第5話:A面とB面の間の無音と、彼女の小さな革命
第5話:A面とB面の間の無音と、彼女の小さな革命
貸しレコード屋『〇ー・アンド・アイ』の店内は、特有のビニールカバーの匂いと、少し埃っぽいような紙の匂い、そして天井のスピーカーから流れる最新のヒットチャートのメロディで満たされていた。
一九八七年。まだ『J−POP』という言葉すら定着しておらず、『ニューミュージック』や『邦楽ポップス』と呼ばれていた時代。
木製の棚には、LPレコードと並んで、プラスチックケースに入ったレンタル用のカセットテープがぎっしりと陳列されている。棚を指で弾くようにして、パタパタとプラスチックケースをめくる音が、店内のあちこちから小気味よく響いていた。
「ええと……あ行、か行、さ行……あ、あった!」
邦楽の女性ボーカルコーナーで、背伸びをするようにして棚の上段を探していた陽子が、嬉しそうな声を上げた。
「お目当てのやつ、見つかった?」
両手に提げた二つの学生鞄の重みを心地よく感じながら、俺は彼女の後ろから声をかけた。
「うん! これこれ。〇辺美里の新しいアルバム!」
陽子が満面の笑みで振り返り、手に持ったカセットテープのケースを胸の前で掲げてみせた。
ジャケットには、ショートカットでボーイッシュな笑顔を浮かべる、当時大ブレイク中だった女性アーティストの写真がプリントされている。
「へえ。中村さん、こういうパワフルな感じの曲が好きなんだね」
「うん。私、この人の声が大好きなんだ。なんだか聴いてるだけで、胸の奥からパーッと元気が出てくるっていうか。特に、落ち込んだ時とかに聴くと『明日も頑張ろう!』って思えるんだよね」
陽子のその言葉を聞いて、俺の胸の奥がキュッと締め付けられた。
一九八六年、つまり去年リリースされ、特大のヒットを記録した彼女の代表曲。俺の中にある五十三歳の記憶の引き出しからも、そのメロディと歌詞が鮮明に蘇ってくる。
『わかり始めた、マイ・レボリューション……明日を乱すことさ……』
困難に立ち向かい、自分の力で明日を切り開いていく、力強い革命の歌。
中学生で致命的な怪我を負い、短距離走の選手としての夢も、志望校への進学もすべて絶たれた陽子。そんな絶望のどん底にいた彼女の心を救い、再び前を向かせたのは、このカセットテープから流れる力強い歌声だったのだ。
(……そうだったのか)
一周目の俺は、陽子がどんな音楽を好んで聴いていたかなど、まったく知らなかった。
彼女がカセットテープを貸してくれても、「ふーん、いい曲だね」と適当に相槌を打つだけで、歌詞の意味や、彼女がその曲に込めていた切実な思いにまで思いを馳せることは一度もなかった。俺はいつも自分のことで精一杯で、彼女の内面を知ろうとする努力を致命的なまでに怠っていたのだ。
「……いい曲だよね、それ。俺も好きだよ」
俺が少しだけ声を低くして、真剣なトーンでそう告げると、陽子はパッと目を輝かせた。
「本当!? 高橋君も聴くの?」
「うん。なんかこう……つらいことがあっても、自分に負けないぞって思える力があるっていうか。そういう真っ直ぐなところがいいよな」
俺の言葉に、陽子は少しだけ驚いたように目を見開き、それから、とても優しく、どこか安心したような笑顔を浮かべた。
「……そっか。よかった。高橋君なら、わかってくれるような気がしてたんだ」
陽子はカセットテープのケースを両手で大切そうに包み込みながら、少し照れくさそうに笑った。
「あのね、もしよかったら、これダビングして明日学校に持っていこうか? 高橋君、家でカセット聴けるよね?」
「ダビング」という響きに、俺の五十三歳の脳細胞が強烈なノスタルジーで痺れた。
現代のように、サブスクリプションのアプリで『共有ボタン』をタップすれば一秒で音楽をシェアできる時代ではない。
レコードやレンタルテープを借りてきて、自宅のダブルラジカセにセットし、録音ボタンと再生ボタンを同時にガチャリと押し込んで、A面とB面が終わるまで何十分もじっと待つ。
そして、インデックスカードに細いサインペンで、一曲ずつ丁寧にタイトルを手書きするのだ。
「いいの? 悪いな、手間かけさせちゃって」
「ううん、全然! 私、こういう作業好きなんだ。それに……」
陽子は悪戯っぽくウインクをして、声をひそめた。
「特別に、ノーマルテープじゃなくて『ハイポジ』に録音してあげる!」
ハイポジ! ハイポジション・テープ!
