第五話:鉄屑の記憶
ジャバへの「おつかい」を終えた帰り道、陸は意図的に、リフトを使わず歩いて帰ることにした。
先ほどの任務で得た、わずかばかりの達成感が、彼を少しだけ大胆にさせていた。
この街をもっと知りたい。
リラのフィルターを通さずに、自分の目で、この世界の本当の姿を見てみたい。
そんな、ささやかな冒険心だった。
彼は貨物ターミナルの喧騒を背に、巨大なビルが林立するメインストリートへと続く裏道を歩いていた。
表通りの、あの洪水のような光と音は届かず、ここは驚くほど静かだ。
高いビルの谷間に空は細く切り取られ、昼間だというのに、常に薄暗い。
道に迷ったのかもしれない。
データパッドの地図を見れば、すぐに現在地は分かる。
だが、陸はあえてそれをしなかった。
この静かな迷路に、もう少しだけ身を委ねてみたかったのだ。
どれくらい歩いただろうか。
ふと、空気が変わったことに気づく。
これまで漂っていたアルカディア・ネクサス特有の、どこか甘く浮ついた匂いが消え、別の匂いが鼻をつき始めた。
それは、彼が決して忘れることのできない匂いだった。
オイルと、錆と、そして貧しさの匂い。
路地を抜けた先、彼の目の前に広がっていたのは、信じられない光景だった。
ほんの数百メートル先には天を突く摩天楼がきらびやかに輝いているというのに、そこだけが、まるで別の惑星であるかのように異質な空間だったのだ。
光が届かない。
頭上を、幾重にも重なった上層階のハイウェイが覆い尽くし、太陽の光も街のネオンサインも、ほとんど遮断されている。
唯一の光源は、剥き出しの配管から漏れ出す蒸気が放つぼんやりとした光と、家々の窓から漏れる生活の灯りだけだった。
人々は、みなうつむき加減に、ゆっくりと歩いている。
衣服は汚れ、擦り切れ、その目にはアルカディア・ネクサスの住人たちが浮かべていた欲望の光はない。
あるのはただ、生きることに疲れ果てたような、鈍い諦めの色だけだ。
壁際には、壊れた機械の義手や義足を、慣れた手つきで自分で修理している老人がいる。
路地の奥では、正体不明のどろりとしたスープを、数人の子供たちが一つの器から黙々とすすっていた。
ダウンサイド。
リフトの中に表示されていた、下層階の区画名。
アルカディア・ネクサスの、光の届かない影。
この都市の胃袋であり、同時に排泄腔でもあった。
陸は、その場に立ち尽くした。
デジャヴ。
この光景を、俺は知っている。
ここは、ウロボロスだ。
規模や、そこにいる人々の姿は違えど、この場所に流れる澱んだ空気は、あの鉄屑の星とまったく同じだった。
脳裏に、あの記憶が鮮やかに蘇る。
飢えと渇きに苦しみ、汚水をすすった、あの屈辱。
なすすべもなく暴力に蹂躙された、あの絶望。
そして、自分にスキルチップを託し、静かに死んでいった名も知らぬ老人の、皺だらけの顔。
目の前で義足を修理している老人の姿が、あの老人と二重写しになる。
もし、あの時、彼に出会わなければ。
もし、彼がスキルチップを俺に託さなければ。
俺は、ウロボロスでとっくに死んでいた。
あるいは、もし惑星渡りの暴走が、このダウンサイドに俺を運んでいたら。
俺は今頃、あの子供たちのように正体不明のスープをすすって、ただ空腹を紛らわしていたのかもしれない。
リラに拾われたことは、幸運だったのだ。
彼女の態度は冷たく、理不尽に感じることも多い。
だが少なくとも、彼女は屋根のある寝床と安全な食事を、俺に与えてくれた。
彼女に「道具」として扱われる今の状況は、決して最悪などではなかった。
陸は、自分の立っている場所が、いかに危うく、幸運なバランスの上に成り立っているのかを痛いほど理解した。
この世界の天国と地獄。
その、ほんのわずかな境界線の上に、自分は立っている。
彼はダウンサイドの光景から、目をそらすことができなかった。
同情や哀れみではない。
これは、俺だったかもしれない、もう一つの現実だ。
その事実が、ずしりと重い楔のように胸に打ち込まれる。
陸は静かに踵を返し、光の差す上層階へと続く道を探し始めた。
もう、道に迷うことはなかった。
足取りには、先ほどまでの浮ついた冒険心は、もうどこにも残っていなかった。




