第8話:解放のチャイムと、純喫茶のチョコレートパフェ
第8話:解放のチャイムと、純喫茶のチョコレートパフェ
一九八七年、五月下旬。
ジリリリリリッ! と、校舎に鳴り響くけたたましいチャイムの音が、地獄のような三日間の終わりを告げた。
「そこまで。筆記用具を置いて、後ろから解答用紙を集めなさい」
試験監督の教師の声とともに、教室中から「終わったー!」「死んだ……」という、歓喜と絶望が入り混じったようなどよめきが沸き起こる。
一学期・中間考査の最終日、最後の科目である『数学』のテストが終了した瞬間だった。
「おい健一……生きてるか……」
前の席から、悪友の佐藤がゾンビのような顔で振り返ってきた。
「俺、最後の微分の問題、記号の意味すらわからなくて全部鉛筆転がして決めたわ。絶対赤点だ。親父に殺される……」
「どんまい。まあ、夏休みの補習で挽回できるって」
俺が苦笑しながら答えると、佐藤は恨めしそうに俺の顔を睨みつけた。
「お前、なんか余裕そうじゃねえか。いつもなら俺と一緒に『終わったー』って頭抱えてるはずなのに……まさかお前、本当にガチで勉強したのか?」
「だから言っただろ。今年は心を入れ替えたんだよ」
「裏切り者! 俺をおいて大人になりやがって!」
大げさに嘆く佐藤の背中を軽く叩きながら、俺は心の中で静かに息を吐いた。
(……大人になりやがって、か。こちとら中身は三十年も前から大人なんだよ)
とはいえ、佐藤の言う通り、俺の心にはかつてないほどの『達成感』があった。
一周目の十六歳の俺は、テストなんてものは「いかに要領よく、赤点を回避して逃げ切るか」というゲームでしかなかった。
だが今回は違う。放課後の図書室で陽子と向かい合い、彼女の丁寧な教えをスポンジのように吸収した。五十三歳のビジネスマンとしての意地と集中力をフル稼働させ、自力で数式と格闘した。
結果として、今回の数学は、俺の人生で初めて『手応え』を感じたテストになったのだ。
「……高橋君、お疲れ様!」
ふと横を見ると、解答用紙を提出し終えた陽子が、晴れやかな笑顔でこちらを向いていた。
「お疲れ、中村さん。そっちも無事に終わったみたいだね」
俺がいつものように、柔らかい高校生らしいトーンを作って声をかけると、彼女は嬉しそうに何度も頷いた。
「うん! 高橋君が教えてくれた世界史の『社長とヒラ社員』の話、記述問題でバッチリ出たよ! スラスラ書けちゃった!」
「マジで? そりゃよかった。俺の歴史講座が役に立って何よりだよ」
「ふふっ。高橋君の数学はどうだった? 昨日の図書室でやったところ、結構出てたでしょ」
「バッチリだよ。中村先生のスパルタ指導のおかげで、少なくとも赤点は絶対にない。本当にサンキュ」
俺が素直に礼を言うと、陽子は少しだけ照れくさそうに「えへへ」と笑い、それから、周りのクラスメイトに聞こえないように少しだけ声を潜めた。
「ねえ。……約束、覚えてる?」
「ん?」
「お疲れ様会。駅前のパーラーで、パフェ食べようって約束」
上目遣いで尋ねてくる彼女の瞳には、ほんの少しの緊張と、隠しきれない期待が入り混じっていた。
そんな顔をされて、断る理由などこの世のどこにも存在しない。
「もちろん。帰りのホームルームが終わったら、すぐ行こうか」
俺が微笑んで答えると、陽子はパッと花が咲いたように表情を明るくして、「うん!」と力強く頷いた。
* * *
駅前の商店街の一角にある『純喫茶 白鳥』。
レンガ調の外壁に、蔦が絡まるレトロな外観。入り口の横には、ガラス張りのショーケースがあり、食品サンプルで作られた色鮮やかなナポリタンやクリームソーダ、そして巨大なパフェの模型がズラリと並んでいる。
一九八〇年代後半。まだシアトル系のオシャレなカフェチェーンなど影も形もない時代。
学生たちがちょっと背伸びをして立ち寄る「パーラー」や「純喫茶」は、えんじ色のベロア生地のソファーや、ステンドグラス風の照明が並ぶ、独特の豪華でノスタルジックな空気に満ちていた。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」
蝶ネクタイに黒いベストを着た、年配のマスターが静かに迎え入れてくれる。
「はい。ええと、あそこの窓際の席、いいですか?」
陽子が嬉しそうに指差したのは、商店街を行き交う人々が見える、一番奥のボックス席だった。
「……はい、どうぞ。お邪魔します」
