第7話:ゲーセンの誘惑と、放課後の図書室
第7話:ゲーセンの誘惑と、放課後の図書室
一九八七年、五月中旬。
ゴールデンウィークの喧騒も過ぎ去り、初夏の気配を含んだ風が教室の開け放たれた窓から吹き込む季節になった。
学生服の冬着の下にじわりと汗をかくこの時期、高校生たちにとって最も憂鬱なイベントが足音を立てて近づいていた。
『一学期・中間考査まで、あと一週間』
黒板の隅に日直が書き込んだその白いチョークの文字を見て、クラス中から重いため息が漏れる。
「あーあ、マジでダルい……。なんで五月病で一番しんどい時期にテストなんかやんだよ」
昼休み。俺の席の前にドカッと座り込んできたのは、中学からの悪友である佐藤だった。
短く刈り込んだ髪に、少し着崩した学生服。ガサツだがどこか憎めない、お調子者の典型のような男だ。一周目の人生では、二十代後半で実家の都合で地元に帰り、それきり音信不通になっていた。
「おい健一、今日の放課後、駅前のゲーセン行こうぜ。この前入った大型筐体の体感ゲーム、〇ウトランが空いてるらしいんだよ。テスト一週間前でみんな部活休みだし、今がチャンスだろ?」
佐藤が目を輝かせて提案してくる。
一九八七年のゲームセンターは、まさに若者の娯楽の最先端だった。大画面で真っ赤なスポーツカーを運転するそのゲームは、当時の高校生男子にとって喉から手が出るほどプレイしたい代物だったのだ。
一周目の十六歳の俺なら、ここで二つ返事で「行く行く!」と乗っていただろう。
面倒なテスト勉強から逃げ、佐藤と一緒に夕方までゲーセンに入り浸る。そしていよいよテスト前日になって追い詰められると、隣の席の陽子に「ごめん、ノート貸して!」と泣きつき、彼女が綺麗にまとめた要点を丸暗記して、なんとか赤点だけを回避する。
そんな、絵に描いたようなクズで要領のいい立ち回りをしていた。
(……だが、今の俺は五十三歳だ。同じ轍は二度と踏まない)
俺は、佐藤の期待に満ちた顔を見つめ返し、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「悪い、佐藤。今日はパス。俺、今回のテストはガチで勉強するって決めたんだわ」
「はぁ!?」
佐藤は、まるで宇宙人でも見るかのような顔で俺を凝視した。
「お前、頭打ったのか? なにがガチで勉強する、だよ。どうせいつもみたいに、直前になって頭いいヤツにノート借りて要領よく丸暗記するつもりだろ? 今からガリ勉したって無駄無駄!」
(痛いところを突くじゃないか、この悪友は)
一周目の俺の行動パターンを完璧に見抜いている佐藤の言葉に、俺は内心で冷や汗をかきながらも、高校生らしい軽いトーンで切り返した。
「いや、それがさ。今年から心を入れ替えたんだよ。ほら、三年になったら受験もあるし、今から基礎固めとこうと思って」
「嘘つけ! お前がそんな殊勝なこと考えるわけねえだろ!」
「うるさいな、本当だって。だからゲーセンはテスト終わるまでお預け。お前も少しは勉強しろよ?」
「けっ、付き合いの悪いやつ。いいもんね、俺は他のクラスのやつ誘って〇ウトランのハンドル握ってくるからな!」
佐藤は面白くなさそうに唇を尖らせると、そのまま別の男子の席へと向かっていった。
俺は小さく息を吐き、机の上に広げたままだった世界史の教科書に目を落とした。
その時だった。
「……すごいね、高橋君」
隣の席から、クスクスという笑い声とともに、陽子が身を乗り出してきた。
彼女は自分の弁当箱を片付け終え、両手で頬杖をつきながら俺を見つめている。
「なにが?」
「だって、あの佐藤君の誘いを断るなんて。本当に勉強する気なんだね」
「そりゃそうだよ。四月に駅前の本屋で、中村さんに誓ったでしょ? 今年は逃げずに真っ直ぐ立ち向かうって」
俺がサラリとそう言うと、陽子は少しだけ目を丸くして、それからとても嬉しそうに微笑んだ。
「……うん。そっか、ちゃんと覚えててくれたんだね。なんだか、高橋君が別人みたいに見えるよ」
(そりゃ別人だろうな。中身は三十年も先の未来から来た、酸いも甘いも噛み分けたオヤジなんだから)
