第4話:昭和の食卓と、カセットテープの距離感
第4話:昭和の食卓と、カセットテープの距離感
駅前のロータリーで陽子と別れ、実家のある住宅街へと歩きながら、俺、高橋健一(中身は五十三歳)の足取りは次第に重くなっていった。
西日が完全に落ち、昭和の面影を色濃く残す木造モルタルの家々から、夕飯の匂いが漂い始める。
自宅の引き戸を開けた瞬間、俺の鼓膜を打ったのは、予想通りの甲高い怒鳴り声だった。
「ちょっとお父さん! 脱いだ靴下を裏返しのまま洗面所に放り投げないでって、何度言ったらわかるの! そもそもあなた、今日は早く帰るって言ってたから夕飯の支度を急いだのに、結局こんな時間じゃない!」
「……うるさいな。付き合いがあったんだから仕方ないだろ。メシはまだか」
居間のふすまの向こうから聞こえてくる、ヒステリックな母親の金切り声と、面倒くさそうに新聞紙の陰に隠れて事なかれ主義を貫く父親の低い声。
これが、俺の育った高橋家の日常風景だった。
三歳上の姉は、この絶え間ない両親の小競り合いと息苦しい空気を嫌い、短大進学と同時に逃げるように家を出て一人暮らしを始めている。
(……ああ。まったく変わってないな)
玄関でローファーを脱ぎながら、俺は深いため息をついた。
一周目の十六歳の俺なら、ここで「うるさいな、静かにしろよ!」と壁を蹴り飛ばし、自室に引きこもってヘッドホンで音楽を大音量で流し、現実から逃避していただろう。
家庭内で面倒な衝突が起きれば、向き合わずに逃げる。嵐が過ぎ去るのを待つ。親父が母親に対してやっている『事なかれ主義』を、俺もまた無意識のうちに学習し、引き継いでいたのだ。
そしてその卑怯な処世術は、数年後、陽子というかけがえのない女性との間で修羅場を迎えた時、最悪の形で発動することになる。
(……逃げない。俺は今日、参考書コーナーで誓ったばかりじゃないか)
俺は学生鞄を床に置き、ネクタイを締め直すような気持ちで、小さく「よし」と呟いた。
五十三歳の元・営業本部長としての、クレーム対応スキルと組織マネジメント力を発揮する時だ。
俺は居間のふすまを開け、できるだけ『高校生の息子らしい』生意気なトーンを残して声をかけた。
「ただいま。二人とも、外まで声聞こえてるぞ」
母親はピタリと金切り声を止め、親父は新聞紙の隙間から目を丸くしてこちらを見た。いつものように反抗的な態度で部屋に逃げ込むと思っていた息子が、やけに落ち着いた声で割って入ってきたからだろう。
「な、なによ健一。あんたも帰りが遅いじゃない!」
矛先をこちらに向けようとする母親に対し、俺はスッと右手を上げて制した。
(いかん、気をつけろ。ここで『ペーシングと承認』などと小難しいビジネス思考を表に出すな。生意気な息子を装いつつ、要点は突くんだ……!)
「母さん、怒る気持ちはわかるけどさ。毎日俺らのためにメシ作ってくれて……サンキュな」
「えっ……あ、ええ……?」
突然の息子からの労いの言葉に、母親は完全に毒気を抜かれ、目を白黒させている。
すかさず、俺は親父の方に向き直った。
「親父もさ、急な付き合いがあるのはわかるけど、せめて駅の公衆電話から一本連絡入れなよ。それだけで母さんも助かるだろ」
(危ない、危ない! 今『事前の報連相が足りないから現場のコンセンサスが……』と言いかけた! 危うく親父に稟議書を叩きつけるところだった!)