俺は自然な動作で、右手で提げていた陽子の革鞄を、ソファーの奥にそっと置いた。
図書室での勉強期間中、俺が彼女の重い鞄を持つことは、すっかり二人の間の『当たり前のルーティン』になっていた。
「ダンベル代わり」という俺の苦しい言い訳を、陽子もあえて突っ込まずに受け入れてくれている。中学時代の骨折の古傷を抱える彼女の足取りが、少しでも軽くなるのなら、俺は一生でもこの鞄を持ち続ける覚悟があった。
「あー、ソファーふかふか! テスト終わったって感じがするね」
陽子は鞄の横にちょこんと座り、ふうっと大きく息を吐いた。
渡された分厚いメニュー表を開き、彼女の目はすぐに『デザート』のページに釘付けになった。
「うわあ……迷うなあ。フルーツパフェもいいし、プリンアラモードも捨てがたいし……。高橋君はどうする?」
「俺? 俺は……」
五十三歳のオヤジの味覚としては、甘いものは少し胃に重い。ブラックコーヒーか、せめて無糖のアイスティーあたりで落ち着きたいところだ。
だが、ここは一九八七年の純喫茶。しかも、十六歳の男女の『お疲れ様会』だ。ここでブラックコーヒーを頼んで渋い顔をしていては、場違いなオヤジ臭さが全開になってしまう。
「俺は、クリームソーダにしようかな。ここのやつ、上のアイスがデカいって噂で聞いたからさ」
俺が高校生男子らしい、適度に無邪気なメニューを選ぶと、陽子は「あ、それいいかも!」と笑った。
「じゃあ、私はやっぱり一番の王道で行く! すみませーん、チョコレートパフェと、クリームソーダをお願いします!」
注文を終え、おしぼりで手を拭きながら、俺は目の前に座る陽子を静かに見つめた。
窓から差し込む午後の柔らかな光が、彼女の横顔を優しく照らしている。テスト勉強の疲れもどこへやら、パフェを待つ彼女の表情は、年齢相応の無邪気な輝きに満ちていた。
(……俺は、こんな顔を、一周目では一度も見ていなかったな)
不意に、強烈な後悔が胸をよぎる。
一周目の高校時代。俺は自分が「かっこつける」ことや、男友達と遊ぶことばかりに夢中で、彼女と一緒に駅前のパーラーに寄り道してパフェを食べるような、こんなささやかで幸せな時間を作ろうとすらしていなかった。
たまに一緒に帰ることがあっても、ファストフード店で安物のハンバーガーを流し込み、自分の話ばかりをして帰るような、薄っぺらい付き合いだった。
彼女がどんな甘いものが好きで、どんな風にメニューを見て目を輝かせるのか。
そんな当たり前のことすら、三十年以上経って、二周目の人生をやり直すまで知らなかったのだ。
「……高橋君? どうしたの、また難しい顔して」
陽子が、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「あ、いや。なんでもないよ」
俺は慌てて五十三歳の感傷を振り払い、笑って見せた。
「ただ、中村さんが本当にパフェ楽しみにしてるんだなーって思ってさ」
「えっ……私、そんなに顔に出てた?」
陽子は両手でパッと自分の頬を覆い、顔を真っ赤にした。
「も、もう! 恥ずかしいな。でも、テスト期間中ずっと、終わったら絶対パフェ食べるぞって、そればっかり考えて頑張ってたのは本当だけどね」
「ははっ、いい目標じゃないか。おかげで俺も赤点回避できたわけだし、パフェ様様だよ」
俺が冗談めかして言うと、陽子も釣られたようにふふっと笑い出した。
「お待たせいたしました。チョコレートパフェと、クリームソーダです」
マスターが、銀色のトレイに乗せた二つのグラスを運んできた。
「うわぁ……!」
陽子の前に置かれたのは、背の高いグラスに、コーンフレーク、バニラアイス、生クリームが幾重にも層になり、上からたっぷりのチョコレートソースと真っ赤なチェリーが乗せられた、絵に描いたような王道のチョコレートパフェだった。
「すごいボリューム……! いただきまーす!」
陽子は先の長いパフェスプーンを手に取り、一番上の生クリームとチョコレートソースをすくって、幸せそうに口に運んだ。
「ん〜っ! 美味しい……!」
頬を緩ませ、目を細めてパフェを味わうその姿は、見ているこちらまで幸せな気分にさせてくれる。
俺も、目の前の鮮やかな緑色のクリームソーダにストローを挿し、一口飲んだ。
強烈な甘さと、炭酸の刺激。五十三歳の胃袋には少しパンチが効きすぎているが、不思議と悪くない味がした。
「高橋君のクリームソーダも美味しい?」
「うん。予想以上にアイスがデカくて、ちょっと溢れそうだけどね」
