした。


 座り込んだまま、しばらく動けなかった。

 嬉しいのか、怖いのか、自分でもわからなかった。

 ただ、お腹の奥に何かがあるのだと思った瞬間、涙が出た。


 義幸さんの子どもが、私の中にいる。


 その事実はあまりにも重くて、でも同時に、どうしようもなく甘かった。


 私は最低だ。


 そう何度も思った。

 明美さんにも、子どもたちにも、何一つ顔向けできない。

 それなのに、お腹に手を当てた時、真っ先に浮かんだのは、どうしよう、ではなく、この子をなくしたくない、だった。


 そんな自分に、自分で驚いた。


 誰にも相談できなかった。

 友人にも、家族にも、もちろん義幸さんにも。


 言えば困らせる。

 言えば何かが壊れる。

 義幸さんは優しいから、責任を感じるだろう。苦しむだろう。家庭のことでまた傷つくだろう。


 そう考えて、私は言えなかった。


 でも本当は、それだけじゃない。


 望まれなかったらどうしようと、怖かったのだ。

 困ると言われたら。

 産んでほしくないと言われたら。

 迷惑だと思われたら。


 その時に初めて、自分がどれだけ都合のいい場所にいたのかを突きつけられる気がして、怖かった。


 だから私は、一人で産む覚悟を決めた。


 義幸さんには言わない。

 この子は私が産んで、私が育てる。

 何も求めない。

 そう決めれば、この関係の醜さから少しだけ目を逸らせる気がした。


 家庭を壊したいわけじゃない。

 明美さんや子どもたちを不幸にしたいわけじゃない。

 私はただ、愛してしまった人の子どもを、守りたいと思ってしまっただけだった。


 お腹はまだ目立たなかった。

 つわりも重くはなくて、食欲が少し落ちるくらいで済んだ。

 服も工夫すればどうにかなった。


 義幸さんは、最初のうちは気づかなかった。


 相変わらず部屋に来て、相変わらず穏やかに笑って、時々疲れた顔をして、私の肩に額を預けた。

 そのたびに、私は胸の奥がきりきりした。


 この人は何も知らない。

 私の中に、自分の子どもがいることを知らないまま、いつも通りに笑っている。


 それが苦しくて、でも少しだけ安心でもあった。


 知らないままでいてくれればいい。

 そうしたら、何も壊れない。

 少なくとも、今すぐには。


 でも、そんな都合のいい話が長く続くはずもなかった。


 妊娠五ヶ月に入る頃には、さすがに服の上からでも身体つきが少し変わり始めていた。

 胸が張って、腰回りも丸くなる。

 自分では隠しているつもりでも、毎週のように会っている相手にはわかってしまう。


 その日も、義幸さんは仕事帰りに私の部屋へ来ていた。


 コンビニで買ってきたパスタを食べながら、他愛ない話をしていた。

 子どもの学校行事のこと。

 上司が無茶ぶりしてきたこと。

 最近暑くなってきたこと。


 私はできるだけ、いつも通りに笑っていたつもりだった。


 でも食後に立ち上がった時、テーブルの角に軽く手をついた拍子に、義幸さんの視線がふっと止まった。


「……彩花」


「なに?」


「痩せたかと思ってたけど、逆だ」


 心臓が止まるかと思った。


「え」


「もしかして」


 義幸さんの声が、静かに落ちる。


「妊娠してる?」


 何も言えなかった。


 言い逃れを考えようとした。

 太っただけだと笑うとか、体調を崩しているだけだと言うとか。

 でも、そのどれも喉に引っかかって出てこなかった。


 私が黙ったままでいると、義幸さんがゆっくり立ち上がる。


「……本当に?」


 怒ってはいなかった。

 ただ、ひどく動揺していた。


 私は小さく頷いた。


 部屋の空気が、一気に変わる。

 さっきまでのどうでもいい会話も、コンビニの容器も、何もかも急に場違いなものに見えた。


「どうして言わなかったの」


 責める声ではなかった。

 でも、それがかえって痛かった。


「……言えませんでした」


「なんで」


「困らせると思って」


 義幸さんは何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。

 その喉の動きだけが見えた。


「一人で、どうするつもりだったの」


 その問いに、私は少しだけ笑ってしまった。

 笑うような場面ではなかったのに、笑わないと泣きそうだった。


「産むつもりでした」


「彩花」


「一人で育てるつもりでした」


 義幸さんの顔が、はっきりと歪んだ。


 驚き。

 困惑。

 そして、たぶん焦りにも似た何か。


「なんで、そんな大事なことを一人で決めるの」


「だって」


 そこで初めて、私の声も震えた。


「だって、義幸さんには家庭があるから」


 言った瞬間、急に涙が込み上げてきた。

 今までずっと飲み込んでいたものが、一気にこぼれそうになる。


