第3話:グラウンドの砂埃と、参考書コーナーの誓い
第3話:グラウンドの砂埃と、参考書コーナーの誓い
一九八七年(昭和六十二年)、四月。
高校二年生の始業式を終えた放課後。俺、高橋健一(中身は五十三歳)は、隣の席になったばかりの陽子と共に、駅前の書店へと向かう通学路を歩いていた。
春の生ぬるい風が、校庭の砂埃を巻き上げていく。
校門を出ようとした時、陽子の足がふと止まった。彼女の視線の先には、放課後のグラウンドで本格的な練習を始めようとしている陸上部の姿があった。
「位置について——」
スタートの合図と共に、スパイクが土を蹴り上げる鋭い音が響く。
夕日を背に受けて疾走する同級生たちの姿を、陽子は少しだけ眩しそうに、そしてどこか遠くを見るような切ない瞳でじっと見つめていた。
その横顔を見た瞬間。俺の胸の奥を、ギリッと冷たい爪で引っ掻かれたような痛みが走った。
(……そうだ。陽子は本当なら、こんな平凡な高校にいるはずのない女の子だったんだ)
一周目の人生で、俺は彼女から直接その過去を聞いていた。
彼女は中学生の時、将来を嘱望されるほど足の速い、優秀な短距離走の選手だった。陸上の強豪校への推薦入学も決まりかけていたという。だが、受験を直前に控えた中学三年生の三学期。不運な交通事故に巻き込まれ、足に大きな骨折を負ってしまった。
アスリートとしての道を絶たれ、同時に目標としていた高校の受験も諦めざるを得なくなった陽子は、絶望の淵で志望校のレベルを大きく下げ、なんとかこの平凡な高校に入学してきたのだ。
それに引き換え、俺はどうだ。
親父の事なかれ主義と、母親のヒステリックな気性を間近で見て育った俺は、「面倒な衝突からは逃げるのが一番」という卑怯な処世術を身につけていた。この高校に入学したのも、大した努力もせず、内申点と要領の良さだけでギリギリ滑り込めたからだ。
(……俺は、本当に最低な男だった)
陽子がどれほどの絶望を乗り越え、自分の足で立ち上がり、あの底抜けに明るい笑顔を周りに向けていたのか。一周目の俺は、そんな彼女の本当の強さに寄り添うこともせず、ただ甘え、テスト前になればノートを借りて赤点を回避し、最後は仕事の忙しさを言い訳にして逃げ出したのだ。
「……高橋君?」
不意に、陽子が顔を覗き込んできた。
「どうかしたの? 怖い顔してるよ」
「……いや。なんでもない」
俺は慌てて五十三歳の自己嫌悪を心の奥底に押し込み、努めて明るい、高校生らしい声を出した。
「ただ、陸上部ってすげえなと思ってさ。俺なんて帰宅部だから、あんな風に全力で走ったら三歩で足がもつれて転ぶ自信がある」
俺が冗談めかして言うと、陽子はふふっと吹き出した。
「高橋君、意外と運動苦手なの?」
「苦手っていうか、無駄に疲れるのが嫌いなだけだ。……でも、一生懸命走ってる姿って、やっぱりかっこいいよな」
俺がグラウンドを見つめたまま静かにそう告げると、陽子は少しだけ驚いたように目を見開いた。そして、憑き物が落ちたような、とても穏やかな笑顔を浮かべた。
「……うん。そうだね。すごく、かっこいい」
陽子はもう一度だけグラウンドを振り返り、それから「行こっか」と前を向いて歩き出した。
その足取りは、ほんのわずかだが、右足をかばうような不自然な癖が残っている。俺はその小さな背中を見つめながら、心の中で強く誓った。
(お前が走れない分は、俺が走る。お前が痛みを抱えているなら、俺がその痛みを半分背負う。今はまだ言えないが……いつか必ず、俺はお前を守れるだけの男になってみせる)
* * *
駅前に新しくできた大型書店は、インクと新しい紙の匂いに満ちていた。
スマートフォンも電子書籍もない一九八七年。学生にとって、書店は文化の最先端であり、放課後の最高の暇つぶしスポットだった。
