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53歳の初恋リフレイン  作者: げりっぱ
高校生編

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第9話:夏服の匂いと、相合い傘の距離

第9話:夏服の匂いと、相合い傘の距離


一九八七年、六月。

カレンダーがめくられると同時に、学校は『衣替え』の季節を迎えた。

重苦しかった黒の詰襟や紺のセーラー服はクローゼットの奥にしまわれ、教室は真っ白な半袖のシャツとブラウスの群れに様変わりする。


「おっはよー、高橋君!」

朝のホームルーム前。隣の席から聞こえた元気な声に振り向いた瞬間、俺の五十三歳の心臓が、柄にもなくドキンと跳ねた。


夏服のブラウスに身を包んだ陽子が、そこにいた。

冬服の時よりも少しだけ細く見える首筋と、初夏の光に透けるような白い肌。動くたびにふわりと漂う、石鹸のような清潔なシャンプーの匂い。

三十年以上前の記憶の底に沈んでいた『十六歳の彼女の夏服姿』が、あまりにも眩しく、鮮烈に目の前に現れたからだ。


「……あ、おはよう。中村さん」

俺は動揺を隠すように、わざとらしく教科書を広げながら答えた。

「なんか、夏服になると一気に教室の空気が変わるね」


「うん! 冬服より軽くて動きやすいから、私は夏服の方が好きだな。……って、高橋君、今日テスト返しなんだから、そんな悠長なこと言ってる場合じゃないよ?」

陽子が少しだけ悪戯っぽく笑いながら、俺の机をトントンと指先で叩いた。


そう。今日は、先週行われた一学期・中間考査の『地獄のテスト返却日』だった。


* * *


「高橋。世界史、九十五点。……お前、やればできるじゃないか。次もこの調子で頼むぞ」

担任の教師から答案用紙を渡された瞬間、教室中がどよめいた。


「はぁっ!? 九十五点!?」

一番大きな声を上げたのは、前の席の悪友・佐藤だった。

「おい健一、お前マジでどうしたんだよ! なにが『コーポレート・ガバナンス』だ、カンニングでもしたんじゃねえだろうな!」

佐藤の手には、赤ペンで無惨な『二十八点』と書かれた答案用紙が握りしめられている。


「人聞きの悪いこと言うなよ。図書室で真面目に勉強した成果だよ。……ほら、お前も夏休みの補習、頑張れよ」

俺が佐藤の肩をポンと叩くと、彼は「裏切り者ぉぉ……」と机に突っ伏して天を仰いだ。


一周目の俺なら、間違いなく佐藤と一緒に机に突っ伏していた側の人間だ。

だが、今の俺には『大人としての意地』がある。

俺は自分の席に戻り、隣の陽子に向かって、小さくVサインを作ってみせた。


「ほらね。中村先生の特訓のおかげで、数学も七十二点取れたよ。赤点どころか、平均点以上だ」

俺が数学の答案を見せると、陽子は自分のことのように目を輝かせた。


「すごい! やったね、高橋君! 基礎問題、全部ノーミスじゃない!」

「まあね。そっちの出来はどうだった?」


俺が尋ねると、陽子は少しだけ恥ずかしそうに、自分の答案用紙の束を見せてくれた。

全体的に八十点台が並ぶ、非常に優秀な成績だ。特に現代文と英語は九十点を超えている。

彼女が毎日コツコツと積み上げてきた努力の結晶。これなら、彼女が目指している幼児教育の短大への推薦枠も、十分に狙える位置にいるはずだ。


「……うん。このまま頑張れば、絶対にいけるよ」

俺が答案を見つめたまま静かにそう言うと、陽子は嬉しそうに「うん!」と頷いた。

「高橋君が世界史教えてくれたおかげで、暗記の時間が減って、他の教科に回せたの。本当に助かったよ」


お互いの努力を認め合い、喜びを分かち合う。

テストの点数という小さな結果ではあるが、俺と彼女の間に確かな『信頼の絆』が結ばれ始めていることを、肌で感じていた。


* * *


放課後。

昇降口を出ようとした俺の前に、どんよりとした灰色の空から、バチバチと音を立てて大粒の雨が降り注いできた。

朝はあんなに晴れていたのに、見事な夕立、いや、本格的な梅雨の到来を思わせる土砂降りだ。


「うわ、最悪。どしゃ降りじゃん」

俺が自分の学生鞄を左手に持ち、傘立てから黒いビニール傘を取り出そうとした時だった。


「おっ、健一! ナイスタイミング!」

横からヌッと手が伸びてきて、俺の傘をひったくった。見ると、赤点ショックから立ち直った佐藤が、俺の傘を広げてニヤニヤと笑っている。


「悪い! 俺、今日チャリで来てないから、駅までこれ借りるわ!」

「おい、ちょっと待て。俺はどうするんだよ!」

「お前は足速いんだから、走って帰れ! じゃあな、裏切り者!」


佐藤は俺の制止も聞かず、雨の中を猛ダッシュで駆け出していった。

「あいつ……」

呆れて言葉も出ない。五十三歳の元・営業本部長の傘をひったくって逃げる高校生など、世界中探しても佐藤くらいのものだろう。

とはいえ、この土砂降りの中を駅まで走れば、せっかくの夏服が下着までずぶ濡れになるのは確実だった。


(仕方ない。少し雨宿りして、小降りになるのを待つか……)

