第6話:ハイポジの重みと、世界史のコーポレート・ガバナンス
第6話:ハイポジの重みと、世界史のコーポレート・ガバナンス
一九八七年、四月。
木造モルタル建ての高橋家の朝は、相変わらず騒々しい。
「健一! いつまで寝てるの! あんた今日、日直だって言ってたじゃない!」
台所から響く母親の金切り声と、包丁がまな板を叩くトントンというリズミカルな音。
居間では、親父がネクタイを締めながら、ブラウン管テレビから流れる朝のニュース番組を仏頂面で眺めている。
(……うるさい朝だ。だが、悪くない)
俺、高橋健一(中身は五十三歳)は、学生服のボタンを留めながら、小さく息を吐いた。
一周目の俺なら、ここで「わかってるよ、うるせえな!」と怒鳴り返し、不機嫌な顔でトーストをかじって家を飛び出していただろう。
だが、二周目の俺は違う。昨日から少しずつ始めている『高橋家の事なかれ主義・改善キャンペーン』の一環として、俺はあくまで十六歳の生意気な息子を装いつつ、家族の潤滑油になるような立ち回りを意識していた。
「起きてるよ。母さん、朝から声でかすぎ」
わざと気怠そうに居間に入りながら、俺は食卓に並べられたトーストと目玉焼きの皿を引き寄せた。
「あ、ついでに親父の分のお茶、淹れといたから。親父も、新聞ばっか読んでないで早くメシ食えば?」
「お、おう……サンキュウ」
親父は、反抗期真っ只中だったはずの息子から突然お茶を差し出され、戸惑ったように湯呑みを受け取った。
台所の母親も、俺のぶっきらぼうだが気の利いた行動に目を白黒させている。
「な、なによ健一。急に気が利くじゃない。……お父さん、ほら、冷めないうちに食べて」
「わかってる。母さんも座りなさい」
(よし。及第点だ)
目玉焼きに醤油を垂らしながら、俺は内心で頷いた。
相変わらず言葉尻は生意気だが、少しの気遣いを見せるだけで、両親の間のギスギスした空気は確実に和らいでいる。
環境のせいにして逃げるのはもう終わりだ。自分の居場所は、自分の手で居心地良く作り変える。それが、五十三年間の人生で泥水を啜ってきたオヤジの意地だった。
朝食を終えた俺は、自室の机の引き出しから、ある『秘密兵器』を取り出して学生鞄に忍ばせた。
黒くて四角い、手のひらサイズのポータブルカセットプレーヤー。天下の〇ニーが誇る、世界を席巻した大ヒット商品『〇ォークマン』だ。
今日、陽子から受け取るはずの『ハイポジのテープ』を最高の音質で聴くために、昨夜のうちに単三電池を新しいものに入れ替えておいたのだ。
* * *
朝のホームルームが始まる前の、ざわついた教室。
自分の席に鞄を置いた直後、隣の席から「おはよう、高橋君」と、春の陽だまりのような明るい声が降ってきた。
「おはよう、中村さん」
振り返ると、陽子が少しだけ得意げな、そしてどこか照れくさそうな笑みを浮かべて座っていた。
「はい、これ。昨日約束してたやつ!」
そう言って彼女が差し出してきたのは、透明なプラスチックケースに入った一本のカセットテープだった。
黒いベースに金のラインが入った、〇DK製のハイポジション・テープ。ノーマルテープよりも高音域がクリアに録音できる、当時の学生にとってはちょっとした『高級品』だ。
俺がそれを受け取った瞬間、五十三歳の胸の奥が、熱いものでギュッと締め付けられた。
(……すごいな。こんなに、丁寧に)
ケースに挟まれた二つ折りのインデックスカード。そこには、丸みを帯びた丁寧な字で、一曲目から最後の曲まで、すべてのタイトルとアーティスト名がびっしりと書き込まれていた。
さらに驚くべきことに、背表紙にあたる細い部分のアルバムタイトルは、手書きではなく『インレタ(インスタントレタリング)』と呼ばれる転写シートを使って、まるで市販のレコードのように美しい活字で印字されていたのだ。
