第2話:二度目の放課後と、不器用な決意
第2話:二度目の放課後と、不器用な決意
一九八六年(昭和六十一年)、四月。
高校二年生の始業式を終えた放課後。
西日の差す教室には、真新しいチョークの粉の匂いと、床に塗られたばかりのワックスの匂い、そしてどこか気だるくも瑞々しい青春の空気が満ちていた。
俺、高橋健一(十六歳、中身は五十三歳)は、自分の机に突っ伏したまま、激しく波打つ心臓を必死に抑え込んでいた。
(……なんとか、気絶せずに乗り切った……!)
朝、落とした消しゴムを拾ってくれた中村陽子。
三十年以上ぶりに間近で見る彼女の眩しすぎる笑顔を真正面から浴びた瞬間、一周目の人生で俺が犯した「最低な裏切り」と「逃げるように彼女を捨てた記憶」がフラッシュバックし、本気で呼吸が止まりかけた。
だが、陽子はそんな俺の異常な青ざめ方と震えを「新しいクラスで緊張している可愛い男子」と勘違いし、クスッと笑って優しく手を差し伸べてくれたのだ。
(俺は、あんなにも優しく、真っ直ぐな女の子の手を……自分の弱さと保身から、一方的に振り払ったんだ)
机に額を押し付けながら、俺はギリッと奥歯を噛み締めた。
脳裏にこびりついて離れないのは、五十代の同窓会で見た、疲れ果てた彼女の寂しげな笑顔だ。
休日が合わないことを環境のせいにして逃げ、若さと見栄だけで選んだ職場の後輩に走り、陽子に別れ話すらまともにせず見捨てた最低の自分。その結果として俺が味わったのは、バブル崩壊後の没落と、離婚、そして地獄のような孤独だった。
もう二度と、あんな結末にはしない。
そのためには、高校時代のこの何気ない日常から、一歩一歩、彼女との絆を絶対に間違えないように積み重ねていかなければならないのだ。
「おーい、健一! 何ボーッとしてんだよ。帰るぞ!」
ガラッと乱暴に教室のドアが開き、当時一番の悪友だった佐藤が、ガサツに肩を叩いてきた。
「おっ、佐藤……」
(うわ、懐かしい……! こいつ、二十代の後半に実家の都合で地元に帰ってから音信不通になったけど、こんなに元気だったんだな……!)
五十三歳のオヤジの魂が思わず感極まって涙ぐみそうになり、慌てて目元を擦って表情を引き締める。佐藤はそんな俺の事情など露知らず、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた。
「お前、さっき隣の中村さんといい感じに話してただろ? 隅に置けねえな!」
「ばっ、違うわ、そういうんじゃない! 席が前後だから挨拶しただけだ」
「図星かよ! なあ、今日の放課後、新しく駅前にできたゲーセンでも冷かしに行こうぜ。新作の『ス〇ースハリアー』が入ったらしいぞ。あと『グ〇ディウス』もやりてえし!」
ゲーセン(ゲームセンター)。一九八〇年代後半のカルチャーの代名詞だ。
大型筐体が並び、電子音が響き渡るあの薄暗い空間の記憶が脳裏によみがえる。だが、今の俺にとって、そんなものに百円玉を積んで興じている暇はない。俺には、百六年分の人生を懸けてやらなければならないことがあるのだ。
「悪い、佐藤。俺は今日はちょっと寄り道して帰るから、また今度な」
「えー、なんだよ付き合いわりいな! まさか抜け駆けしてデートじゃねえだろうな?」
「バカ言え。じゃあな」
佐藤を適当にあしらい、俺は学生鞄を掴んで立ち上がった。
ふと、ななめ後ろの席を見る。
そこには、赤と黒のタータンチェックのペンケースを机の上に置き、今日配られたばかりの大量の教科書やプリントを、手際よく鞄にしまっている陽子の姿があった。
黒髪のショートボブが、首筋の動きに合わせてさらりと揺れる。窓から差し込む夕日が、彼女の横顔を淡いオレンジ色に染めていた。
(……そうだ。高二のこの時期、陽子は部活に入っていなくて、いつも放課後は真っ直ぐ図書室か、駅前の本屋に寄って帰るんだったな)