俺が左手の鞄を床に下ろし、昇降口の軒下で深いため息をついた、その時だった。


「……高橋君?」

背後から、遠慮がちな声がした。

振り返ると、赤いチェック柄の折りたたみ傘を持った陽子が立っていた。


「あ、中村さん」

「どうしたの? 傘、忘れちゃった?」

「いや、持ってきてたんだけどさ。さっき佐藤に強奪されたんだよ」


俺が苦笑いしながら答えると、陽子は「もう、佐藤君ったら相変わらずだね」とクスクス笑った。

そして、彼女は自分の持っていた赤い傘をポンッと開き、俺の方へと差し出した。


「……あのさ。駅まででよかったら、一緒に入る?」


一瞬、雨の音が遠のいたような気がした。

いわゆる『相合い傘』というやつだ。十六歳の高校生男子なら、誰もが一度は妄想し、そしていざ現実になると緊張で顔から火が出るシチュエーション。


五十三歳のオヤジである俺なら、「いやいや、悪いからいいよ。走るし」と大人の余裕でスマートに断る……はずだった。

だが、傘の下から上目遣いで俺を見つめる彼女の瞳を見た瞬間、俺の口から出たのは、全く別の言葉だった。


「……いいの? 濡れちゃうよ、中村さん」

「高橋君が風邪引くよりマシでしょ。ほら、早く入って」


陽子が傘の柄を傾けて、俺の分のスペースを作ってくれる。

俺はドギマギする胸の鼓動を必死に押さえつけながら、「じゃあ、お言葉に甘えて……」と、その小さな赤い傘の下へと足を踏み入れた。


近い。

肩と肩が触れ合いそうなほどの距離。

雨の冷たい空気の中に、彼女の体温と、あのシャンプーの甘い香りが入り混じって、俺の理性を激しく揺さぶる。

中身が五十三歳だろうが関係ない。大好きな女と一つの傘に入るという事実が、俺の精神年齢を強制的に十六歳の思春期へと引き戻していた。


「……なんか、傘小さいね。ごめんね、窮屈で」

歩き出しながら、陽子が申し訳なさそうに言う。

確かに、彼女の小柄な体格に合わせた折りたたみ傘では、俺の肩の半分はすでに雨粒の餌食になっていた。

だが、そんなことはどうでもよかった。


「いや、全然。……あ、ちょっと貸して」

俺は、陽子が握っていた傘の柄を、自分の右手でそっと握り込んだ。


「え?」

「中村さんが持つと、どうしても傘が低くなっちゃうから。俺が持つよ」

俺は傘を少し高めに持ち上げ、彼女の右肩が絶対に濡れないように、傘の中心をグッと彼女の方へ傾けた。


「あっ……でも、それじゃ高橋君の左肩が……」

「いいんだよ。俺の左肩は、雨に濡れると強くなる特殊な訓練を受けてるからさ」


俺がまたしても高校生らしい苦しい言い訳を口にすると、陽子は「なにそれ、意味わかんない」と吹き出した。

「もう。高橋君って、時々すごく変な強がり言うよね」


「強がりじゃないって。ほら、カバンも持つよ。こっちの手でまとめて持てるから」

俺は、自分の学生鞄を握っていた左手で、そのまま彼女が胸に抱えていた重い革鞄も一緒に受け取った。

二つ分の学生鞄の重みが、左腕にずっしりと食い込む。


右手で彼女を雨から守る傘を持ち。

左手で自分の鞄と、彼女の負担である鞄を二つまとめて持つ。