昭和の学生にとって、カセットテープのグレードは人間関係のバロメーターだった。
どうでもいい相手には一本百円程度の『ノーマルテープ』。少し気合を入れたい相手や、お気に入りの曲には、高音質で値段も高い『ハイポジション』。
陽子が「ハイポジに録音してあげる」と言ってくれたことは、一九八七年の高校生にとって、これ以上ない好意と友情の証だった。
「おっ、マジで? それは光栄だな。ハイポジのクリアな音質で聴かせてもらうよ」
俺が少年らしい無邪気さを装って笑うと、陽子も嬉しそうに頷いた。
「うん! 楽しみにしてて。じゃあ、これレジに持っていくね」
彼女がレジで百円玉を数枚支払う背中を見つめながら、俺は心の中でそっと呟いた。
(……ありがとう、陽子。お前が俺のために費やしてくれるその時間と、ハイポジのテープの重みを、今の俺なら痛いほど理解できる)
* * *
貸しレコード屋を出ると、空はすっかり濃い群青色に染まり、商店街の街灯がオレンジ色の温かい光を落とし始めていた。
「あーあ、すっかり暗くなっちゃったね。高橋君、カバン重かったでしょ? ごめんね、付き合わせちゃって」
駅へと向かう帰り道。陽子が申し訳なさそうに、俺の右手で揺れる自分の学生鞄を見つめた。
「全然。筋トレにはちょうどいい負荷だったよ」
俺が冗談めかして右腕を持ち上げてみせると、陽子は「もう、またそんなこと言って」と呆れたように笑った。
カチャ、カチャと。
陽子の手提げ袋の中で、レンタルしたカセットテープのプラスチックケースが鳴る音が、夜の静かな通学路に小さく響く。
「ねえ、高橋君」
少し前を歩いていた陽子が、ふと振り返って俺を見た。街灯の光が、彼女の大きな瞳をキラキラと照らしている。
「今日は、数学教えてくれてありがとう。それに……カバンも」
「教えたっていうか、俺が教わってた時間の方が長かったけどね。俺の頭が固いせいで、中村さんには苦労かけたよ」
「ふふっ、そんなことないよ。私、誰かに何かを教えたりするの、すごく好きなんだって気づいたの」
陽子は前を向き、夜風に髪を揺らしながら、少しだけ楽しそうに呟いた。
「将来、保母さんになったらさ。お絵かきとか、折り紙とか、歌とか……子どもたちにいっぱい教えてあげなきゃいけないでしょ? だから、今のうちから教える練習をしてるの。高橋君は、私の大事な『生徒第一号』ってわけ」
悪戯っぽく笑うその横顔に、俺は心の中で静かに息を呑んだ。
(……俺は、この笑顔を守るためにここに戻ってきたんだ)
一周目の俺は、彼女のこの夢を応援するどころか、社会人になってからの激務にかまけて、「お前は気楽な仕事でいいよな」と心無い言葉をぶつけたことすらあった。
保母さんという仕事がどれほどの責任と愛情を必要とする職業かも理解しようとせず、自分のちっぽけなプライドを守るためだけに、彼女を見下していたのだ。
五十三歳の俺の胸の奥で、激しい後悔の念と、それを上回るほどの強烈な決意が炎のように燃え上がる。
だが、その重すぎる感情を、そのまま口に出すわけにはいかない。今はまだ、昨日言葉を交わしたばかりのクラスメイトに過ぎないのだから。
俺は込み上げる決意を腹の底に押し込み、あくまで等身大の高校生らしい、軽い冗談のトーンを作って笑いかけた。
「そっか。……なら、一年間みっちり教えてもらおうかな」
「え?」
「中村先生の『生徒第一号』として、数学でも世界史でも頼りにしてるよ。……その代わり」
俺は、自分の右手にある重い学生鞄を少しだけ持ち上げてみせた。
「カバン持ちくらいは、生徒の役目としてやらせてよ。ハイポジのテープ代と、授業料の代わりってことで」
陽子は一瞬だけきょとんとした顔をして、それから、声を上げて笑い出した。
「あはは! なにそれ、授業料がカバン持ちなの? 安すぎない?」
「マジか、足りない? じゃあ購買のパンをパシリで買いに行く権利もつけよう」
「もう、バカなこと言ってないで。じゃあ、明日から容赦なくスパルタで教え込むから、覚悟しておいてよね!」
「……ああ。お手柔らかに頼むよ」
俺は、照れ隠しに前髪を掻き上げながら、小さく笑い返した。
駅の改札前で、俺たちは立ち止まった。
「じゃあ、カバン返すね。気をつけて帰れよ」
俺が陽子に革の学生鞄を差し出すと、彼女は両手でしっかりとそれを受け取った。
「うん。高橋君も、気をつけてね。……また明日、学校で!」
「ああ、また明日」
改札を抜けていく彼女の小さな背中を、俺は姿が見えなくなるまでずっと見送っていた。
カセットテープのA面からB面へと切り替わる時の、あのわずかな無音の時間。
今の俺たちの距離は、まさにその無音の空白のように、まだ名前のない、けれど確かな期待と予感に満ちた時間の中にいる。
(明日、ハイポジのテープを受け取る時。俺はまた一歩、あいつに近づけるだろうか)
右手の中に残る、彼女の鞄の確かな重みの余韻を握り締めながら。
俺は大きく深呼吸をして、自分の家へと続く夜道を歩き出した。
カセットテープから流れるマイ・レボリューションのメロディを、心の中で静かに、力強く口ずさみながら
皆様からのご意見・ご感想等あればお聞かせください。