「れ、連絡……? お前、急に何を言ってるんだ……?」
親父は、普段反抗的な息子から飛び出した真っ当すぎる正論に戸惑い、持っていた新聞をバサリと畳んだ。
「とにかくさ、せっかく母さんが美味そうなアジの開き焼いてくれたんだし、冷めないうちにみんなで食おうよ」
俺はそう言って、食器棚から箸と茶碗を取り出し、手際よく食卓に並べ始めた。
ポカンとしていた両親だったが、やがて母親が「……そうね、冷めちゃうわね」とバツの悪そうに台所へ向かい、親父も「うむ……」と小さく咳払いをして食卓についた。
奇跡的に訪れた、高橋家の静かで穏やかな夕食の風景。
アジの開きをつつきながら、俺は心の中でガッツポーズをした。
(……やればできるじゃないか)
自分が動けば、環境は変えられる。逃げずに向き合えば、最悪の空気すらコントロールできる。
一周目では気づけなかった小さな成功体験が、俺の胸に確かな自信を与えてくれた。俺の根底にある『事なかれ主義の呪い』は、少しずつだが、自らの手で解きほぐしていけるはずだ。
* * *
翌日の昼休み。
春の柔らかな日差しが差し込む教室の窓際で、俺は頭を抱えていた。
「違うよ高橋君、そこの数式は先にこっちの項を展開してからじゃないと、計算が合わなくなるんだよ」
「あっ……なるほど。そういうことか。いやー、頭が固すぎた。教えてくれて助かったよ」
二つの机をくっつけて、持参した手作り弁当(俺は母親が作ったドカ弁、陽子は可愛らしい二段重ねの弁当箱)を食べ終えた後。約束通り、俺は陽子に数学の基礎を教わっていた。
彼女の教え方は、驚くほど丁寧でわかりやすかった。
俺が何度同じような初歩的なミスをしても、決して呆れたりイライラしたりせず、「惜しい! あと一息!」と励ますように導いてくれる。
(……すごいな。やっぱりこいつは、天性の『保母さん』だ)
俺は、シャーペンを動かすふりをしながら、隣に座る彼女の横顔をそっと盗み見た。
真剣な眼差しでノートを見つめる瞳。さらさらと揺れる黒髪。そして、時折ふわりと香る、石鹸のような清潔な匂い。
この温かくて穏やかな時間が、俺にとっては奇跡のように尊かった。
「……高橋君? 私の顔に何か付いてる?」
不意に視線に気づいた陽子が、小首を傾げてこちらを見た。
「あ、いや! 別になんでもないよ。ただ、中村さんって教えるの上手いなって思って」
誤魔化すように慌ててノートに目を落とす俺を見て、陽子はクスッと笑った。
「ふふっ、よかった。でも高橋君、なんだか昨日から時々、言葉遣いがおじさんみたいになるよね」
「ギクッ……」
「昨日は帰り際に『どっこいしょ』って言ってたし」
「そ、それは……! テレビでやってたお笑いのギャグが移っただけで、俺の本来の姿ではないから!」
必死に取り繕う俺を見て、陽子は声を立てて笑った。
「あはは! 変なの。でも、なんだか高橋君って、見かけによらず話しやすいね。最初の頃は、もっとクールで近寄りがたい人かと思ってた」
「クール……俺が?」
「うん。いつも一人で涼しい顔して、周りのこと冷静に見てる感じがして。でも、実際に話してみたら、全然そんなことなかった」
陽子の言葉に、俺は少しだけ胸がチクリと痛んだ。
一周目の俺がクールに見えたのだとしたら、それは単に『他人と深く関わって面倒事に巻き込まれるのを避けていた』だけだ。その薄っぺらい仮面を、今の俺は少しずつ脱ぎ捨てようとしている。
「俺、別にクールでもなんでもない、ただの不器用なヤツだよ。だから……これからも、こうしていろいろ教えてもらえると助かるな」
俺が照れ隠しのように頭を掻きながら言うと、陽子は少しだけ目を丸くした後、嬉しそうに微笑んで頷いた。
「うん。任せておいて。一年間、よろしくね」
午後の予鈴が鳴り、二人がかりで机を元の位置に戻す。
その時、陽子がふと何かを思い出したように顔を上げた。
「あ、そうだ。高橋君、今日の放課後って何か予定ある?」
「帰宅部だから暇してるよ。なんかあった?」
(よし、完璧な少年らしい自然な返しだ! 上から目線なオヤジ臭さは微塵もないはず!)
内心でガッツポーズを取る俺に、陽子はパッと花が咲いたような笑顔を向けた。
「あのね、駅の反対側にできた新しい貸しレコード屋さんに寄りたいんだけど、もしよかったら一緒に行かない? 私、どうしても借りたいカセットテープがあって」
貸しレコード屋!
