スープの災難
気がつくと、窓から柔らかな陽の光が差し込んでいた。白いカーテンがゆらりと揺れ、その隙間からこぼれる光が、部屋の中をゆっくりと照らしている。
ロイはベッドの上で、もぞりと身をよじった。久しぶりのまともな寝床。柔らかな感触に身体が沈み込み、そのまま再び意識が溶けかける。
――もう少しだけ。
そう思った、その時だった。
「きゅあっ!」
甲高い鳴き声が、耳元で弾けた。肩口に乗ったミーオが、こちらを覗き込んでいる。
「……おはよう……ミーオ。今……何時……」
まだ夢の中に半分足を突っ込んだまま、ぼんやりと問いかける。
「四時」
間を置かず返ってきた答えに、ロイの意識が少しずつ浮上していく。
「四時……」
光の差し込む窓へと、ゆっくり視線を向ける。明るい。
(……ん? 四時なのに明るい?)
「ご、ごめんなさい! また寝過ごしてぇ!!」
勢いよく飛び起きた。
「ぴあぁぁあっ!」
肩の上に乗っていたミーオが、弾かれるように転げ落ちた。
「えっ……いや、別に怒っていないけど」
呆気に取られたような声。
ベッド脇の椅子に腰掛けていた少女が、きょとんとロイを見つめていた。
「ライナ……?」
ロイはそこでようやく、彼女の存在に気づいた。
彼女の横――机の上には、山のように積まれた食べ物が並んでいる。パン、果物、スープ、焼き肉の香りが混ざり合い、部屋の空気を満たしていた。
「えっ? その食べ物……何?」
「これは街の人からのお裾分け。昨夜、男爵邸を襲った魔物を退治したお礼だって」
「魔物退治? ……そんなことしたっけ?」
ライナは頬杖をつきながら、わずかに眉を寄せた。
「胡散臭い男の差金」
「胡散臭い男?」
ロイはベッドの端にあぐらをかき、机へと身を乗り出した。その手は果物へと伸びる。
床では、ミーオがぴょこぴょこと跳ねながら、ロイを見ていた。
「あの黒髪のクズ男。今朝、男爵邸が半壊していて街が大騒ぎになってたの。善政を敷く男爵の息子が欲に駆られて暴走し、屋敷を自ら吹き飛ばしたなんて知られたら大問題でしょ。それを“森から飛来した魔物が屋敷を襲った”ことにしてうまく丸め込んだわけ」
「わぁ、すごいな。でもなんで俺たちが倒したことになってるの?」
「魔物に果敢にも挑んだ男爵の子息の一助となり、魔物討伐に大きく貢献した――というふうに街の人に公表されたわ。そのせいで私たちは街の英雄扱いよ」
淡々とした口調だが、その声音にはわずかな苦味がにじんでいた。ライナはロイを一瞥し、続けた。
「それと、口止め料として追加でふんだくってたけどね」
「えげつな……」
ロイは苦笑しながら、何気なく視線を下げた。
いつの間にかミーオはライナの膝に乗り、果物をねだるように小さく身を乗り出している。
果物を差し出すと、ミーオは嬉しそうにかじりついた。
その様子を眺めながら、ライナは小さく息をつく。
「ロイ、あいつと一緒にいるのは別に何も言わないけど、完全に信用するのはやめた方がいいと思う。何考えてるか分からないし……気づいたら利用されててもおかしくない」
「んー……まあ、そうかもしれないけど……今のところ助けられてるからな」
ロイはどこか遠くを見るように言った。
「昨日、部屋に戻ってきたら縄で縛られた人が床に倒れてて、サグロスが叩き起こしたんだけどさ。サグロスを見た瞬間、悲鳴上げて逃げていったんだよね。一体何したんだろ」
「ろくなことじゃないでしょうね。何者なの? あいつ」
ライナはミーオの頭を撫でながら、視線をロイに向けた。ミーオは気持ちよさそうに目を細めた。
「便利屋だって言ってたよ」
「便利屋……これまた胡散臭い肩書だこと」
ライナは間髪入れず切り捨てた。
「ところで、サグロスは?」
「酒場へ昼間っから飲みに行った」
「わー自由だな……ライナ、いつからここにいたの?」
ライナは少し視線を逸らす。
「昼過ぎくらいから。外にいると何かと、街の人に声をかけられて落ち着かなくて」
わずかに言葉を切る。
「街中であいつと会って、ここを教えてもらったの。……癪だったけど、他に手もなかったし。勝手に居座ってごめんなさい」
「いや、別に気にしてないよ」
ロイはにこりと笑った。
その横で――
ミーオが机の上によじ登り、後ろ足で立ち上がる。そのままぐいっと体を伸ばし、奥の果物へと身を乗り出した。お腹が手前のスープの入ったボウルの縁に乗り、ぐらりとボウルが傾いた。
バシャン。
ミーオが頭からスープの中に突っ込んだ。
「ミーオなにしてるの!!」
慌てて引き上げるロイ。
「きゅぅ……」
びちゃびちゃになった体からスープが滴り落ちる。
「ごめん、ミーオが――」
言いかけて、ロイは固まった。
