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その言葉を、愛だと思った  作者: リフェリア
やさしかった人

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6/6

知ろうとしなかった

 その話を義幸から聞いたのは、事故の三日ほど前だった。


 夕食のあと、子どもたちがようやく静かになって、私は流しに残った皿を洗っていた。

 リビングでは上の子たちがテレビを見ていて、下の子はソファでうとうとしている。

 義幸はテーブルに肘をついて、珍しく少し機嫌よくビール缶を持っていた。


「そういえばさ」


「うん?」


「前に言ってた若い子いるだろ。教育係みたいなことしたら、やたら懐いた子」


 私はスポンジを動かしながら、「いたね」とだけ返した。


 義幸が若い子に相談を受けているらしいことは、前にも聞いていた。

 面倒見がいいからだろうな、くらいにしか思っていなかった。


「その子、退職するらしい」


「へえ。転職?」


「いや、妊娠」


 私は手を止めて振り返った。


「そうなんだ」


「うん。結婚するみたいで」


 義幸はそこで少し笑った。

 その笑い方が、どこか昔の、私が好きだった頃の義幸に似ていた。


「それで、お世話になったからって、最後に食事でもって言われて」


「二人で?」


 何気なく聞いたつもりだった。

 でも、自分でも少しだけ声が固かったのがわかった。


 義幸はすぐに頷いた。


「まあ、向こうから誘われたのはそう。せっかくだし、お祝いも兼ねて俺が奢ろうかなと思ってる」


「そうなんだ」


「ちょっといい店らしくてさ。コースだし、ワインもついてるみたいなんだけど、俺は車だから飲まない」


 そう言って、義幸はテーブルの上のスマホを軽く持ち上げた。


「カードで落とすことになると思うけど、いい?」


 私は少しだけ驚いた。


 そんなこと、わざわざ確認してくるのだと思った。

 でも考えてみれば、優花の件のあと、義幸はそういうことを前よりちゃんと言うようになっていた。

 何にいくら使うか。誰とどこへ行くか。遅くなるなら遅くなると、前よりはっきり伝えるようになっていた。


 それが、私にはある種の誠実さに見えていた。


「いいんじゃない。最後なんでしょ」


「うん。まあ、門出だし」


 門出、という言葉に、私は少しだけ胸がやわらいだ。


 妊娠して退職する若い子。

 幸せになるために職場を離れる子。

 そういう相手なら、義幸が気にかけるのも不思議ではないと思えた。


 もちろん、ほんの少しだけ引っかかりはあった。

 どうして二人きりなんだろう、とか。

 わざわざ義幸を誘うほど懐くって、どんな感じなんだろう、とか。


 でも、それを疑いの方へ膨らませる気にはなれなかった。


 優花のことがあったからだと思う。

 一度疑って、問い詰めて、あの顔を見て、それでももう一度戻ろうと決めた。

 そこまでしたのに、また同じように疑うのは、ひどく疲れることだった。


 それに義幸は、その頃には本当に変わったように見えていた。


 早く帰れる日は帰ってきて、子どもたちとも前よりよく話して、私にも気を遣うようになっていた。

 少なくとも家の中では、昔よりずっと穏やかだった。


 だから私は、気にしないことにした。


「その子も、無事に出産できるといいね」


 何気なくそう言うと、義幸は少しだけ目を伏せた。


「……そうだな」


 その時の私は、それをただの相槌だと思った。


 まさかその数日後、その子が死ぬなんて、考えもしなかった。


 義幸が事故を起こしたと連絡が来たのは、夕方を少し過ぎた頃だった。


 下の子にご飯を食べさせて、上の子たちに宿題をするよう声をかけて、私は台所で味噌汁を温め直していた。

 テレビでは夕方のニュースが流れていて、子どもたちはその前でだらだらと座っている。

 いつもと変わらない、慌ただしくて中途半端な時間だった。


 スマホが鳴って、見慣れない番号が表示された。


 なんとなく嫌な予感がした。

 嫌な予感なんて、たいてい当たらない方がいいのに、そういう時に限って当たる。


「もしもし」


『酒田義幸さんの奥さまでいらっしゃいますか』


 相手が名乗ったのが病院だったのか警察だったのか、最初の数秒はよく覚えていない。

 ただ、交通事故、搬送、本人は意識あり、その単語だけが頭に残った。


 手が一気に冷たくなった。


「え……命に別状は」


『現時点では――』


 その先を聞きながら、私は妙に冷静だった。

 冷静というより、頭が一度止まってしまっていたのかもしれない。


 義幸が事故を起こした。

 怪我はしている。

 病院に来てほしい。


 そこまで理解したあと、相手は少しだけ言い淀んでから続けた。