それが、今の俺にできる最大限の『大人のエスコート』であり、十六歳の少年の精一杯の背伸びだった。


雨だれが傘の布地を叩くパラパラという音が、二人だけの空間を世界から切り離していく。

水たまりを避けるたびに、彼女の制服の袖が俺のワイシャツに触れ、その度に心臓が高鳴る。


「……ねえ、高橋君」

雨音に混じって、陽子がポツリと口を開いた。

「ん?」


「今日のテスト返しの時さ。佐藤君に『お前、変わったな』って言われてたでしょ」

「ああ、言われてたね。裏切り者扱いだよ」

「私ね……今の高橋君の方が、好きだな」


ドクン。

足元の水たまりを踏み外しそうになり、俺は慌てて歩幅を修正した。


「四月に同じクラスになったばかりの時はさ、なんだか何事にも無関心っていうか、もっと近寄りがたい人かと思ってたんだけど。でも、今の高橋君は……なんでも一生懸命で、見ていてすごく応援したくなるっていうか。……ごめん、なんか変なこと言っちゃったね」

陽子は顔を赤くして、恥ずかしそうに俯いた。


もちろん、それは恋愛感情としての「好き」ではなく、「人間として好感が持てる」という意味合いだろう。それは五十三歳の俺なら冷静に分析できる。

だが、その単語の破壊力に、十六歳の肉体と精神が完全に引っ張られてしまった。俺は照れ隠しと猛烈な動揺を誤魔化すように、わざと大げさな声を上げた。


「えっ!? 好きって!? 俺のこと!? マジで!?」

「なっ……ちょっと高橋君! 声大きい!」

陽子は真っ赤になって、俺の腕をペチッと叩いた。

「もう! せっかく真面目な話してるのに、茶化さないでよ!」


「わりぃわりぃ。でも、なんか照れくさくてさ」

俺が頭を掻きながら笑うと、陽子は唇を尖らせながらも、最後にはフッと吹き出した。

「……でも、サンキュ。そう言ってもらえるの、すげえ嬉しいよ」

冗談めかした空気の中で、最後だけは少し真面目に伝えると、陽子は小さく「うん」と頷いてくれた。


駅の改札に着く頃には、俺の左半身はすっかり雨に濡れそぼっていた。

だが、胸の奥底は、どんな真夏の太陽よりも熱く、誇らしく燃え上がっていた。


「わっ、高橋君、肩びしょ濡れじゃない! ごめんね、私の傘が小さいから……」

改札前で傘を畳みながら、陽子が慌ててハンカチを取り出そうとする。

その拍子に、俺は左手にまとめて持っていた二つの鞄のうち、彼女の鞄だけをそっと手渡した。


「気にしないでいいよ。言ったろ? これで俺の左肩は強くなったんだって」

俺が冗談めかして笑うと、陽子は鞄を受け取りながら、困ったように、でもとても嬉しそうに笑ってくれた。


「……ありがとう、高橋君。風邪、引かないでね」

「そっちこそ。また明日」


改札を抜けていく彼女を見送りながら、俺は雨に濡れた自分の左肩をそっと手で押さえた。

冷たい雨の感触よりも、彼女と肩を並べて歩いたその距離の近さと、シャンプーの残り香が、俺の五十三歳の心に甘く、深く刻み込まれていた。


梅雨明けには、まだ少し時間がある。

だが、俺たちの関係は、確実に新しい季節へと向かって歩み始めていた。

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