救いになりたかった
あの夜を境に、酒田さんの見え方は少しだけ変わってしまった。
職場で顔を合わせれば、相変わらず穏やかで、落ち着いていて、誰に対しても同じように公平な上司のままだった。
書類の確認をして、進捗を聞いて、困っている後輩がいれば短く手を貸す。そんな、いつもの酒田さん。
何も変わっていないように見えるのに、私の方だけが勝手に変わってしまった。
「佐伯さん、この件だけ先に返しておいてもらえる?」
「はい」
「ありがとう。助かる」
たったそれだけの会話にすら、意味を探してしまう。
少し声がやわらかかった気がする。
目が合う時間が長かった気がする。
そんなはずないのに、そんなことを考える自分が嫌だった。
あの夜のことを、酒田さんは忘れたのだろうか。
いや、忘れたというより、なかったことにしたいのかもしれない。
それが一番まともで、大人らしい態度なのだとも思う。
私は何度も、自分にそう言い聞かせた。
酒田さんは少し疲れていて、たまたま私に話しただけ。
特別な意味なんてない。
私が勝手に揺れているだけだ。
そう思おうとするほど、あの夜の酒田さんの顔が頭から離れなかった。
誰にも言えなくて。
本当は、明美としたいだけなんだけど。
あの静かな声を思い出すたび、胸の奥がひどく落ち着かなくなる。
苦しいのは酒田さんのはずなのに、どうして私がこんなふうになるのだろうと思った。
翌週は仕事が立て込んでいて、私はそのざわつきをうまく持て余したまま忙しさに飲み込まれていた。
月初特有の慌ただしさの中で、確認漏れをして差し戻しを食らい、他部署との調整も噛み合わず、終業時間を過ぎる頃には頭がうまく回らなくなっていた。
パソコンの画面を見たまま、小さく息をつく。
その時、斜め後ろから声がした。
「佐伯さん、まだかかりそう?」
振り返ると、酒田さんが立っていた。
「あ、はい。もう少しです」
「そっか。無理なら明日に回してもいいけど」
「いえ、今日のうちに終わらせます」
そう答えると、酒田さんは私の画面を軽く見て、「じゃあ、最後だけ一緒に確認しようか」と椅子を引いた。
本当に、それだけのことだった。
上司が、残っている部下を放って先に帰らなかった。ただそれだけ。
でも隣に座られると、無駄に緊張した。
画面を覗き込む距離が近い。
酒田さんのシャツの袖が、ふとした拍子に私の腕に触れそうになる。
それだけで意識してしまう自分が、情けなかった。
「ここ、言いたいことはわかるけど、順番を少し入れ替えた方が読みやすいかな」
「はい」
「あとこの表現、少し強く見えるから、もう少しやわらかくしよう」
酒田さんの声はいつも通りで、落ち着いていた。
何も知らない顔で、何もなかったみたいに仕事の話をする。
それが少し安心で、少しだけ寂しかった。
全部直し終わった頃には、フロアに残っていたのは私たちだけだった。
時計を見ると、思っていたより遅い時間になっている。
「お疲れさま」
「すみません、こんな時間まで付き合わせてしまって」
「佐伯さんが謝ることじゃないよ。むしろ、こっちが引き留めたようなものだし」
そう言って笑った横顔を見た瞬間、あの夜の表情がふいに重なった。
誰にも言えなくて。
風俗にでも行ってきてって言われたんだよね。
胸の奥が、また嫌なくらい騒いだ。
「……あの」
「うん?」
「酒田さんさえよければ、少しだけ飲んで帰りませんか」
口にしたあとで、自分でも驚いた。
誘うつもりなんてなかったはずなのに、言葉は思っていたより自然に出た。
酒田さんは少しだけ目を瞬かせた。
「この前のお礼、というか……。残業、最後まで見ていただいたので」
慌てて言い足すと、酒田さんは小さく笑った。
「気を遣わせたならごめん」
「違います。私が、そうしたいだけです」
言った瞬間、心臓が強く跳ねた。
そうしたいだけ。
まるで私が、酒田さんと二人でいたいみたいな言い方だ。
でも酒田さんは、それ以上追及することはしなかった。
「……じゃあ、少しだけ」
その言い方が、かえってほっとした。
入ったのは駅から少し離れた、小さめの店だった。
時間が遅いせいか客は少なく、騒がしさのない空気がかえって落ち着かなかった。
疲れているから、一杯だけにしよう。