『同乗者の方は、お亡くなりになっています』


 同乗者。


 その言葉で、すぐに思い浮かんだ顔はなかった。

 でも、わかってしまった。


 ああ、あの子だ、と思った。


 妊娠して退職することになって、門出のお祝いに食事へ行くはずだった、若い後輩。

 幸せになるために、職場を離れるはずだった子。


 その子を、義幸が死なせてしまった。


 そう思った瞬間、胸の奥がひどく冷えた。


「……わかりました。行きます」


 電話を切ったあと、しばらくその場で動けなかった。


 テレビの音が遠かった。

 味噌汁の鍋が小さく沸いている音だけが妙にはっきり聞こえた。


「ママ?」


 上の子の声で、我に返った。


 子どもたちをどうするか。

 誰に預けるか。

 今からどこへ行くのか。

 そういう現実が、一気に押し寄せてくる。


 私は母に連絡をして、事情を説明した。

 事故。病院。義幸。

 若い後輩が同乗していたことまでは、うまく言えなかった。


 子どもたちに簡単に説明して、必要なものを掴んで、家を出る。

 頭のどこかはずっと現実的で、財布を持ったか、保険証はいるか、タクシーの方が早いか、そういうことばかり考えていた。

 そうしていないと、幸せになるはずだった若い子を死なせた、という事実に足を取られそうだった。


 病院に着くと、義幸は処置を受けたあとで、ベッドの上にいた。


 顔に擦り傷があって、腕にも包帯が巻かれていたけれど、思っていたよりひどくは見えなかった。

 それを見て、まず安堵した自分に、私は少しだけほっとした。

 まだちゃんと、心配できるのだと思った。


「明美」


 義幸は私の顔を見るなり、ひどく弱った声でそう呼んだ。


「大丈夫?」


 口から出たのは、それだった。

 責める言葉でも、問い詰める言葉でもなかった。


「……うん」


 義幸はそう答えたあと、目を伏せた。

 その顔には、痛みよりも、別のものが強く出ているように見えた。


「ごめん」


 義幸は最初にそう言った。


「ほんとに、ごめん」


 私は少し息を止めた。

 何に対しての謝罪なのか、まだはっきりしないのに、その言い方だけで胸が重くなる。


「警察の人から、少し聞いた」


 そう言うと、義幸の顔がわずかに強張った。

 その変化に、私の中の嫌な予感がまた輪郭を持ち始める。


「……あの子だったの」


 義幸はすぐには答えなかった。


 視線を逸らして、唇を噛んで、それからひどく疲れた声で言った。


「うん」


 私はそれ以上、名前を聞かなかった。

 聞いてしまったら、その子が急に生々しい輪郭を持ちそうで嫌だった。


「最後だからって、向こうが食事に誘ってきて」


 義幸は、途切れ途切れに続けた。


「前に明美にも話してた通り、本当にそれだけだったんだ」


 私は黙ってその先を待った。


「飲んでたから、家まで送るつもりで」


「うん」


「途中で、気分悪いって言われて……吐きそうだって」


 義幸の声は掠れていた。

 それが演技だなんて、この時の私には思えなかった。


「慌ててサービスエリア入ろうとして、ちょっと速度出しすぎて」


 そこで義幸は、一度目を閉じた。


「そしたら、急に腕を掴まれて」


 その一言に、私は思わず息を止めた。


「ハンドル、取られて……」


 そこから先は、ほとんど聞かなくても想像できてしまった。


 酔って、気分が悪くなって、パニックになった若い子。

 それをなんとかしようとして、焦った義幸。

 ほんの一瞬の判断の遅れや運の悪さで、取り返しのつかない事故になる。


 少しの違和感はあった。

 本当にそんなふうにうまく重なるものだろうか、とか。

 どうしてもっと早く停められなかったのだろう、とか。


 でもその違和感は、義幸の顔を見るたびに、すぐに押し流された。


 顔色が悪くて、目の下に影ができていて、ほんの数時間で何年も老けたように見えた。

 私はその時、その顔を、後輩を死なせてしまったことに苦しんでいる顔だと解釈した。


「……その子、ご家族は」


「これから連絡行くと思う」


 義幸の声がそこで途切れた。


 私は想像してしまった。

 妊娠を機に退職することになって、幸せになるつもりでいた若い女の子。

 その家族。

 最後の食事のつもりで出かけて、帰ってこない夜。


 気分が悪くなりそうだった。


 でも、義幸の前で吐くわけにはいかなかった。

 今ここで私まで崩れたら、何も回らなくなる気がした。


「……大丈夫じゃないよね」


 やっとそれだけ言うと、義幸は顔を覆った。


「大丈夫なわけない」


 その声が、ひどく弱かった。


「俺、どうしたらいいかわからない」


 私はその言葉に、胸の奥が痛くなった。


 事故の相手が誰だったのか。

 どういう関係だったのか。

 どこまで本当なのか。


