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53歳の初恋リフレイン  作者: げりっぱ
高校生編

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第10話:進路希望調査と、冷たいプルタブの空き缶

第10話:進路希望調査と、冷たいプルタブの空き缶


一九八七年、七月上旬。

本格的な夏が到来し、教室は茹だるような熱気に包まれていた。


現代の学校なら当たり前に完備されているエアコンなど、この時代の公立高校にあるはずもない。開け放たれた窓からは、グラウンドの熱風と、気の早い蝉の鳴き声が容赦なく吹き込んでくる。

天井でカラカラと力なく回る扇風機だけが頼りの教室で、生徒たちは下敷きをうちわ代わりにパタパタと仰ぎながら、気怠そうに机に突っ伏していた。


「はい、じゃあこのプリント、来週の三者面談までに親のハンコもらって提出な。自分の将来に関わることだから、適当に書くんじゃないぞ」


ホームルームの終わり。担任の教師が教卓から配ったのは、わら半紙にガリ版刷りされた『進路希望調査票』だった。


(……進路、か)

俺、高橋健一(中身は五十三歳)は、手元に回ってきたザラザラとした質感のプリントを見つめながら、小さく息を吐いた。


一周目の十六歳の俺は、この紙に何を書いていたんだったか。

確か、「とりあえず大学に行けば遊べるらしい」という程度の薄っぺらい動機で、適当な私立文系大学の名前を書いたはずだ。その後、バブル崩壊後の就職氷河期をなんとかすり抜け、中堅の総合商社に入社した。

そこからは、ただひたすらに上を目指すだけの人生だった。休日出勤、派閥争い。会社の利益と自分の出世のために、身を粉にして働き続ける『モーレツ社員』。

そしてその結果、俺は仕事の忙しさを言い訳にして、一番大切にしなければならなかったはずの陽子を裏切り、最低な形で失ったのだ。


(二周目の俺は、どうするべきか)

三十年分の未来の経済動向を知っている俺なら、株や不動産で億万長者になることだって不可能ではない。だが、そんなものに興味はなかった。

俺が欲しいのは、陽子を笑顔にし、彼女と温かい家庭を築き、それを絶対に手放さないための『揺るぎない土台』だ。そのためには、やはり経済力と時間のバランスが取れた、堅実なキャリアを再構築する必要がある。


「ふぅ……よしっ、書けた!」

隣の席から、パシッとシャーペンを置く軽快な音が響いた。

見ると、陽子はすでに進路希望調査票の記入欄をすべて埋め終え、満足げに伸びをしているところだった。


「中村さん、相変わらず迷いがないね。もう書いたの?」

俺が下敷きで顔を仰ぎながら尋ねると、陽子は「うん!」と元気よく頷いた。


「第一志望は『〇〇女子短期大学・幼児教育科』。私、絶対ここに受かって、保母さんの資格取るんだ。そのためにも、この夏の補習は気合入れないとね」

プリントの文字を指差しながら語る彼女の瞳には、一切の迷いがない。

怪我で陸上の夢を絶たれた暗闇の中から、自らの足で立ち上がり、新しい夢に向かってひたむきに走る姿。その強さと眩しさに、俺は自然と目を細めた。


「すごいな。ちゃんと目標が決まってるやつは強いよ。中村さんなら絶対なれるって」

「えへへ、ありがとう。……高橋君は? 何て書くか、もう決まってるの?」

陽子が、小首を傾げて俺の手元の白紙のプリントを覗き込んできた。


「俺? 俺は……まあ、経済学部か法学部あたりの大学かな」

「へえ、文系なんだね。将来は、何かやりたい仕事とかあるの?」


「んー、具体的な職業っていうより……『どんな大人になるか』の方が、俺にとっては大事かなって思っててさ」

俺が少しだけ声を落として言うと、陽子は不思議そうに瞬きをした。

「どんな大人?」


「なんていうか……仕事ばっかりで家族を放ったらかしにするような、そういうのは嫌なんだよね」

俺は、事なかれ主義の両親がギスギスしていた昔の高橋家の食卓と、一周目で自分が壊してしまったものを思い浮かべながら、高校生らしい言葉を選んで続けた。


「ちゃんと夕飯の時間には家に帰ってさ。家族と一緒に『今日のご飯美味しいね』とか、そういうくだらない話をして笑えるような……そういう普通の家庭を大事にできる大人になりたいんだ。だから、それができるような堅実な仕事に就ければいいかなって」


それは、五十三歳の男が人生をかけて出した、痛切な願いだった。

だが、十六歳の高校生男子が語る将来の夢としては、あまりにも所帯染みていて地味すぎるかもしれない。

(いかん、高校生男子の夢にしては、少し落ち着きすぎたか……?)