そう思っていたのに、気がつくと思ったより色々なことを話していた。
仕事の失敗のこと。
新人のくせに空回りしている気がすること。
周りに迷惑ばかりかけている気がして、勝手に落ち込んでしまうこと。
酒田さんは相槌を打ちながら聞いてくれた。
必要なところだけ短く返して、変に甘やかさない。
「迷惑かけてない新人なんていないよ」
「でも、毎回似たようなことでつまずいてる気がして」
「つまずいてるって自覚できてるなら大丈夫。駄目なのは、同じことしてても気づかない人だから」
そんなふうに言われるだけで、少しだけ息がしやすくなる。
酒田さんは、いつもそうだった。
「酒田さんは、こういう時どうしてるんですか」
「こういう時?」
「しんどい時とか、うまく切り替えられない時とか」
聞いたあとで、また余計なことを聞いたかもしれないと思った。
でも酒田さんは、グラスを持ったまま少しだけ苦く笑った。
「どうしてるんだろうね」
それから、間を置いて続ける。
「前は、家に帰ればそれなりに切り替わってたんだけど」
その言い方だけで、意味はわかった。
また家庭のことだ。
でも今度は前みたいに不意打ちではなくて、私の方から聞いてしまったのだという意識があった。
「最近は、帰ってもあんまり休まらないかな」
酒田さんは笑っていた。
でも、その笑い方はやっぱりどこか乾いている。
「明美には相変わらず断られるし」
軽く言ったはずのその一言が、妙に重かった。
「男としての自信、なくしそうになるよ」
私はグラスを持ったまま固まってしまった。
そんなことを、そんなふうに笑って言わないでほしかった。
笑わないと、もっと辛くなるのかもしれないと思うと、余計に胸が痛んだ。
「こんな話するの、佐伯さんにだけだよ」
顔を上げると、酒田さんは真っ直ぐこちらを見ていた。
「本当は、誰にも言いたくないんだけど」
その一言で、私の中の何かが静かに傾いた。
ああ、やっぱり。
私は少しだけ特別なんだ。
この人にとって、話してもいい相手なんだ。
そう思ってしまったら、もう駄目だった。
「……私は」
声が、思ったより小さく震えた。
「私は、酒田さんを魅力のない男性だなんて、一度も思ったことありません」
言い切った瞬間、心臓が痛いほど鳴った。
もっと曖昧な言い方もできた。
もっと逃げ道のある言葉だって、きっとあった。
それでも、あの時の私は、酒田さんが否定されたまま笑っていることに耐えられなかった。
そんなの違う、と伝えたかった。
酒田さんは、すぐには何も言わなかった。
数秒の沈黙がやけに長く感じられる。
やがて、困ったように笑った。
「……それ、ずるいな」
「え」
「そんなこと言われたら、勘違いする」
低い声だった。
責めるようではなく、むしろ自分を抑えるみたいな響きがあった。
私は何か返さなければと思った。
でも言葉が出てこない。
視線だけが、絡まって離れなかった。
「ごめん」
そう言ったのが酒田さんだったのか、私だったのか、今ではもう思い出せない。
ただ、次の瞬間には、私たちはキスをしていた。
長いものではなかった。
触れて、離れて、それでもまた離れきれないような、ひどく曖昧なキスだった。
酔っていたから、ではなかった。
むしろ、どこかはっきりしていた。
このままじゃいけないと、ちゃんとわかっていたのに、止めなかった。
店を出てからの記憶は、ところどころ曖昧だ。
夜風が思ったよりぬるかったこと。
駅前の光がにじんで見えたこと。
歩きながら、何度も何かを言いかけて、結局どちらも何も言えなかったこと。
マンションの前まで来た時、酒田さんが足を止めた。
「今日は帰る」
その言い方に、はっとした。
ここで終わることも、まだできるのだと思った。
それなのに私は、ほんの一瞬の迷いのあと、その袖を掴んでいた。
「……帰らないでください」
掴んだ瞬間に、自分が何をしているのか理解した。
理解したのに、手を離せなかった。
酒田さんが振り返る。
苦しそうに眉を寄せた顔だった。
「佐伯さん、それは」
「わかってます」
何がわかっているのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、この人をこのまま一人で帰したくなかった。