 そういうことより先に、今はもう、この人は壊れかけているのだと思ってしまった。


 病室を出たあと、私は廊下の端で壁に手をついた。


 呼吸が浅かった。

 涙はまだ出なかった。

 それより先に、どうしようという現実ばかりが浮かんだ。


 子どもたちには何て言うのか。

 義幸の怪我はどれくらいなのか。

 事故の相手の遺族への対応は。

 仕事は。保険は。警察は。


 頭の中がそういうことで埋まるたびに、自分がひどく冷たい人間になった気がした。

 でも、その現実を考えることしか、今の私にはできなかった。


 義幸が退院してからしばらくのあいだ、家の中は妙に静かだった。


 子どもたちは事情をよくわかっていない。

 パパは事故にあったの、とだけ伝えると、心配そうにはしたけれど、それ以上は聞いてこなかった。


 義幸は家では、以前よりさらに静かになった。

 ぼんやりしている時間が増えて、食事の途中で箸が止まることもあった。

 夜中に目を覚ましている気配がする日もあった。


 私はそんな義幸を見て、責めることができなくなっていた。


 疑いがまったくないわけではなかった。

 あの説明を、全部そのまま信じきれているわけでもなかった。


 でも、ここで私がその違和感を掘り返したら、義幸は本当に壊れてしまう気がした。


 それに、私も怖かった。


 もし本当に、あの子と義幸の間に、私の知らない何かがあったのだとしたら。

 食事も送迎も、ただの善意ではなかったのだとしたら。

 そう考えた瞬間に、優花の時から今までの全部が、別の意味を持ち始めてしまう。


 それが怖かった。


 疑うのは、体力がいる。

 怒るのも、問い詰めるのも、事実を掘り起こすのも。

 子どもが三人いて、毎日を回すだけで精一杯の私には、その力が残っていなかった。


 だから私は、目の前にあるものだけを見ることにした。


 事故を起こして、怪我をして、人を死なせてしまって、明らかに追い詰められている義幸。

 その人を、今は支えるしかないのだと、そう思うことにした。


 それが愛情だったのか、惰性だったのか、責任感だったのかは、自分でもわからない。


 ただ、そうしないと暮らしが回らなかった。


「大丈夫?」


 私がそう聞くと、義幸は少しだけ困ったように笑う。


「大丈夫じゃないけど」


「……うん」


「でも、明美がいてくれるから」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 事故のあと、義幸は前より私を頼るようになった。

 というより、私しか頼れないように見えた。


 食事を出せば黙って食べる。

 薬を置けば飲む。

 夜中に起きている気配がした日に温かいものを淹れてやると、ありがとうと小さく言う。


 そのたびに私は、自分の中の疑いを押し込めた。


 今はそれどころじゃない。

 今は支えなければならない。

 あの人は、ちゃんと苦しんでいる。


 そう思えば、少しだけ楽だった。


 事故の相手の名前を、私は何度か耳にした。

 でも不思議なくらい、その名前は私の中に残らなかった。


 残したくなかったのかもしれない。


 若い女の子。

 妊娠して退職する予定だった後輩。

 最後の食事のつもりで、夫と一緒にいた子。


 その輪郭だけで止めておきたかった。

 それ以上は知りたくなかった。


 知らなければ、今の生活をまだ続けられる気がしたからだ。


 義幸は、少なくとも家の中では、前よりずっとおとなしくなった。


 私に強く出ることも減った。

 子どもたちに向ける声も、事故の前より柔らかかった。

 壊れ物みたいに静かで、その静けさがかえって痛々しかった。


 私はそんな義幸を見ながら、時々、考えてしまった。


 もしあの時、私がもっと何か言っていたら。

 あの食事の話を聞いた時に、もう少し嫌な顔をしていたら。

 送らせずに済んだのだろうか。


 でも、そんなことを考えても、もう遅かった。


 人が一人死んでいる。

 その事実の前では、夫婦の疑いも不信も、妙に小さく思えた。


 そうやって私は、また自分の感覚を後回しにした。


 見えていないふりをするのは、たぶんもう慣れていた。

 生活を回すために、壊れそうなものから目を逸らすことにも。


 だからこの時も、私はたぶん、知らなかったのではない。


 知ろうとしなかっただけなのだ。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。


同じ一人の人間を見ていても、立場が違えば見えるものはまるで変わってしまうのだと思いながら書いた話でした。


明るい話ではありませんでしたが、最後まで読んでいただけたことを嬉しく思います。

ありがとうございました。


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