「わあ……広いね!」
陽子は目を輝かせながら、まっすぐに文庫本の新刊コーナーへと歩いていく。
平積みされた『〇川文庫』や『〇潮文庫』のカラフルな背表紙を指でなぞりながら、彼女はお目当ての作家の新刊を見つけて嬉しそうに微笑んだ。
「あった! これ、探してたんだ」
「へえ。中村さんは、そういう青春ミステリーみたいなのが好きなのか」
「うん。うちのお兄ちゃんが結構本好きでね、その影響かも。三つ上の兄がいるんだけど、昔から色んな本を貸してくれてさ」
(なるほど、お兄さんの影響か)
陽子には三歳上の兄がいる。総務の仕事をしている穏やかな父親と、いつも朗らかな母親。そんな温かい家庭で、兄の背中を見て育ったからこそ、彼女は男子に対しても壁を作らず、自然体で接することができるのだ。事なかれ主義とヒステリックの応酬だった俺の家庭環境とは、まさに真逆である。
「高橋君も、お兄ちゃんとかいるの?」
「いや、俺は三つ上の姉貴が一人。でも、昔から喧嘩ばっかりで、あんまり口も利かないかな」
「そっか。姉弟ってそういうものなのかな。うちは結構、家族みんなでテレビ見ながらワイワイやってるから、想像つかないや」
屈託なく笑う陽子を見ていると、俺の胸に「自分が本当に欲しかった、温かい家庭の風景」が鮮明に浮かび上がってくる。
「じゃあ、高橋君の本も見に行こっか。歴史小説だっけ?」
「あ、いや……今日はちょっと、別のコーナーに行きたいんだ」
俺は陽子を促し、文庫本コーナーからさらに奥——『学習参考書コーナー』へと足を踏み入れた。
ズラリと並ぶ、高校生向けの分厚い問題集や『〇チャート』などの参考書。
陽子は不思議そうに小首を傾げた。
「高橋君、参考書買うの? なんだか意外」
「……俺、今年は心を入れ替えて、真面目に勉強しようと思ってさ」
俺は、静かな決意を込めて言った。
一周目の俺は、日々の授業を適当に聞き流し、テスト前になると彼女に「ごめん! ノート貸して!」と泣きついて赤点を回避するという、情けない男だった。
だが、二周目の俺は違う。中身は過酷な商社で営業本部長まで登り詰めた、五十三歳のビジネスマンだ。高校の勉強くらい、大人の頭脳と集中力をもってすれば、あっという間にマスターできるはずだ。
要領良く逃げるだけのダサい男から卒業し、彼女に頼られる存在になってみせる。
「どれどれ……二年生の数学は、と」
俺は意気揚々と、数学の参考書を手に取り、ページを開いた。
そこに並んでいたのは——。
『関数 f(x) = x^3 - 3x^2 + 2x における極大値と極小値を求めよ』
『ベクトル a と b の内積を求め、そのなす角をθとする時——』
「…………」
俺は、スッと参考書を閉じた。
「……高橋君?」
「……よしなに、とはいかないな、これは」
思わず昭和のビジネス用語が口をついて出た。
五十三歳の脳細胞は完全にフリーズしていた。営業の予算管理や接待費の経費計算なら、電卓一つでいくらでも叩き出せる。だが、サイン・コサイン・タンジェント? 微分積分?
そんなもの、三十年以上前のバブル期に商社に入って以来、ただの一度も稟議書に出てきたことがない。完全に脳から欠落している未知の言語だった。
「……無理だ。記号の意味すらわからん。オヤジの頭脳では処理しきれん……」
俺が魂の抜けたような顔で呟くと、横で見ていた陽子が、プッと吹き出した。
「あはははっ! なにそれ、高橋君、本を開いた瞬間に目が死んでたよ! オヤジの頭脳ってなに!」
お腹を抱えて笑う陽子に、俺は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
(くそっ……! 頼れる大人の男をアピールするはずが、ただのポンコツを晒してしまった……!)