さっきのあの顔のまま、一人で夜に戻してしまうのが嫌だった。
それはきっと、私のためでもあった。
それでもその時の私は、酒田さんのためだと思いたかった。
少しの沈黙のあと、酒田さんは「少しだけ」と低く言った。
部屋に入ってからもしばらくは、どちらも妙に静かだった。
電気をつけて、バッグを置いて、私はキッチンに立って水を出した。
グラスを持つ指先が、自分でもわかるくらい落ち着かなかった。
「水、飲みますか」
「……うん」
グラスを渡す時、指先が触れた。
たったそれだけなのに、胸が息苦しいほど詰まった。
ここで「やっぱり帰ってください」と言えばよかった。
まだ間に合った。
酒田さんだって、たぶんその一言があれば帰った。
でも、言えなかった。
言ってしまえば、本当に何もなかったことになる気がした。
それが怖かった。
どちらからともなく、また唇が触れた。
今度はさっきより少し長くて、少しだけ深かった。
その先のことは、ところどころしか覚えていない。
シャツのボタンがうまく外せなくて、自分でも嫌になるくらい手が震えていたこと。
酒田さんが何度か「ごめん」と言ったこと。
そのたびに、私は首を振ったこと。
朝、目が覚めた時、最初に見えたのは散らばった自分の服だった。
カーテンの隙間から薄く光が差していて、見慣れた自分の部屋が、知らない場所みたいに感じられた。
隣には、背を向けて眠る酒田さん。
その現実がじわじわと輪郭を持って迫ってきて、血の気が引いた。
やってしまった、と思った。
頭の中で、その言葉だけが何度も反響する。
上司と部下。既婚者。家庭がある人。
どれだけ理由を探しても、駄目なことをした事実は変わらない。
身体のあちこちが、昨夜のことを嫌でも思い出させた。
その生々しさが、余計に苦しかった。
私が動けずにいる気配に気づいたのか、酒田さんがゆっくり振り返った。
目が合った瞬間、その顔がひどく苦いものに変わる。
「……ごめん」
掠れた声だった。
「最低なことした」
私は何も言えなかった。
責めたいわけじゃない。
でも「違います」とも、すぐには言えない。
「巻き込むつもりじゃなかった」
そう言って酒田さんは起き上がった。
床に落ちていたシャツを拾う手つきが、少しだけ乱暴だった。
「忘れて。……いや、そんなの無理か」
自分を責めるみたいに笑って、また「ごめん」と言う。
その姿を見ていたら、不思議と怒りは湧かなかった。
むしろ、そんなふうに自分を責めている酒田さんが、ひどく痛々しく見えた。
私だって嫌なら止められた。
店を出たあと、別れればよかった。
袖を掴まなければよかった。
帰らないでくださいなんて言わなければよかった。
全部、わかっていたはずなのに。
「……忘れなくていいです」
気づけば、そう言っていた。
酒田さんがゆっくり振り返る。
「私も、ちゃんとわかってました」
声が震える。
でも一度口にすると、もう止まらなかった。
「酒田さんだけのせいじゃないです」
その言葉が正しいのかどうか、私にはもうわからなかった。
ただ、この人だけを加害者みたいにしたくなかった。
酒田さんはしばらく黙って、それから小さく息をついた。
「……佐伯さんは、優しいね」
その言葉が、なぜだかひどく苦しかった。
優しいのではない。
たぶん私は、もうその時には、この人を責められなくなっていたのだ。
酒田さんはそれ以上何も言わなかった。
身支度を整えて、「また月曜に」とだけ残して帰っていった。
ドアが閉まったあと、私はしばらくその場から動けなかった。
罪悪感は、ちゃんとあった。
こんなの駄目だと、頭では何度も思った。
なのに、その罪悪感の底に、別の感情が沈んでいることにも気づいていた。
私しか知らない酒田さんの顔。
私にだけ見せた弱さ。
私にだけこぼした言葉。
それを思い出すたび、胸の奥のどこかが熱を持つ。
最低だと思う。
でも、嬉しかった。
月曜日、職場で酒田さんはいつも通りだった。
「おはよう、佐伯さん」
「おはようございます」
それだけ。
何もなかったみたいに仕事が始まる。
少し安心して、少しだけ寂しかった。
やっぱり、あの夜のことは間違いだったのだ。
そう思おうとした昼過ぎ、書類を持ってきた酒田さんが、ほんの一瞬だけ声を落とした。
「昨日、ちゃんと休めた?」