俺が少し焦って誤魔化そうとした、その時だった。


「……そっか。高橋君らしいね」

陽子は、とても優しく、どこか嬉しそうな微笑みを浮かべていた。


「高橋君って、本当に家族のこと大事にしてるよね。前にお父さんやお母さんの話してた時も思ったけど……。きっと高橋君は、すごく優しいお父さんになるんだろうな」


ドキン、と。

俺の心臓が、耳の奥でうるさいほどの音を立てた。


『優しいお父さんになるんだろうな』

彼女の口から出たその言葉の破壊力は、五十三歳の理性をいとも簡単に吹き飛ばした。

将来、陽子と結婚して、俺が彼女の子供の父親になる。一周目では絶対に叶わなかった、俺が世界で一番欲しかった未来の光景が、一瞬だけ脳裏にフラッシュバックする。


「なっ……! お、親父って……! 気が早すぎない!? まだ高校二年生だぞ!」

俺は真っ赤になった顔を隠すように、慌てて大げさに突っ込んだ。


「あはは! ごめんごめん、確かに気が早かったね。でも、本当にそう思ったんだよ」

陽子は楽しそうにくすくすと笑いながら、自分のプリントを丁寧に半分に折りたたんだ。

「じゃあ、将来の『優しいお父さん』になるためにも、お互い夏休みの勉強頑張らないとね!」


「……ああ。そうだな。頑張るよ」

俺は照れ隠しに前髪を掻き上げながら、熱くなった頬を冷ますように、下敷きで顔をバタバタと仰いだ。

教室の熱気のせいだけじゃない。彼女の何気ない一言で、ここまで取り乱してしまう自分が、少しだけ可笑しかった。


* * *


放課後。

駅へと向かう通学路のアスファルトは、じりじりと照りつける西日を受けて、陽炎が立つほど熱を持っていた。


「あつーい……溶けそう……」

俺の左側を歩く陽子が、ハンカチで額の汗を拭いながら弱音を吐く。

俺の左手には、いつものように自分の鞄と、陽子の革鞄が二つまとめて握られている。


「ちょっと待ってて。喉渇いただろ」

俺は、商店街の角にある酒屋の前に設置された、赤い〇カ・コーラの自動販売機に向かって駆け出した。


百円玉をチャリンと入れ、冷たい缶ジュースを二本買う。

当時の缶ジュースは、飲み口のタブが本体から完全に切り離される『プルタブ式(リングプル)』が主流だった。開けた後のタブをそこら辺にポイ捨てする大人が多く、社会問題にもなっていた時代だ。


俺は自販機の取り出し口から、キンキンに冷えた缶ジュースを二本取り出すと、小走りで陽子の元へと戻った。


「ほら、中村さん」

「えっ?」


ピトッ。

俺は、水滴のついた冷たいスポーツドリンクの缶を、陽子の火照った頬にそっと押し当てた。


「ひゃっ!? 冷たっ!」

陽子がビクッと肩を揺らして、目を丸くする。


「ははっ、いいリアクション。はい、これおごり」

俺が笑いながら缶を差し出すと、陽子は頬を両手で押さえながら、唇を尖らせた。


「もう! びっくりしたじゃない。……でも、ありがとう。生き返るー」

陽子は嬉しそうに缶を受け取ると、カシュッという小気味いい音を立ててプルタブを引きちぎり、ゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。


「ぷはーっ。美味しい!」

陽子は満足そうに息を吐くと、取り外した銀色のプルタブの穴に、無意識のしぐさで自分の指をスッと通して、手持ち無沙汰にくるくると回し始めた。

それは、当時の学生たちがよくやる、他愛のない癖のようなしぐさだった。


だが。

俺は、彼女の細い指にはめられた、その安っぽいアルミの輪っかから、どうしても目が離せなくなった。


(……指輪、か)

今はまだ、ジュースのオマケのような、ただのアルミの切れ端だ。

けれど、いつか必ず。あの指に、本物のプラチナの指輪をはめてみせる。お前を一生守り抜くという、何よりの証として。


俺は五十三歳の胸に秘めた強烈な決意を飲み込みながら、自分の炭酸飲料の缶を開け、喉の渇きを潤した。

炭酸の強い刺激と人工的な甘さが、夏の暑さを一瞬だけ忘れさせてくれる。


「……もうすぐ、夏休みだね」

空き缶のプルタブを指で弾きながら、陽子がキラキラとした目で空を見上げた。


「うん。高校二年の夏休みなんて、あっという間に終わっちゃうんだろうけどな」


「高橋君は、夏休みの予定とかあるの? どこか遊びに行ったり」

「いや、今のところ白紙だよ。今年は心を入れ替えたから、勉強メインの夏にするつもりだし」

俺が答えると、陽子は少しだけ安心したような、そして期待を込めたような顔でこちらを見た。


「あのさ、高橋君」

「ん?」

「もしよかったら……夏休み中も、時々一緒に勉強しない? 図書館とか、涼しいところで」


(……来た)

夏休みの、図書館デート(と呼んでいいのかはわからないが)の誘い。

それは、一ヶ月以上学校で会えなくなる期間を、ただのクラスメイトとして終わらせないための、彼女からの歩み寄りだった。


俺は、込み上げてくる歓喜をグッと腹の底に押し込み、あくまで「ちょっと頼りになるクラスメイト」の顔を作って笑い返した。


「いいよ。俺も、中村先生の数学の監視がないとサボっちゃいそうだし。それに……」

俺は、手の中にある冷たい空き缶を軽く振って、カランと鳴らした。


「俺の『世界史講座』の続きも、まだまだ残ってるからね。夏休みの間に、きっちり近代史まで叩き込んでやるよ」

「ふふっ、スパルタだね。望むところだよ、高橋先生!」


夕日を背に受けて笑い合う俺たちの影が、アスファルトの上に長く伸びていく。

額を流れる汗も、まとわりつくような熱気も、今の俺にはたまらなく愛おしい。


一九八七年の夏。

俺と陽子の関係は、少しずつ、けれど確実に、特別な色を帯び始めていた。

これから始まる長い夏休みが、俺たちの距離をさらに縮めてくれることを確信しながら、俺は自分のプルタブの空き缶を、右手の中にしっかりと握りしめていた。

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