一周目の記憶が、パズルのようにカチリと噛み合って蘇る。
俺たちはこの後、同じ文庫本や、当時流行っていた貸しレコード屋の話題なんかで少しずつ距離を縮めていくのだ。
「あ、高橋くん」
俺がじっと見つめていたことに気づいたのか、陽子が顔を上げ、ふわりと微笑んだ。
「もう帰るの?」
「ああ。中村さんも、部活は?」
「うん。一年生の時は茶道部に入ってたんだけど、ちょっと雰囲気が合わなくってさ。今年はどこにも入らず帰宅部でのんびりしようかなって」
陽子は少し照れくさそうに頬を掻いた。
その何気ない仕草があまりにも可愛らしくて、そして同時に、一周目の人生で彼女に負わせた傷の深さを思い出して、俺の胸がキュッと締め付けられる。
(……守る。今度こそ、絶対にこの笑顔を曇らせない。どんなに仕事が忙しくなろうとも、絶対にこの手を離さない)
俺は小さく深呼吸をして、大人の男としての余裕を(必死に虚勢を張って)醸し出しながら、声をかけた。
「なあ、中村さん」
「ん? なに、高橋くん」
俺は少しだけ喉を鳴らし、精一杯自然なトーンを取り繕って切り出した。
「もしよかったらさ……この後、駅前の本屋に寄っていかないか? 新しい文庫本コーナーに、中村さんが好きそうな作家さんの新刊が入ってた気がしてさ」
——未来の知識(三十年後の記憶)をフル活用した、不自然すぎるピンポイントな誘い文句。
それを聞いた陽子は、目をパチクリと瞬かせ、それから不思議そうに小首を傾げた。
「え……? 高橋くん、私がその作家さんの本好きなの、なんで知ってるの? 私、まだこのクラスの誰にも言ってないはずだけど……」
「……っ!」
しまった、と心臓が跳ね上がる。
(いかん、気の早いオヤジのせっかちさが出てしまった! まだまともに口を利いて初日なのに、相手の好みを完全に把握してるなんて、ただのストーカーみたいじゃないか……!)
嫌な冷や汗が背中を伝う。
「いや、その、なんだ……! ええと、そうだ、去年の図書委員の貸出カード! 中村さんの名前を見た気がして……! そう、それだ、たぶん!」
裏返った声で必死に取り繕う俺の姿を見て、陽子はしばらくポカンとした後、ふっと吹き出した。
「あはは! なんだそれ。高橋くんって、変なところでよく周りを見てるんだね」
「べ、別に変なところじゃないだろ……!」
「ふふっ、いいよ、行こっか。駅前の本屋さん」
陽子はパタンと鞄を閉じ、椅子から軽やかに立ち上がった。
「私、ちょうど新しい小説探してたんだ。案内してよ、高橋くん?」
「……ああ。よしなに……いや、任せろ」
危うくまた『よしなに』などという昭和のビジネス用語が飛び出しそうになり、慌てて咳払いで誤魔化す。
教室を出て、二人で駅に向かう坂道を下る。
すれ違う学生たちは誰もスマートフォンなど持っておらず、皆が顔を上げて、くだらないおしゃべりをしながら歩いている。
そんな一九八六年のノスタルジックな風景の中で、俺の隣を歩く陽子の足取りは驚くほど軽やかだった。
「ねえ、高橋くんは普段どんな本を読むの? やっぱりSFとか、ミステリー?」
「俺か? 俺はそうだな……ビジネス書、いや、歴史小説とかかな」
「へえ、渋いね! お父さんみたい」
ケラケラと笑う陽子の横顔を見つめながら、(よっこいしょ)と心の中で自分の不器用さに呆れる。
スマートなエスコートなど程遠い、ポンコツなボロばかり出してしまう俺。だが、一周目のように変に見栄を張って自分を偽るより、ずっとマシだと思えた。
夕暮れの柔らかい茜色の光が、二人の影を長く伸ばしていく。
これは、贖罪と再生の物語。
最低な逃げ方をした男がもう一度やり直す、甘くて切ない『二度目の初恋』の、確かな第一歩だった
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