一九八〇年代後半の若者文化の象徴だ。『〇ー・アンド・アイ』や『〇光堂』といった看板が街のあちこちにあり、学生たちはそこでレコードやCDをレンタルしては、自宅のダブルラジカセでカセットテープにダビング(録音)するという涙ぐましい努力をしていた時代。
「ああ、いいよ。行こうか。俺もちょうど新しい音楽探したいと思ってたところだし」
危うく「久しぶりにカセットテープの匂いが嗅ぎたい」とオヤジ丸出しの台詞を吐きそうになり、寸前で飲み込む。しゃべり方に気をつけないと、本当にすぐボロが出てしまう。油断大敵だ。
* * *
放課後。
俺たちは二人並んで、駅の反対側にある貸しレコード屋へと続く商店街を歩いていた。
昨日の夕方とは違い、まだ日が高い時間帯だ。
陽子の手には、教科書や辞書がぎっしりと詰まった、ずっしりと重そうな革の学生鞄が握られている。
歩幅を合わせて歩いていると、俺はふと、彼女の歩き方にわずかな違和感を覚えた。
昨日、グラウンドの陸上部を見つめた後と同じだ。無意識のうちに、右足を少しだけかばうように、体重の乗せ方を左足に偏らせている。
重い鞄を右手に持っているせいで、中学時代の骨折の古傷に、ほんの少しだけ負担がかかっているのだ。
(……気づけよ、一周目の俺。こういう小さなサインに、お前はいつも気づかないふりをしてたんだ)
「痛むのか」と直接聞くのは野暮だ。彼女は自分の足の怪我を言い訳にしたり、同情されたりするのを何よりも嫌う、芯の強い女の子なのだから。
俺は歩きながら、スッと自然な動作で、陽子の右手からその重い学生鞄を奪い取った。
「えっ? 高橋君?」
突然鞄を奪われ、陽子が驚いたように目を見開く。
「ごめん、中村さん。それ、ちょっと貸して」
俺は、自分の学生鞄を左手に持ち、右手で陽子の鞄を提げながら、わざとらしく右腕をグルグルと回してみせた。
「いやさ、最近帰宅部で全然運動してないから、腕が鈍ってて。ちょっとダンベル代わりに、中村さんの鞄を持たせてもらおうかと思ってさ」
(いかん、また『パンプアップ』とか言いそうになった。高校生はダンベルくらいしか筋トレ用語を使わないはずだ!)
内心で冷や汗をかきながら言い訳する俺を見て、陽子はポカンとした顔で二つの鞄を交互に見つめた。
「高橋君の鞄も、結構パンパンに入ってるのに?」
「こっちは左腕用。バランスよく鍛えないと、肩が凝る……気がするからね」
「なにそれ、やっぱりおじさんみたい」
陽子はクスクスと笑いながらも、それ以上は鞄を返してとは言わなかった。
「……ありがとう、高橋君。でも、無理しないでね」
「ああ、俺の筋トレのためだから、気にしないでいいよ。それでOK!」
少しだけ軽くなった彼女の足取りを見つめながら、俺は心の中で(どっこいしょ)と密かに息を吐いた。
スマートなエスコートには程遠い。相変わらず変な言い訳ばかりの不器用な立ち回りだ。それでも、一周目のように見て見ぬふりをして隣を歩くより、百万倍マシな自分がそこにいた。
辿り着いた貸しレコード屋の店内は、特有のビニールカバーの匂いと、大音量で流れる最新のポップスに包まれていた。
洋楽コーナー、邦楽コーナー、そしてズラリと並ぶカセットテープやインデックスカードの販売棚。
「私、あっちの邦楽コーナー見てくるね!」
足取り軽く進んでいく陽子の背中を追いかけながら、俺は両手に提げた二つの学生鞄の重みを、まるで勲章のように心地よく感じていた。
彼女との距離は、まだ『隣の席の親切なクラスメイト』に過ぎない。
だが、この昭和の終わりの空気に包まれた何気ない放課後の時間が、確実に俺たちの間の見えない距離を、一歩ずつ、確実に縮めていた。
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