「笑うなよ……俺は本気で、今年は要領の良さだけで逃げるのをやめて、ちゃんと真っ直ぐ立ち向かおうと思ったんだ……」
俺がガックリと肩を落としていると、笑い疲れた陽子が、目尻の涙を拭いながら俺の顔を覗き込んできた。
「……えらいね、高橋君」
「え?」
「真っ直ぐ立ち向かうって、言葉にするのは簡単だけど、なかなかできないことだよ。私、そういうふうに頑張ろうとする人、すごく好きだな」
陽子のその言葉は、俺の過去の罪——何事からも逃げ続けてきた一周目の俺の人生を、優しく包み込んでくれるような温かさを持っていた。
彼女は、ポンッと俺の肩を軽く叩いた。
「もし授業でわからないところがあったら、私が教えてあげる! ノートだって、いつでも見せてあげるから。その代わり、世界史の暗記は手伝ってよね?」
「……中村さん」
「ふふっ。一年間、お互い助け合っていこっか、高橋君」
その言葉には、一切の打算も、見栄もなかった。ただ純粋に、困っている誰かを助けたいという、彼女の根源的な優しさが溢れていた。
「……ああ。よろしく頼む」
俺は、込み上げてくる熱いものを必死に飲み込みながら、深く頷いた。
結局、俺は二周目の人生でも、彼女の優しさに救われている。だが今度は、ただ甘えて利用するだけじゃない。俺が彼女を守るための力をつけるための、前向きな助け合いにするのだ。
* * *
書店を出ると、駅前のロータリーはすでに茜色の夕焼けに染まっていた。
家路につくサラリーマンや学生たちが行き交う中、俺と陽子は、並んで駅へ向かう道を歩いていた。
「ねえ、高橋君」
彼女の手には、先ほど買ったばかりの文庫本が大事そうに抱えられている。
「私ね、将来は保母さんになりたいんだ」
(来たか)と、俺は内心で身構えた。
だが、顔には出さない。俺は五十三歳の記憶を胸の奥に厳重にしまい込み、高校二年生の同級生として、初めてその話を聞くような顔を作った。
「保母さん? へえ……なんか、すごく似合ってる気がするな」
「本当? ふふっ、ありがとう」
夕日を浴びてオレンジ色に染まる彼女の横顔は、とても穏やかだった。
「実はね、私、中学の時に足を怪我しちゃって。走るのを諦めなくちゃいけなかった時は、本当に目の前が真っ暗になったんだけど……。でも、落ち込んでる時に、近所の小さな子どもたちが遊んでるのを見てたら、なんだかすごく元気をもらえて。私も、あの子たちの笑顔を守れるような大人になりたいなって、そう思ったんだ」
初めて聞いたふりをしながらも、俺の胸は激しく締め付けられていた。
陽子がどれほどの痛みを乗り越えて、この夢にたどり着いたのかを知っているからこそ、相槌を打つ声が少しだけ震えそうになる。
「……そっか。すごいな、中村さんは」
俺は、込み上げる感情を抑え込み、できるだけ自然な、けれど絶対の確信を込めたトーンで言った。
「中村さんなら、絶対になれるよ。世界で一番優しくて、強い保母さんに」
「えっ……」
陽子は驚いたように目を丸くして立ち止まり、それから、少し照れくさそうに笑った。
「なにそれ。高橋君がそんなに真面目な顔で言ってくれると、なんだか本当になれそうな気がしてくるから不思議」
彼女は嬉しそうに目を細め、一歩先を軽やかに歩いていく。
その背中を見つめながら、俺はポケットの中で拳を固く握りしめた。
焦る必要はない。いきなり大人の男として完璧にエスコートしようなんて思い上がりだ。
ノートを借り、くだらない話をして、時には彼女の過去の傷にそっと寄り添いながら。これから四年かけて、彼女が二十一歳の誕生日にあのプラチナの指輪を受け取ってくれる日まで、少しずつ、丁寧に、この関係を積み上げていけばいい。
「おーい、高橋君! 早くしないと置いてくよー!」
数メートル先で立ち止まり、手を振る彼女の声が響く。
「どっこいしょっと……! 今行く!」
俺は、わざとおどけたようなオヤジの掛け声を出しながら、茜色の空の下、彼女の待つ場所へと駆け出していった。
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