内心でそう自嘲しながらも、彼女のその真っ直ぐで温かい眼差しに見つめられると、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
一周目の俺は、佐藤と一緒にゲーセンで遊び呆け、結局彼女の優しさに寄生していた。
彼女がどれほどの努力をして、その綺麗なノートを作り上げているかも知らずに。
陽子は、志望校への進学を怪我で諦めた後、「保母さん」という新しい夢を見つけた。
その夢を叶えるためには、高校を卒業した後、幼児教育を学べる短大や専門学校へ進学しなければならない。彼女にとって、毎回の定期テストは、自分の未来を切り開くための大切なステップなのだ。
痛みを抱えた足で立てないのなら、学力と努力で立ち上がるしかない。彼女のノートの綺麗さは、そのまま彼女の「生きるための必死さ」の表れだった。
「ねえ、高橋君」
陽子が、少しだけ声を潜めて提案してきた。
「今日の放課後、図書室で一緒に勉強しない? 数学、この前の続きから教えるよ。その代わり、世界史の『コーポレート・ガバナンス』だっけ? またあんな風に、面白く教えてほしいな」
「図書室で?」
「うん。教室だと、他の部活の声とか聞こえて集中できないかもしれないし。……ダメかな?」
上目遣いで尋ねてくる陽子に、俺の心臓が大きく跳ねた。
(ダメなわけがないだろう。むしろ、俺の五十三年分の知識と財産をすべて注ぎ込んででも、お前の力になりたい)
俺は、込み上げてくる重すぎる愛情を必死に理性で押さえ込み、あくまで「ちょっと頼りになるクラスメイト」の顔を作って笑い返した。
「いいよ、図書室行こうか。俺も中村先生の数学の授業がないと、赤点確実だからさ」
「ふふっ、任せて。みっちりしごいてあげるからね!」
* * *
放課後の図書室は、テスト一週間前ということもあり、静まり返った独特の緊張感に包まれていた。
古い紙とインクの匂い、そして床のワックスの匂いが混ざり合った、昭和の学校特有の空気。西日が差し込む窓際の席を確保し、俺たちは向かい合わせに座ってノートを広げた。
「よし、じゃあまずは数学からね。ここ、この公式を代入するんだけど……」
陽子がノートにシャーペンを走らせながら、小声で丁寧に解説してくれる。
俺は相槌を打ちながら、彼女の横顔をそっと盗み見た。
真剣な眼差しで数式を追う瞳。時折、考え込むようにペン尻でこめかみを軽く叩く仕草。窓から差し込む夕日が、彼女の柔らかい黒髪を栗色に染めている。
(……綺麗だ)
三十年後の未来で、同窓会の隅で疲れたような寂しい笑顔を見せていた彼女とは違う。
希望に満ちて、自分の未来を自分の手で切り開こうとしている、眩しいほどの生命力がそこにあった。
「……高橋君? 聞いてる? ここ、すごく大事なところだよ」
俺の視線に気づいた陽子が、少しだけむくれたような顔で俺を見た。
「あ、ごめん! 聞いてる聞いてる。ええと、ここを展開して、マイナスをかけるんだっけ?」
「もう、適当なんだから。……でも、高橋君って現代文とか英語はすごく得意だよね。長文読解とか、どうしてあんなにスラスラ読めるの?」
陽子が不思議そうに首を傾げる。
それもそのはずだ。五十三歳の俺にとって、高校レベルの現代文など、筆者の意図や感情の機微を読み取るだけの簡単な作業に過ぎない。商社の営業本部長として、取引先の腹の底を探り合い、クレームの裏にある本当の要求を読み解くような修羅場をくぐり抜けてきたのだ。国語のテストの「筆者の言いたいことを選べ」など、接待相手の機嫌を取ることに比べれば児戯に等しい。
英語にしても、海外の取引先と散々やり取りをしてきた経験があるため、文法は怪しくても「要するに何が言いたいのか」は直感で把握できた。
「まあ、昔から本を読むのは嫌いじゃなかったからね。文脈を読むっていうか、相手が何を伝えたいのかを想像するのは得意なんだよ」
俺が無難な言い訳を作ると、陽子は「へえ……」と感心したように頷いた。
「すごいな。私はどうしても、筆者の気持ちより『自分がどう思うか』が先に来ちゃって、現代文は苦手なんだよね」
「中村さんは優しいから、感情移入しすぎちゃうんじゃない? 保母さんには最高の才能だと思うけどね」
俺が何気なくそう言うと、陽子はハッとしたように顔を上げ、それから照れ隠しのようにノートで顔の下半分を隠した。
