やさしい人
酒田さんは、やさしい人だった。
少なくとも、私にはずっとそう見えていた。
社会人になる前の私は、仕事ができる人ほど怖いものだと思っていた。
忙しければ口調が荒くなって、余裕がなければ部下の失敗に苛立って、立場が上になればなるほど人に厳しくなる。そんな勝手な先入観を、疑ったこともなかった。
けれど、配属されて最初に直属の上司になった酒田さんは、そのどれにも当てはまらなかった。
「この資料、全部を一気に見ようとしなくていいよ。まず結論だけ拾ってみて」
「焦らなくて大丈夫。新人が最初から全部できる方が珍しいから」
「わからないまま抱え込むのが一番まずいかな。わからないって言うのも仕事だよ」
厳しくないわけではない。
私が確認不足で手戻りを出した時なんかは、さすがに表情も声も引き締まる。
それでも酒田さんは、感情で怒ることをしなかった。
何が駄目だったのか。次からどうすればいいのか。必要なことだけを短く整理して伝えて、それで終わり。人前で必要以上に恥をかかせることもなければ、一度指摘したことをいつまでも引きずることもない。
そういうところが、私は好きだった。
――好き、と言っても、もちろん最初は恋愛感情ではない。
尊敬だった。
上司として、人として、素直にすごいと思っていた。
飲み会の席でも、酒田さんはよく周りを見ていた。
お酒の弱い後輩には無理に勧めないし、料理が来れば自然に遠い席へも取り分ける。会話に入れずにいる人がいれば、わざとらしくないタイミングで話を振る。
愛想を振りまくタイプではない。
けれど、見ていないようでちゃんと見ている。そんなやさしさがあった。
家庭の話をする時の酒田さんは、職場にいる時より少しだけ柔らかかった。
「この前、下の子が夜中に熱出してさ。寝たと思ったら泣くの繰り返しで、さすがに参った」
「上の子なんか、最近もう生意気でね。俺が迎えに行っても、ママがよかったって普通に言うから、結構へこむよ」
そう言って苦笑する顔は、仕事中にはあまり見せないものだった。
奥さんのことも、たまに話していた。
「うちはだいたい明美が回してくれてるから、俺なんて全然だよ」
「子ども三人抱えてるの、本当に大変だと思う」
大げさにのろけるわけではない。
でも、何気ない言葉の端々から、家庭をちゃんと大事にしている人なんだろうなと思えた。
結婚していて、子どももいて、それでも仕事もきちんとこなしている。
そんな人が本当にいるんだと知るたびに、少しだけ嬉しくなった。
こういう人の下で働けたらいい。
こういう大人になれたらいい。
こういう家庭を築けたら、きっと幸せなんだろうな。
そんなふうに思っていた。
だから、その人が珍しく弱った顔を見せた時、私はどうしたらいいのかわからなかった。
月末の処理がようやく一段落した金曜日だった。
もともとは何人かで軽く飲みに行く予定だったのに、一人は子どもの発熱、一人は恋人との約束、もう一人は残業で抜けられなくなって、気づけば店の前に残ったのは私と酒田さんだけだった。
駅前のざわついた通りで、酒田さんがスマホをしまいながら苦笑する。
「なんか、見事に二人だけになっちゃったね。今からでも店、変える?」
その言い方で、すぐにわかった。
二人きりになるなら無理に飲まなくてもいい、という確認なのだ。
私は少しだけ迷ってから、首を振った。
「いえ、せっかくですし」
「うん?」
「酒田さんがよければ、軽く飲んで帰りませんか?」
一瞬だけ、酒田さんが目を細めた。
それから、いつもの穏やかな調子で「じゃあ、少しだけ」と頷いた。
その時の私は、本当に、それ以上のことなんて何も考えていなかった。
ただもう少し仕事の話がしたいと思っただけだったし、少しだけでも、酒田さんと同じ時間を過ごせるのが嬉しかっただけだ。