「私は、最初からわかってました。こういう関係だってことも、祝福されるようなものじゃないってことも」


 義幸さんが何も言わない。

 その沈黙が怖くて、私は続けた。


「家庭を壊したいわけじゃないんです。何かを奪いたいわけでもないです。ただ……」


 ただ、愛してしまった。

 その先が言えなくて、唇を噛む。


「ただ、産みたかったんです」


 義幸さんが目を閉じる。

 それから、少しだけ長い沈黙のあとで言った。


「困るよ」


 その言葉に、息が止まった。


 やっぱり、と思った。

 当たり前だ。

 困るに決まっている。

 何を期待していたんだろう。


 視界がにじむ。


 でも、次の言葉は予想していたものとは違った。


「困るに決まってる」


 義幸さんは、額に手を当てたまま、低く続けた。


「そんなの、困るよ。お前だけに背負わせるなんて」


 私は瞬きをした。

 涙が頬を伝う。


「……え」


「一人で育てるなんて、そんなの駄目だ」


 義幸さんがゆっくり顔を上げる。

 その目はまだ揺れていたけれど、さっきよりずっと強かった。


「明美と別れる」


 時間が止まったみたいだった。


「ちゃんと彩花と向き合う」


 何を言われているのか、すぐには理解できなかった。


「彩花と結婚したい」


 その一言で、ようやく意味が追いついた。


 私は息を呑んだまま動けなかった。

 そんな言葉、予想したこともなかった。


 一人で産むつもりだった。

 一人で育てるつもりだった。

 そう決めて、そうやって自分を守っていたのに。


 義幸さんは、私の知らない未来を口にした。


「君と子どもを、ちゃんと守りたい」


 その言葉で、堪えていたものが完全に切れた。


 涙が次から次へと落ちて、視界が滲む。

 泣くつもりなんてなかったのに、止められなかった。


「……本気ですか」


 やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。


 義幸さんは少しだけ間を置いてから、はっきり頷いた。


「本気だよ」


 その顔は、真剣に見えた。

 少なくとも、その時の私にはそう見えた。


 だから信じてしまった。


 この人は逃げないのだと。

 私と、この子から目を逸らさないのだと。

 今まで誰にも祝福されなかった関係に、ようやく未来ができるのだと。


 嬉しかった。

 怖かった。

 信じていいのかわからなかった。

 でも、信じたかった。


 義幸さんが私を抱き寄せる。

 肩に額が触れて、その体温に、また涙がこぼれた。


「ごめん」


 低い声が落ちてくる。


「一人で抱えさせてごめん」


 違う。

 義幸さんは何も知らなかった。

 勝手に決めて、勝手に隠したのは私だ。


 そう思うのに、その腕の中にいると、もう全部どうでもよくなりそうだった。


「もう大丈夫だから」


 その言葉が、呪いみたいに甘かった。


 私はその夜、初めて未来を想像した。


 義幸さんと三人で暮らすこと。

 この子を二人で抱くこと。

 朝、当たり前みたいに同じ家で起きること。


 そんなもの、最初から望んではいけないと思っていたのに。


 でも一度想像してしまうと、もう戻れなかった。


 もちろん、不安が消えたわけじゃない。

 明美さんには何て言うのだろう。

 子どもたちはどうなるのだろう。

 本当にそんなに簡単に離婚できるのだろうか。


 考えれば考えるほど、怖いことだらけだった。


 それでも、その夜の私は、その不安よりも、やっと自分たちの関係に名前がつくのかもしれないという期待の方が大きかった。


 祝福なんて、きっと誰にもされない。

 それでも、二人で選んだ未来なら、進めるのかもしれない。


 そう思ってしまった。

 馬鹿みたいに。


 部屋の明かりを落としたあとも、私はしばらく眠れなかった。

 隣には義幸さんがいて、時々寝返りを打つ気配がする。

 お腹にそっと手を当てると、まだ何もわからないくらい小さな命が、たしかにそこにある気がした。


 この子には父親ができる。

 私は一人じゃなくなる。

 義幸さんは私を選んでくれる。


 そのどれもが、夢みたいだった。


 だからたぶん、私はその時にはもう、見たくないものを見ないふりしていたのだと思う。


 離婚の話を、義幸さんはまだ何一つ具体的にしていないこと。

 明美さんとどう向き合うのか、何も決まっていないこと。

 それでも「大丈夫」と言う声だけは、ひどく甘く響いたこと。


 全部、わかっていたはずなのに。


 それでも私は、その夜、自分の中にある小さな命に触れながら、ただ一つのことだけを信じようとしていた。


 ようやく私たちにも、未来ができたのだと。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