「……もう。高橋君は時々、先生みたいに核心を突くよね」
「そうかな? 普通の高校生の感想でしょ」
「ふふっ。じゃあ、その大人の先生に、世界史の続きを教えてもらおうかな」
陽子が世界史のノートを開き、目を輝かせる。
俺は小さく息を吸い込み、ビジネスの知識を総動員した『俺にしかできない世界史の授業』を再開した。
「よし。じゃあ今日は『産業革命』についてだ。これはね、手作業でやってた町工場が、急に巨大な機械を導入して大量生産を始めた『技術革新』の話なんだ。でも、機械が導入されるとどうなると思う? 今まで手作業で稼いでた職人たちは、仕事がなくなってクビにされちゃうだろ?」
「あ……そっか。機械に仕事を取られちゃうんだ」
「そう。だから怒った職人たちが機械を壊す事件(ラッダイト運動)が起きる。新しい技術が入ってくると、必ず古い権益を持ってる連中が反発するっていう、人間の当たり前の構造がここにあるんだよ」
陽子は真剣な表情で頷きながら、俺の言葉をノートに書き留めていく。
お互いの得意なことを教え合い、足りない部分を補い合う。
図書室に響く、紙をめくる音と、二人の小さなひそひそ声。
ただ勉強しているだけの時間なのに、俺にとっては、この静かな時間がどんな高級レストランでのディナーよりも贅沢で、かけがえのないものに思えた。
* * *
図書室を出る頃には、空はすっかり暮れなずみ、一番星が西の空に瞬いていた。
「あー、頭使った! でも、すごくよくわかったよ。高橋君、本当にありがとう」
昇降口で靴を履き替えながら、陽子が大きく伸びをして笑う。
「こっちこそ。おかげで数学の赤点は回避できそうだよ」
俺はいつものように、ごく自然な動作で、彼女の手からずっしりと重い学生鞄を受け取った。
陽子ももう、「悪いからいいよ」とは言わなくなっていた。「ありがとう」と少し照れくさそうに微笑んで、俺の隣を歩き出す。
この『鞄を持つ』という俺のエスコートが、彼女の中で少しずつ日常として受け入れられ始めていることが、嬉しかった。
駅への道を歩きながら、俺はふと、前を歩く彼女の横顔を見つめた。
「……今回のテスト、中村さんはかなり気合入ってるみたいだね」
「うん。……私ね、どうしても行きたい短大があるの」
陽子は前を向いたまま、ぽつりと言った。
「幼児教育の勉強がしっかりできるところでね。でも、今の私の成績だとギリギリだから……一年の時みたいに、なんとなくやってちゃダメだなって思って」
(……知っている)
一周目でも、彼女はその短大に見事合格し、夢への切符を手にした。
だが、その影で彼女がどれほどの努力を重ねていたのかを、当時の俺は知ろうともしなかったのだ。
「大丈夫だよ、中村さんなら」
俺は、三十年後の未来を知っているからこそ、そして何より、今の彼女の頑張りを目の前で見ているからこそ、絶対の確信を込めて言った。
「今日みたいに真剣にやってれば、絶対に合格できる。俺が保証するよ」
陽子は立ち止まり、俺の方を振り返った。
街灯の光に照らされた彼女の瞳が、少しだけ揺れているように見えた。
「……高橋君にそう言ってもらえると、なんだか本当にやれる気がしてくる」
彼女は小さく笑い、それから、とても優しく穏やかな声で続けた。
「ねえ、テストが終わったらさ」
「ん?」
「お疲れ様会、しようか。高橋君に世界史教わったお礼も兼ねて、駅前のパーラーでパフェでもどう?」
不意に飛び出した『お疲れ様会』という提案。
それは、ただのクラスメイトから、放課後に一緒に寄り道をする『特別な友達』へと、彼女の方から一歩踏み出してくれた証だった。
「……ああ。行こう。楽しみにしてるよ」
俺が深く頷くと、陽子は「約束ね!」と嬉しそうに笑って、改札へと走っていった。
右手にある彼女の鞄の重みはすでになく、代わりに、俺の胸の中には温かく力強い決意が満ちていた。
まずは、この一学期の中間テスト。
彼女の努力に恥じない結果を出し、正々堂々とあのパーラーで向かい合ってパフェを食べるために。
俺は夜風に吹かれながら、明日からさらに気合を入れて図書室に通う自分を想像し、小さく笑みをこぼした。
皆様からのご意見・ご感想等あればお聞かせください。