業務とは関係のない、短い一言だった。
私は息を詰めてから、「はい」とだけ答えた。
酒田さんはそれ以上何も言わずに頷いて戻っていく。
たったそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
なかったことにはしていない。
少なくとも、酒田さんの中にも、ちゃんと残っている。
そう思えた。
それからの酒田さんは、職場では相変わらず同じだった。
でも二人きりになった時だけ、ほんの少しやわらかく見える瞬間が増えた気がした。
気のせいかもしれない。
私の願望が見せる幻かもしれない。
それでも、そう思いたかった。
私といる時だけ、少しだけ表情がほどける。
私がいるから、少しだけ楽になれている。
そんなふうに。
次に二人で飲んだのは、それから一ヶ月ほど経ってからだった。
最初から約束していたわけではない。
でも結局ほかの人の予定が合わず、流れでまた二人になった。
似たような店。
似たような時間。
なのに、前とはもう何もかもが違っていた。
私たちは、一度、越えてしまっている。
仕事の話から始まって、他愛ない雑談に移って、やがてまた家庭のことに触れた。
「最近……どうなんですか」
私がそう聞くと、酒田さんはグラスを指先で回しながら苦く笑った。
「何が?」
「家のことです」
少し間があってから、酒田さんは視線を落とした。
「相変わらずかな」
「……そうですか」
「誘っても断られるし。まあ、もう慣れたと言えば慣れたけど」
そこまで言って、小さく笑う。
「慣れたとか言いながら、結構きついよ。男としては」
その言葉を、私はまた耐えられなかった。
あの夜のあとでも、この人はまだ否定され続けている。
その事実が、どうしても苦しかった。
口を開く前に、自分でもわかっていた。
この言葉を言えば、もう戻れない。
でも止められなかった。
「私は」
酒田さんが顔を上げる。
「私は、酒田さんを魅力のない男性だなんて思ったこと、一度もありません」
今度は、前よりもはっきり言えた。
酒田さんはしばらく黙っていた。
その沈黙の中に、戸惑いも、嬉しさも、たぶん罪悪感もあった。
「……そういうこと、簡単に言わない方がいいよ」
低い声だった。
「勘違いするから」
「勘違いじゃないです」
自分でも驚くほど、まっすぐ言えてしまった。
「私は、本気でそう思ってます」
酒田さんが目を伏せる。
それから、ひどく弱った顔で笑った。
「ほんと、ずるいな」
そのずるさに溺れたのは、きっと私の方だった。
その夜、私たちはまた一緒にいた。
最初の夜のような衝動だけではなく、今度はもっとはっきり、自分の意思で。
止められたのに、止めなかった。
やめる理由を探せたのに、探さなかった。
その事実が、かえって私を少し楽にした。
これは事故じゃない。
一度の間違いでもない。
私は、自分で選んだのだと思えたから。
もちろん、正しいことだとは思っていなかった。
不倫だ。
既婚者と関係を持っている。
最低なのはわかっている。
でも、そう言い切ってしまうには、私は酒田さんの痛みを知りすぎてしまった。
明美さんが拒絶したものを、私が少し埋めているだけ。
家庭を壊したいわけじゃない。
酒田さんだって、家族を捨てたいわけじゃない。
ただ、傷ついたままでいる人を、私が少しだけ楽にしているだけ。
そんなふうに考えれば、少しだけ呼吸がしやすくなった。
言い訳だと、どこかではわかっていた。
でも人はたぶん、言い訳がなければ簡単には壊れてしまう。
私は私のために、その言い訳を抱いた。
酒田さんと身体を重ねたあとの夜は、ひどく静かだった。
隣で目を閉じる横顔を見ながら、私は何度も思った。
この人は家では、こんなふうに眠れているのだろうか。
もし眠れていないのなら。
もし休まらないのなら。
私といる時間だけでも、少し楽になればいいのに。
そう願ってしまった。
願うこと自体が、もう引き返せないところまで来ている証拠なのに。
それでも私は、その夜もまだ、自分の気持ちに名前をつけなかった。
恋だと認めてしまうには、あまりにも遅くて、あまりにも悪かったから。
だから私は、ただ思うことにした。
私はこの人の、救いになりたかったのだと。