現代のように、パソコンでプレイリストを共有して終わる時代ではない。
レコードの針を落とし、カセットデッキの録音ボタンを押し、A面が終わるまでじっと何十分も待ち、B面に裏返す。曲が途中で切れないようにテープの長さを計算し、最後にインレタのシートをボールペンでこすって、一文字ずつ背表紙に文字を転写していく。
陽子が昨日の夜、自分の部屋の机に向かい、どれだけの時間と手間をかけてこの一本のテープを作ってくれたのか。
その『時間の重み』と『純粋な好意』が、痛いほどに伝わってくる。
「……すごい綺麗に書いてあるね。わざわざインレタまで使ってくれたの?」
俺がわざと軽い口調を作って尋ねると、陽子は少しだけ頬を染めて、えへへと笑った。
「うん。ちょうど家にインレタの余りがあったから、使ってみたの。綺麗にできてるかな?」
「完璧だよ。売り物かと思った。……中村さん、昨日帰ってからずっとこれ作ってくれてたんだろ? 本当にありがとう。大事に聴くよ」
俺が真っ直ぐに彼女の目を見て礼を言うと、陽子は一瞬だけきょとんとして、それからパッと花が咲いたように笑った。
「どういたしまして! 高橋君が気に入ってくれたら嬉しいな。……あ、でも、勉強中に聴いて集中力が切れたら没収するからね?」
「厳しいな、中村先生は。気をつけます」
冗談めかして両手を上げる俺を見て、陽子はクスクスと笑い声を立てた。
一周目の俺は、このテープをもらった時、ただ「サンキュ」と受け取って鞄に放り込んだだけだった。インデックスカードの美しい文字にも、そこに込められた彼女の時間にも、何一つ思いを馳せることはなかった。
(俺は、こんなにも温かくて優しいものを、無自覚に踏みにじっていたのか……)
俺は、手の中のハイポジテープを、まるで壊れ物を扱うようにそっと学生鞄の奥底にしまった。
* * *
昼休み。
昨日と同じように二つの机をくっつけて弁当を食べ終えた後、俺たちの『持ちつ持たれつ』の勉強会が始まった。
昨日は陽子に数学を教わったが、今日は俺のターンだ。
科目は『世界史』。
五十三歳の脳細胞にとって、サイン・コサインや微分積分といった純粋な数学は完全に未知の言語と化していたが、こと歴史や政治経済に関しては話が別だった。
社会に出て三十年以上、様々な企業の浮き沈みや、理不尽な派閥争い、経済のダイナミズムを肌で感じてきたビジネスマンにとって、歴史とは『人間の欲と組織の力学』の巨大なケーススタディに他ならない。
「ええと、フランス革命のところなんだけど……なんで急に平民が怒ってバスティーユ牢獄を襲ったのか、教科書読んでもいまいちピンとこなくて」
ノートを開きながら首を傾げる陽子に、俺はシャーペンを指先で回しながら答えた。
「ああ、それは簡単だよ。当時のフランスっていう国を、一つの『デカい会社』だと思えばいい」
「会社?」
陽子が不思議そうに瞬きをする。
「そう。王様っていう『ワンマン社長』がいて、貴族っていう『働かない天下り役員』がいっぱいいる会社。でも、彼らは贅沢しすぎて会社の資金(国の財政)をパンクさせちゃったんだよ」
俺は、ルーズリーフに簡単なピラミッドの図を描きながら説明を続けた。
「で、社長はどうしたかっていうと、一番下で死ぬ気で働いてる『平民(ヒラ社員)』にだけ、さらに重い税金を押し付けようとした。しかも、ヒラ社員には会社の方針を決める会議での発言権すらない」
「うわ……それ、最悪な会社だね」
陽子が顔をしかめる。
「だろ? だから、ついにブチ切れたヒラ社員たちが、『ふざけるな、俺たちにも権利をよこせ!』ってストライキを起こして、社長の権力の象徴だったバスティーユ牢獄をぶっ壊した。それがフランス革命の始まりだよ。要するに、理不尽なコーポレート・ガバナンスに対する、労働組合の反乱みたいなもんさ」