入ったのは駅前のよくある居酒屋だった。
金曜の夜らしく店内は騒がしかったけれど、通された奥の席は思っていたより落ち着いていて、二人で話すにはちょうどよかった。
仕事の話をした。
新しく入ったシステムが使いづらいこと。
来月の業務の見通し。
他部署とのやりとりで気をつけること。
いつもと変わらない、気楽な時間だった。
でも、三杯目に入ったあたりで、酒田さんがふっと黙った。
顔が赤いわけでも、酔って崩れているわけでもない。
ただ、グラスの中の氷が溶けていくのを眺めているような、少し遠い目をしていた。
「酒田さん?」
「ああ、ごめん。ちょっとぼんやりしてた」
「お疲れですか?」
「まあ、疲れてるのはそうなんだけど」
そこで言葉が途切れた。
私は何となく、胸の奥がざわついた。
酒田さんは、こういう間の取り方をする人ではない。疲れているなら疲れているで、もっと軽く笑って流す人だ。
「……何かあったんですか」
聞いた瞬間、踏み込みすぎたかもしれないと思った。
部下が聞くことではないのかもしれない。
けれど酒田さんは少し驚いたあと、困ったように笑った。
「佐伯さんって、そういうの気づくよね」
「そんなことないです」
「いや、あるよ。助かる時もある」
その言い方が、妙に胸に残った。
助かる。
その一言だけで、自分が少しだけ特別な場所に立てたような気がしたのだと思う。
今なら、それがどれだけ単純なことだったかわかる。
でもあの時の私は、そんな一言に簡単に心を揺らしてしまった。
酒田さんはしばらく視線を落としていたが、やがて小さく息をついた。
「家庭のことなんだけど」
その一言で、背筋が少し伸びた。
聞いてはいけないものに、足を踏み入れてしまう気がした。
「明美と……妻と、もう何年もそういうのがなくて」
最初は意味がわからなかった。
でも、次の言葉で理解した。
「いわゆる、セックスレス」
一瞬、頭が真っ白になる。
反応に困っている私を見て、酒田さんは苦く笑った。
「ごめん。部下にする話じゃないよね」
「いえ……その……」
「ただ、誰にも言えなくて」
その声は静かで、変に湿っぽくなくて、だからこそ余計に本当のことのように聞こえた。
「前にさ、もう義幸とはそういうことできないから、風俗にでも行ってきてって言われたんだよね」
思わず顔を上げる。
「え……」
「喧嘩したとか、そういう流れでもなくて。わりと普通に」
酒田さんは笑っていた。
でも、その笑い方があまりに乾いていて、私は胸のあたりをきゅっと掴まれたみたいになった。
「体だけの関係なんて、虚しいだけなんだけどな」
ぽつりと落ちたその言葉に、私は何も返せなかった。
「俺は別に、誰でもいいわけじゃないんだよ。本当は、明美としたいだけなんだけど」
大人の男の人が、そんな顔をするんだと思った。
弱音を吐くことに慣れていない人が、どうしようもなく疲れた時だけ見せるような、ひどく静かな表情だった。
私はその顔を、知らなかった。
「……つらいですね」
やっと出てきたのは、そんなありふれた言葉だった。
でも酒田さんは、少しだけ目を伏せて、「うん」と答えた。
「正直、結構つらい」
その短い返事が、やけに近く感じられた。
「男のこういう悩みって、言いにくいんだよね。外で女作れば最低だって言われるし、何もしないで耐えてても情けないし」
私は明美さんのことを何も知らない。
会ったこともなければ、話したこともない。
それなのに、その時の私は、目の前の酒田さんの言葉を疑うことができなかった。
どうして、こんな人を拒絶できるんだろう。
どうして、こんなやさしい人に「風俗にでも行ってきて」なんて言えるんだろう。
もちろん夫婦にしかわからないことはある。
