第六話:紫紺の素顔
ダウンサイドでの出来事は、陸の心に重い影を落とした。
隠れ家に戻ってからも、彼はどこか上の空だった。
光の届かない場所で見た、人々の諦観に満ちた瞳が脳裏に焼き付いて離れない。
自分がいかに幸運な立場にいるかを理解すると同時に、その幸運が薄い氷の上に立っているかのように、危ういものに思えたのだ。
リラは、そんな陸の様子に気づいているのかいないのか、相変わらずコンソールに向かって膨大な情報と格闘していた。
二人の間に会話はない。
冷却ファンの唸る音と、リラが叩くキーボードの音だけが部屋に響いている。
その日の「夜」。
いつものように部屋の隅で、支給された栄養バーをかじっていた陸は、ふと奇妙なことに気がついた。
いつもならこの時間、リラは最も集中して仕事に取り組んでいるはずだった。
だが、今日の彼女はどこかそわそわと落ち着かない様子なのだ。
時折、コンソールから視線を外し、ちらりと陸の方を窺っている。
その視線に気づいて陸が顔を上げると、彼女は慌てて何でもないというようにモニターへ向き直る。
(なんだ……?)
陸はいぶかしく思った。
常に冷静沈着で、他人の視線など気にも留めないリラが、明らかに自分のことを気にしている。
しばらく様子を観察していると、その理由が分かった。
彼女は仕事をしているふりをしながら、コンソールの陰で何かを、こっそりと口に運んでいるのだ。
その動きは、まるで親の目を盗んでお菓子を食べる子供のように、ぎこちなく、そして必死だった。
(あいつ、何を食ってるんだ……?)
陸は好奇心を抑えきれなかった。
彼は栄養バーを食べ終えたふりをして、チューブをゴミ箱に捨てるため、ゆっくり立ち上がる。
そしてゴミ箱へ向かう途中、何気ないふりをしてリラのコンソールの脇を通り過ぎた。
その瞬間、甘く芳醇な香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
陸は見てしまった。
彼女が、その白く細い指でつまんでいたものを。
それは七色に輝く半透明の、宝石のような菓子だった。
表面はきらきらとした砂糖の結晶で覆われ、甘い蜜が彼女の指を汚している。
リラはそれを至福の表情で小さな口へ運び、恍惚としたように目を細めていた。
それは、陸がこれまで見たどんな彼女とも違う。
完全に無防備で、年相応の少女の顔だった。
陸は思わず足を止め、その光景に見入ってしまった。
そしてリラは、陸の視線に気づいた。
彼女の動きが、ぴたりと止まる。
宝石のような菓子を口に含んだまま、紫紺の瞳が驚愕に、これ以上ないというくらい大きく見開かれた。
「…………」
「…………」
数秒間、気まずい沈黙が部屋を支配した。
やがてリラは弾かれたように菓子をコンソールの陰に隠すと、みるみるうちに白い頬を首筋まで真っ赤に染め上げた。
「み、見てない! あんたは今、何も見ていない!」
裏返った声で叫ぶ。
その声は、いつもの冷たく知的な響きとは似ても似つかない、ただ動揺した少女の声だった。
「いや、でも、今……」
「見てないと言ったら、見てないんだ! これは、その、栄養補給だ! 脳が糖分を要求していた! 仕事の一環だ!」
しどろもどろで、意味不明な言い訳を並べ立てるリラ。
その姿は、あまりにも必死で、そして滑稽だった。
いつも自分を「役立たず」だの「不良品」だのと容赦なく罵倒してくる、あの女王様みたいな少女の狼狽ぶりに、陸の中で何かがぷつんと弾けた。
「ぷっ……あはははは!」
思わず声を上げて笑ってしまった。
腹を抱えて、涙が出るほど笑った。
この世界に来てから、初めて心の底から笑ったかもしれなかった。
「な、何がおかしい! 笑うな!」
リラは顔を真っ赤にして抗議する。
だが、その声にはもう、いつもの威圧感は欠片も残っていなかった。
陸はひとしきり笑うと、涙を拭いながら彼女に言った。
「いや……別に、いいんじゃないか。甘いものが好きでも」
「……っ! 好きだなんて、一言も言ってない!」
リラはぷい、とそっぽを向いてしまった。
その耳まで真っ赤に染まっている。
陸はくすくすと笑いながら、自分の寝床へ戻った。
他愛ない。
本当に、他愛ない出来事だった。
だが、この一件で陸は確信した。
目の前の、鉄の仮面を被った天才情報屋。
その仮面の下には、自分と同じように感情があり、どうしようもない人間的な一面が隠されている。
彼女は決して、自分が乗り越えられない絶対的な存在などではない。
二人の間の、厚く冷たい氷の壁が、ほんの少しだけ――本当にごくわずかだけ――溶けたような気がした。
それは、この厳しく過酷な世界で、陸が初めて感じたささやかな温もりだった。