「あはは、本当だ。……ねえ、高橋君」
陽子は、スプーンを口にくわえたまま、少しだけ真面目な顔になって俺を見た。
「今回のテスト勉強、一緒にやってくれて本当にありがとう。私、一人で家でやってたら、きっと途中で集中力切れて、漫画とか読んじゃってたと思う」
「こっちこそだよ。中村さんが数学教えてくれなかったら、俺は今頃佐藤と一緒にゲーセンで現実逃避してたはずだから」
俺がそう答えると、陽子はスプーンを置き、真っ直ぐに俺の目を見つめた。
「図書室でね、高橋君が世界史教えてくれた時。私、なんだかすごく不思議な気持ちになったんだ」
「不思議な気持ち?」
「うん。なんていうか……高橋君って、すごく『大人』だなって」
ドクン、と。俺の心臓が不自然な音を立てた。
「同級生なのに、すごく物知りだし、教え方も上手だし。それに……」
陽子は、ソファーの奥に置かれた自分の革鞄にちらりと視線を向けた。
「私が何も言わなくても、いつも自然に助けてくれる。……そんな風に優しくしてもらったの、初めてだったから」
彼女の言葉には、一切の裏表がない。ただ純粋な感謝と、少しの照れくささだけが滲んでいた。
(……違うんだ、陽子)
俺は心の中で、強く首を振った。
俺は大人なんかじゃない。一周目ではお前を裏切り、傷つけ、逃げ出した、最低の男だ。
今こうして少しだけ大人びた振る舞いができるのは、お前を失ってから三十年間、後悔の泥水の中で這いつくばって生きてきたからに過ぎない。
だが、その真実を口にすることはできない。
俺は、クリームソーダのグラスの水滴を指先で拭いながら、できるだけ静かに、柔らかいトーンで答えた。
「俺は、別に大人なんかじゃないよ。ただ……」
俺は顔を上げ、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「今回、中村さんが隣ですごく頑張ってたのを見てたからさ。俺にできることがあるなら、少しでも力になりたいなって、そう思っただけだよ」
それは、十六歳の少年の言葉を借りた、五十三歳の男の偽りない本心だった。
陽子は一瞬だけハッとしたように息を呑み、それから、今までで一番優しく、そしてどこか切なげな微笑みを浮かべた。
「……ありがとう、高橋君」
沈黙が降りる。だが、それは決して気まずいものではなく、まるでカセットテープのハイポジのクリアな音色のように、心地よく澄み切った無音だった。
「あっ……」
不意に、陽子が小さな声を上げた。
俺がハッとして見ると、彼女の唇の端に、チョコレートパフェの白い生クリームがちょこんと付いていた。
「あちゃー、やっちゃった」
陽子が慌てて紙ナプキンを探そうとするより早く、俺はテーブルの上のナプキンをスッと抜き取り、彼女に差し出していた。
「ほら。口の端、クリームついてるよ」
「えっ、あ、ありがとう……!」
顔を真っ赤にしてナプキンを受け取る陽子。
その一連の動作の自然さに、俺自身も少し驚いていた。一周目の俺なら、きっと「顔にクリームついてるぞ、子供かよ」とからかって笑っていただろう。
だが今の俺は、彼女が恥ずかしい思いをしないよう、ごく自然に手を差し伸べることができている。
(……焦るな。少しずつ、これでいいんだ)
俺たちはその後、テストの珍回答や、クラスのくだらない噂話など、他愛のない高校生らしい会話に花を咲かせながら、ゆっくりとパフェとクリームソーダを味わった。
パーラーを出る頃には、初夏の夕日はすっかり西の空に沈みかけ、商店街にはオレンジ色の街灯が灯り始めていた。
「ごちそうさまでした! あー、美味しかった。これで明日からの授業も頑張れそう!」
店を出て、大きく伸びをする陽子。
俺はその横で、当然のように彼女の重い革鞄を右手に提げている。
「じゃあ、駅まで行こうか」
「うん!」
並んで歩く帰り道。
二人の間の距離は、まだ手が触れ合うほど近くはない。
だが、あの『純喫茶 白鳥』のボックス席で向かい合い、一緒にパフェを食べたこの時間は、俺たちの関係を確実に『ただのクラスメイト』から『特別な友達』へと塗り替えていた。
明日からもまた、平凡な高校生活が続く。
だが、その平凡な日々の一分一秒が、俺にとっては奇跡のように尊い。
この笑顔を、今度こそ最後まで守り抜く。
右手の中にある鞄の重みを確かめながら、俺は茜色の空の下、陽子の歩幅に合わせてゆっくりと歩き続けた。
皆様からのご意見・ご感想等あればお聞かせください。