外から見えるものなんて一部でしかない。
頭ではそうわかっていたのに、目の前で傷ついたように笑う酒田さんを見ていると、その理屈がうまく働かなかった。
「……すみません、私、何て言えばいいのか」
「いや、困らせたよね。ごめん」
「謝らないでください」
思ったより強い声が出て、自分で驚いた。
酒田さんも少しだけ目を見開いて、それからふっと笑う。
「佐伯さんは、ほんと優しいな」
胸が、どくんと鳴った。
優しいのは、あなたの方なのに。
そう言いたかったのに、言葉にはできなかった。
そのあと話題は少しずつ軽い方へ戻った。
仕事のこと、最近見た映画のこと、子どもが好きなお菓子の話。酒田さんはいつもの調子で笑っていたけれど、私の中では何かが静かに狂い始めていた。
会計を済ませて店を出ると、夜風が思ったより冷たかった。
駅前のネオンが滲んで見えるのは、お酒のせいだけじゃなかったと思う。
「送るよ」
「大丈夫です、近いので」
「でも夜道だし」
そう言って、当たり前みたいに歩き出すところも、やっぱり酒田さんらしかった。
並んで歩く道は短いはずなのに、沈黙が長く感じられた。
さっき聞いた話が、頭の中で何度も反芻される。
風俗にでも行ってきて。
体だけの関係なんて虚しい。
本当は、明美としたいだけなんだけど。
どの言葉も、胸のどこかに引っかかったまま抜けなかった。
「今日はありがとう」
マンションの前で、酒田さんが足を止める。
「こんな話まで聞かせちゃって、ごめんね」
「いえ」
「忘れて。明日からはいつも通りで」
その言い方が、妙に寂しく聞こえた。
まるで本当は忘れてほしくないみたいに、そんなふうに感じてしまった自分に少し戸惑う。
「……忘れませんよ」
口にしてから、自分でも何を言っているんだろうと思った。
酒田さんは一瞬だけ黙って、それから困ったように笑った。
「そっか」
たったそれだけなのに、胸の奥が熱くなった。
エントランスの自動ドアが開く。
中へ入る前に振り返ると、酒田さんはまだそこに立っていた。
街灯の下に立つ横顔は、いつも通り整っていて、でも今夜は少しだけ疲れて見えた。
仕事ができる上司。家庭を大事にしている夫。子どもにやさしい父親。
そう思ってきた人が、私の知らないところで、こんなふうに傷ついていた。
その事実に、私はどうしようもなく心を揺らされていた。
部屋に戻っても、すぐには眠れなかった。
メイクを落として、髪を乾かして、ベッドに入っても、頭の中には酒田さんの声ばかりが残っていた。
男のこういう悩みって、言いにくいんだよね。
俺は別に、誰でもいいわけじゃないんだよ。
本当は、明美としたいだけなんだけど。
どうしてそんなことを、私に話したんだろう。
ただの部下に。
ただの、年下の後輩に。
信頼されたのだと思いたかった。
少なくとも、話してもいい相手だと思われたのだと。
でも、たぶん、それだけじゃなかった。
私はあの夜、初めて知ってしまったのだ。
職場で見せる穏やかな顔とも、飲み会で子どもの話をする時の柔らかい笑顔とも違う、もっと脆くて、もっと近い表情を。
あんなふうに、誰にも見せない顔をする人を、私は知らなかった。
そしてたぶん、私はもうその時には、少しだけ願っていたのだと思う。
この人にとって、私が、ただの部下ではなくなれたらいいのにと。
もちろん、その気持ちに名前なんてつけなかった。
つけられるはずもなかった。
だから私はただ、あの夜のことを何度も思い返しながら、自分に言い聞かせていた。
あれは恋なんかじゃない。
ただ、尊敬している上司の、知らなかった一面を見てしまっただけだと。
でも、本当にそうだったのなら。
どうしてあの夜の私は、眠れないほど嬉しかったのだろう。
2026.4.8
彩花の感情描写を一部修正