ライナの首元に巻かれた布に、べっとりとスープが付いている。髪にも飛び散り、頬をつたってぽたりと落ちた。
「わあああ! ごめんなさい!!」
慌ててタオルを掴み、差し出す。
「別に気にしてない」
ライナはタオルを受け取ると頬を拭った。タオルに付いた汚れを見てから、首元の布へと目を落とす。そのまま髪に触れ、わずかに眉を寄せた。
「……やっぱりシャワー借りていい?」
「う、うん! もちろん!」
「良ければその子も綺麗にするけど」
「えっ? いいの?」
「いいよ。ついでだし」
「ありがとう。あっ、そこのタオルも使っていいから! 俺、宿の人に余分にもらえるか聞いてくる!」
ロイは返事も待たずに部屋を飛び出して行った。
ぱたん、と扉が閉まる。
「……」
ライナは服に飛んだ染みをちらりと見て、ミーオへ視線を向ける。ふと、目が合う。
「あなたのご主人様は、本当に優しい人ね」
「ぴゅあ!」
ミーオは嬉しそうに尻尾を振った。
◇
宿の主人に声をかけ、タオルを受け取ったところで――
「おーい、ロイくーん」
聞き慣れた声が背後から飛んできた。振り向くと、頬を赤らめたサグロスが、ふらりと歩いてくる。
「やぁっと起きたか。この寝坊助め」
「サグロス……結構飲んでるでしょ」
「あったりめーよぉ。昨夜の功労者として、いい酒をもてなしてもらったからなぁ」
半分ほど瞼の落ちた目で、上機嫌にロイを見ている。
「……そんなにタオル持って何してんだぁ?」
「ミーオがスープこぼしちゃって」
「ちゃんと躾とけよぉ」
「ドラゴンに躾ってどうやるの?」
「知らねー」
「適当な事言って」
サグロスはくつくつと笑った。
「ライナは?」
「まだ部屋にいるよ」
「ふーん……あいつ、お前とは普通にしゃべるよなぁ」
少し拗ねたように、サグロスは口を尖らせた。
「うん。敬語じゃなくていいって言われた」
「何だそりゃ。俺なんてなぁ、名前で呼ぶとめっちゃ睨んでくるぞ」
「本当、何やったの……」
ロイは呆れたように眉をひそめた。
「知りたい?」
わざとらしく顔を覗き込んでくる。
「……やめとく。なんか聞いちゃいけない気がする」
「なんだ、つまんねー」
サグロスは喉の奥で笑い、残念そうに肩をすくめた。
◇
部屋に戻るなり、サグロスはぐるりと室内を見回した。ライナの姿は見当たらず、代わりに浴室から水音が聞こえてくる。
サグロスの目がすっと細められた。
「ロイくん。ライナは浴室か?」
さっきまでとは打って変わって、妙に真剣な声だった。
ロイはベッドにタオルを置こうとした手を止めた。
「う……うん。スープがかかっちゃって……本当に申し訳ない」
「そんなことはどうでもいい」
即答だった。
「この状況で男がやることは一つだよな?」
どこか楽しげですらある声に、ロイは眉をひそめた。
「やること……」
恐る恐る聞く。
「なに?」
サグロスはニヤリと笑うと、ロイに歩み寄り、肩に腕を回した。顔を寄せ、周囲をはばかるように耳打ちをする。
「のぞきに決まってんだろ」
サグロスは悪びれもなく言った。
「っ!?」
ロイの手がびくりと跳ね、持っていたタオルを落とした。
「ダメだって! 殺されたいの!?」
「そのスリルがいいんだろ?」
サグロスは楽しげに肩を揺らした。
「本当にやめなって!」
ロイは慌てて、サグロスの腕を掴み、引き止めようとするが――ひょい、と足を払われる。
「ふべっ!」
顔からベッドに突っ込んだ。
その隙に、サグロスは音もなく浴室へ近づく。手が、ドアに伸びた瞬間――
「ぶっ!」
ピンク色の影が勢いよく飛び出し、サグロスの顔面に直撃した。
不意打ちを受けたサグロスはぐらりとよろめき、たまらず尻餅をつく。顔に張り付いたそれを乱暴に引き剥がした。
「いってぇな、こいつ……毛が口に入ったじゃねーか。気持ちわりぃ」
「びぃぃあっ!」
掴み上げられたミーオが怒ったように鳴いた。
ぎい……と、ゆっくりドアが開く。
そこには――濡れた髪をかき上げ、サグロスを無言で見下ろすライナがいた。
サグロスが引きつった笑みを浮かべる。
「よぉ……ライナ。シャワーは……もう終わりか?」
「本当、どこまでもクズな最低男」
ライナの視線は――完全に、虫ケラを見るそれだった。
ロイは悟った。
――ここにいてはいけない。
次の瞬間には、全力で部屋を飛び出していた。
階段を駆け下り、外へ出る。西へ傾いた陽が街並みを赤く染めていた。
通りにはぽつぽつと灯りがともり始め、あちこちで今朝の騒ぎを話す声が交わされている。
その中に――
「ぎゃあああああああああああああ!!!」
サグロスの悲鳴が夕暮れの街に響き渡った。
それでも通りのざわめきは途切れることなく、街は何事もなかったかのように夜を迎えようとしていた。




