第八話:本当の初仕事
初めての跳躍に成功して以来、陸の訓練は目覚ましい進歩を遂げた。
一度、恐怖の壁を乗り越え、力の使い方を「欲求」という形で理解してしまえば、あとはその応用でしかなかった。
リラの指示のもと、陸はさまざまな「欲」をイメージすることで、跳躍の精度と距離を飛躍的に向上させていった。
「――あのパイプの上まで跳べ。そこからなら、街の景色がよく見える」
「この壁の向こう側だ。きっと面白いものがある」
リラの出す課題は常に、陸の好奇心や、ほんのわずかな独占欲を巧みに刺激するものだった。
彼女は、もはや陸を「役立たず」とは呼ばなかった。
その代わりに、優秀だが少し気難しい教師のように、陸の成長を冷静に、そして的確に導いていった。
そして訓練を始めてから一週間が経った頃。
その「仕事」の依頼が舞い込んできた。
その日、リラはいつになく真剣な表情でコンソールに向かっていた。
相手は、これまでの裏社会の人間や個人の研究者とは明らかに違う。
通信モニターに映し出されているのは、アルカディア・ネクサスでも五指に入るといわれる巨大複合企業『クロノス・インダストリー』の、格式高いロゴだった。
「――ええ、分かっています。納期は明日の夜明けまで。商品は極めてデリケートな扱いを要するもの。そして今回の件は完全なオフレコ。承知しました」
リラは澱みない口調で、相手と交渉を進めていく。
「ですが、その条件ですと、こちらの提示する報酬はかなり高額になりますが?」
モニターの向こうで、スーツを着たエリート然とした男が頷くのが見えた。
『構いません。成功の暁には指定の口座に即時、振り込みましょう。我々が必要なのは何よりも「時間」ですので』
「交渉成立ですね」
リラは通信を終えると、ふう、と一度大きくため息をついた。
そして椅子を回転させ、部屋の隅でその様子を固唾を飲んで見守っていた陸の方を、まっすぐに見据えた。
「――初仕事だ、陸」
初めてだった。
彼女が、陸のことを名前で呼んだのは。
その、たった一言で、陸はこれから始まる仕事が、これまでの「おつかい」とはまったく次元の違うものであることを悟った。
リラはモニターに、今回の依頼内容を映し出した。
「依頼主は、クロノス・インダストリー。表向きは星間輸送やエネルギー開発を手掛けるクリーンな大企業だ。だが、その裏では非合法な兵器開発や、スキルチップの研究にも手を出していると噂されている」
「依頼内容はこれだ」
モニターに、一つのカプセルの画像が表示される。
複雑な幾何学模様が刻まれた、鈍い銀色のカプセルだった。
「この試作品のカプセルを、隣の工業ユートピア『ヘパイストス・ファウンドリ』にある彼らの研究所まで届ける。それだけだ」
「それだけ……って」
「ああ、それだけだ。だが問題は、その輸送方法にある」
リラは星図を拡大し、アルカディア・ネクサスとヘパイストス・ファウンドリの位置関係を示した。
「正規の航路を使えば片道三日。しかも最近、この宙域は星間管理局の検閲が異常に厳しくなっている。クロノス・インダストリーは、この試作品を絶対に誰の目にも触れさせたくない。そして何よりも、一刻も早く届けたい」
そこでリラは、一度言葉を切った。
紫紺の瞳が強い光を宿し、陸を射抜く。
「だから我々に依頼が来た。正規の航路を無視し、誰の目にも触れず、そして数時間のうちに星から星へと直接、ブツを届けられる唯一の手段――あんたの『惑星渡り』の力を使ってな」
陸は、ごくり、と唾を飲み込んだ。
自分の力が初めて、誰かに本気で必要とされている。
クロノス・インダストリーという巨大な組織が、大金を払ってでも自分のこの力を借りたいと、そう言っているのだ。
それは陸に、言いようのない高揚感をもたらした。
自分がもはや、ただの無力な漂流者ではないことの何よりの証明。
自分の価値をこの世界に、初めて示せる時が来た。
だが同時に、強い緊張が全身を駆け巡っていた。
星から星への跳躍。
訓練ではまだ一度も試したことのない未知の領域だ。
もし失敗すれば、どうなる。
リラの言葉が脳裏をよぎる。
壁の中に埋まるか、宇宙空間に放り出されるか。
期待と不安が入り混じった陸の表情を、リラはじっと見つめていた。
「……もちろん、断ることもできる。危険な仕事だ。今のあんたの実力で、確実に成功できる保証はどこにもない」
その言葉は、まるで陸の覚悟を試しているかのようだった。
陸はゆっくりと立ち上がった。
リラの前に立ち、彼女の目をまっすぐに見返す。
「……やるさ」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「そのために、あんたは俺を拾ったんだろ?」
その答えを聞いて、リラはしばらく何も言わなかった。
ただ、紫紺の瞳の奥で、かすかな――本当にごくかすかな――安堵の色が揺らめいたのを、陸は見逃さなかった。
彼女もまた、この初仕事を前にして、陸と同じように期待と、そして不安を感じているのだ。
その当たり前の事実に、陸は不思議と心が落ち着いていくのを感じた。
一人じゃない。
俺の隣には、こいつがいる。
それだけで、十分だった。