「こーぽれーと……?」
「あ、いや、なんでもない! とにかく、上の人間が下の人間を搾取しすぎると、いつか必ず爆発するっていう、人間の当たり前の感情の動きなんだよ」
ついオヤジのビジネス用語が漏れそうになり、俺は慌てて咳払いをして誤魔化した。
だが、陽子はそんな俺の失言には気づかず、ルーズリーフに描かれた図と俺の顔を交互に見て、感嘆の溜息を漏らした。
「……すごい。高橋君、教えるのすっごく上手だね!」
「そ、そうか?」
「うん! 教科書読んでると、年号とか人の名前ばっかりで『ただの暗記』みたいになっちゃうけど。高橋君の説明だと、その人たちが『どうして怒ったのか』とか『どうしてそう動いたのか』が、すごくよくわかる! ドラマみたい!」
陽子は目を輝かせながら、俺の描いた図を自分のノートに丁寧に書き写し始めた。
その横顔を見ながら、俺は内心で(よっしゃ)と小さくガッツポーズをした。
一周目ではノートを借りて甘えるだけのダサい男だった俺が、今、確かな『価値』を彼女に提供できている。
大人の経済観念と組織論を応用した、俺にしかできない世界史の授業。これなら、彼女の「先生」としての役に立てるかもしれない。
「じゃあ、この後のナポレオンの台頭も、会社の乗っ取りみたいな感じ?」
「まさにその通り。会社がゴタゴタして倒産寸前の時に、『俺に任せろ!』って現れた超優秀なカリスマ営業マンが、実績(戦争の勝利)を引っ提げて一気に社長の座まで登り詰めたのがナポレオンだ」
「わかりやすい! あはは、歴史ってこんなに面白かったんだね」
ノートを取りながら楽しそうに笑う陽子の声が、春の教室に心地よく響く。
お互いに教え合い、助け合う関係。どちらかが一方的に寄りかかるのではなく、対等に歩み寄っていく距離感。
俺が一周目で築けなかった、本当の意味での『パートナー』としての土台が、今、少しずつ固まり始めているのを感じていた。
* * *
放課後。
駅へと向かう通学路を、俺と陽子は並んで歩いていた。
俺の右手には、昨日と同じように、辞書が詰まった彼女の重い革鞄が提げられている。
「本当にいいの? 毎日カバン持ってもらっちゃって」
「いいって。中村先生への授業料だし、俺の筋トレにもなるし。それに、今日の世界史の授業料のお釣りってことで」
俺がフランクに笑って言うと、陽子も「それならいっか」と安心したように笑い返してくれた。
夕焼けに染まる駅のロータリーで陽子と別れ、一人になった帰り道。
俺は学生鞄から、今朝もらったばかりのハイポジテープと、〇ォークマンを取り出した。
カチャリ、とテープをセットし、不格好なスポンジのついたヘッドホンを耳に当てる。
再生ボタン(PLAY)を押し込むと、わずかなテープのヒスノイズの直後。
力強く、生命力に溢れた女性ボーカルの歌声が、五十三歳の俺の鼓膜を震わせた。
『わかり始めた、マイ・レボリューション……』
絶望の中で、彼女はこの曲を聴き、自分の運命を受け入れて新しい夢を見つけた。
そして今、その温かい手で作られたテープが、三十年の時を超えて俺の背中を押している。
(……ああ。最高にいい音だ)
夕日に染まる昭和の街並みを歩きながら、俺は大きく息を吸い込んだ。
ハイポジション・テープから流れるクリアなメロディが、俺の心に確かな革命の火を灯していく。
焦ることはない。
明日もまた、彼女に会いに行こう。
重い鞄を持ち、くだらない冗談を言い合い、時には歴史の裏側を語って彼女を笑わせよう。
そうやって積み重ねた一分一秒が、いつか必ず、彼女の左手薬指で輝くプラチナの指輪へと繋がっていくのだから。
俺はヘッドホンから流れる歌声に少しだけ歩幅を合わせながら、夕暮れの道を力強く歩き続けた。
皆様からのご意見・ご感想等あればお聞かせください。




