第七話:跳躍の鍵
リラの秘密を知ってしまった翌日。
隠れ家の空気は、以前とは少しだけ変わっていた。
リラは相変わらず陸のことを「おい」としか呼ばないし、態度も基本的には冷たいままだ。
だが、陸が彼女と視線を合わせると、彼女は一瞬だけ気まずそうに目をそらすようになった。
その、ほんのわずかな変化が、陸には面白くて仕方がなかった。
「……行くぞ」
その日もリラはぶっきらぼうにそう言うと、陸を連れて地下の訓練場へ向かった。
前回、完膚なきまでに叩きのめされた、あの場所。
陸の胸に、再び緊張が走る。
訓練場に着くと、リラは腕を組んだまま、しばらく考え込むように黙っていた。
やがて、ぽつりと口を開く。
「……前回、私はあんたに精神力が弱いと言った。それは事実だ。だが、それだけが原因じゃないのかもしれない」
陸にとって意外な言葉だった。
この、自信と傲慢の塊みたいな少女が、自分の分析が間違っていた可能性を認めたのだ。
「……あんたは、力そのものを制御しようとしすぎている。暴走した時の、あのエネルギーの奔流を無理やりねじ伏せようとしている。だから恐怖に負けるんだ」
リラは携帯端末を操作し、空中に一枚の画像を投影した。
それは、陸が昨日、彼女がこっそり食べているのを目撃した――あの七色に輝く砂糖菓子だった。
「……は?」
「いいから、よく見ろ」
リラは顔を赤らめるのを必死にポーカーフェイスで隠しながら、続ける。
「跳躍の鍵は、力の制御じゃない。イメージの精度だ。行き先を、そこでの感覚を、どれだけ強く、具体的に、五感でイメージできるか。それがすべてだ」
彼女はその菓子の画像を指で拡大した。
表面を覆う砂糖の結晶の、きらきらとした輝き。
半透明のゼリーのような質感。
「力のことなんか考えるな。ただ、この菓子を今すぐこの手で掴んで、口の中に放り込みたい、と。それだけを考えろ。舌の上でとろける、あの甘美な感覚。鼻腔をくすぐる芳醇な香り。それを思い出せ。渇望しろ」
その言葉に、陸はごくりと喉を鳴らした。
言われてみれば、あの菓子はとてつもなく美味そうだった。
栄養バーの、あの段ボールみたいな味とは天と地ほど違うだろう。
「いいか。目標は、あの壁じゃない。私の、この手だ」
リラはそう言うと、訓練場のほんの五メートルほど先で、すっと手を差し出した。
「私のこの手に、あの菓子が乗っているとイメージしろ。そして、それを奪い取れ。跳んで、私の手から、その菓子を盗んでみせろ」
地球に帰りたい、という壮大で漠然とした願いではない。
もっと卑近で、個人的で、そしてどうしようもなく抗いがたい「欲」。
それが鍵だと、リラは言うのだ。
陸は半信半疑だった。
だが、もう彼女の言う通りにやってみるしかない。
彼は目を閉じ、集中した。
リラの手のひら。
そこに鎮座する、七色の宝石。
あの甘い香り。
舌の上でとろけていく、至福の感覚。
食べたい。
今すぐ、あれを。
そう強く願った瞬間。
――ふわり。
彼の身体が、まるで風船のように軽くなった。
暴走した時の、あの引き裂かれるような激痛はない。
ただ、優しい浮遊感が全身を包み込む。
そして、次に目を開けた時。
彼の目の前には、驚きにわずかに目を見開いたリラの顔があった。
彼の手は確かに、彼女が差し出していた白く細い手に触れている。
「…………え?」
跳べた。
今、俺は自分の意志で跳んだのか。
状況がうまく飲み込めない。
だが、右腕のチップが確かに温かい光を放ち、彼のサイに応えた――その確かな感覚だけが残っていた。
「……やった」
陸の口から、かすれた声が漏れる。
「やった……跳べたぞ……!」
その事実を完全に理解した瞬間、胸の奥から爆発的な歓喜が噴水のように湧き上がってきた。
「うおおおおおっ! 見たか、リラ! 俺は跳べたんだ!」
彼は子供のように、その場で何度も小さく飛び跳ねた。
初めて、自分の意志でこの世界で何かを成し遂げた。
スキルチップが呪いの道具でも制御不能の暴れ馬でもなく、ようやく自分の「能力」になった、その瞬間だった。
リラは一瞬、呆気に取られたように歓喜する陸を見ていたが、やがて、ふいと顔をそむけた。
「……まあ、及第点だな。たった五メートルだが」
口調は、いつものようにぶっきらぼうだ。
だが、陸には見えた。
そむけられた彼女の顔、その耳が――さっき菓子を見られた時と同じくらい、真っ赤に染まっているのを。
その小さな変化が、自分の力で跳べたこと以上に、陸の心を温かく、そして誇らしい気持ちで満たしていった。




