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53歳の初恋リフレイン  作者: げりっぱ
高校生編

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第11話:私服のまぶしさと、図書カードの検索

第11話:私服のまぶしさと、図書カードの検索


一九八七年、七月下旬。

終業式が終わり、学生たちが待ちに待った夏休みが本格的に幕を開けた。


朝からけたたましく鳴り響く蝉の声と、じりじりと焼け付くような日差し。

俺、高橋健一(中身は五十三歳)は、自室の鏡の前で、少しだけ落ち着かない気分で襟付きのポロシャツのシワを伸ばしていた。


「健一! あんた、今日のお昼ご飯はどうするの! 冷や麦でいい!?」

一階から、母親の甲高い声が響いてくる。


俺は階段を半分だけ降りて、玄関でスニーカーの紐を結びながら声を返した。

「いらない。今日から夏休みの間、駅前の市立図書館で勉強してくるから」


「……は? 図書館? あんたが?」

台所から顔を出した母親は、まるで宇宙人でも見るかのように目を丸くしている。

夏休みといえば、初日から佐藤たちとつるんでゲーセンに入り浸るか、部屋でダラダラとテレビを見ているのが、一周目の俺の定番だったからだ。


「うるさいな。もう二年生なんだから、そろそろ受験に向けて基礎固めくらいするだろ。夕飯までには帰るから」

「そ、そう……。なんか急に真面目になっちゃって、熱でもあんじゃないの……?」


「ないっての。じゃあ、行ってくる」

俺は生意気な息子のトーンを保ちつつ、内心で(親不孝な息子で悪かったな)と苦笑しながら実家を出た。


自転車のペダルを漕ぎながら、駅前にある市立図書館へと向かう。

今日の待ち合わせは午前十時。

お互いに部活に所属していない帰宅部同士だからこそできる、朝からの『図書館勉強会』だ。


(私服の陽子に会うのは、この二周目で初めてだな……)

そんなことを考えると、五十三歳のオヤジのくせに、柄にもなく心臓の鼓動が少しだけ早くなるのを感じた。

学校指定の制服という鎧を脱いだ、彼女の素の姿。三十年前の記憶の底を探っても、高校時代の夏休みに彼女とどんな服で会っていたかなど、俺の薄っぺらい記憶には残っていなかった。


図書館の入り口にある時計塔の前。

自転車を停めて五分ほど待っていると、駅の方から、見覚えのある小柄なシルエットが小走りで近づいてくるのが見えた。


「ごめん、高橋君! 待たせちゃった!?」


パタパタと駆け寄ってきた陽子の姿に、俺は思わず息を呑んだ。

淡いレモン色のノースリーブのブラウスに、白いふんわりとしたフレアスカート。手には、教科書やノートが詰まっているであろうキャンバス地のトートバッグが握られている。

制服姿の時の生真面目な印象とは違う、年相応の女の子らしい、爽やかで少し大人びた夏の装い。

結ばずに下ろされた黒髪が夏の風に揺れ、あの石鹸のようなシャンプーの匂いがふわりと鼻先をかすめた。


(……可愛いな)

五十三歳のオヤジとしての純粋な感嘆と、十六歳の思春期男子としての強烈な動揺が混ざり合い、俺は一瞬だけ言葉に詰まってしまった。


「……高橋君? どうしたの?」

不思議そうに首を傾げる陽子に、俺は慌てて顔の前で手を振り、あからさまな動揺を誤魔化した。


「あ、いや! 俺も今来たところだから、全然待ってないよ。……なんか、制服じゃない中村さんを見るの初めてだったから、ちょっと新鮮だなって思って」


「あはは、確かにそうだね。高橋君のそういうポロシャツ姿も、なんだか新鮮。……変じゃないかな、私」

陽子は少し照れくさそうに、自分のフレアスカートの裾を指先で軽くつまんでみせた。


「全然。すごく似合ってるよ。夏らしくて涼しそうだし」

「ふふっ、ありがとう。じゃあ、早く中に入ろっか。外、すごく暑いし」


市立図書館の自動ドアを抜けると、ひんやりとした冷気が全身を包み込んだ。

一九八〇年代後半、一般家庭にはまだエアコンが普及しきっていなかった時代。公共施設である図書館は、無料で涼むことができる学生たちの『オアシス』でもあった。


俺たちは学習室の奥にある、静かな四人掛けのテーブル席に向かい合って座った。

「じゃあ、高橋君。今日は数学の図形問題からやろうか」

「お手柔らかに頼むよ、中村先生」


小声で冗談を言い合いながら、お互いのノートを開く。

陽子の教え方は相変わらず丁寧で、わからない箇所で立ち止まっても、決して焦らせることなく、俺が自分で答えに辿り着くのをじっと待ってくれた。


「……よし、解けた。こういうことだろ?」

「正解! すごいね、高橋君。図形問題のセンス、すごく良くなってるよ」


小声で褒められ、俺は照れ隠しにシャーペンを指先でくるくると回した。

五十三歳の論理的思考力が、ようやく高校数学のパズルに馴染んできた証拠だ。


一時間ほど数学と格闘した後、今度は俺の『世界史講座』のターンになった。

近代ヨーロッパの産業革命から帝国主義への流れを、ビジネスの『市場開拓』と『競合他社とのシェア争い』に例えて解説していく。陽子は目を輝かせながら、ルーズリーフに俺の説明を熱心に書き留めていた。


「なるほど……。じゃあ、この時のイギリスは、無理やり自分たちの商品を売りつけるために、他の国に干渉していったってこと?」

「そう。自国の工場で作りすぎた在庫を処理するために、強引に海外に『支店』を作って売りつけたんだ。それが植民地支配の一つの側面だね」


「わかりやすい! でも、ちょっと細かい年表の流れが教科書だとわかりにくいかも……」

陽子が教科書のページをめくりながら眉をひそめる。


「図書館の開架コーナーに、もっと詳しい歴史の資料集があるはずだよ。ちょっと一緒に探しに行こうか」

俺が提案すると、陽子は「うん!」と頷いて立ち上がった。


インターネットもスマートフォンもない一九八七年。

調べ物といえば、図書館の『図書カード』の引き出しを開け、あいうえお順に並んだ紙のカードを一枚ずつ指で繰って探すという、途方もないアナログ作業が当たり前だった。


書架の立ち並ぶ薄暗い通路。

歴史書のコーナーに辿り着いた俺たちは、背表紙のタイトルを目で追いながら、目的の資料集を探した。


「ええと、近代ヨーロッパ史……あ、高橋君! あれじゃない?」

陽子が指差したのは、木製の書架の一番上の段に並んだ、分厚く重そうなハードカバーの資料集だった。


「おっ、あれだね」

小柄な陽子が背伸びをして、その重そうな本を引き出そうと手を伸ばす。

だが、一番上の段は彼女の指先がようやく届く程度の高さであり、分厚いハードカバーの重みに負けて、バランスを崩しそうになっていた。


「あっ……」

本が棚から滑り落ちそうになった瞬間。


俺は咄嗟に陽子の背後に回り込み、彼女の頭上から手を伸ばして、その分厚い資料集をガシッと受け止めた。


「危ない」


すぐ目の前に、俺の腕。

そして背中には、俺の胸板が軽く触れるか触れないかの距離。

静まり返った書架の通路で、俺たちは、まるでドラマのワンシーンのように密着する形になってしまった。


「あ……」

陽子が小さく息を呑む音が聞こえた。

見上げている彼女の横顔は、耳の先まで真っ赤に染まっている。

石鹸の香りが、先ほどよりもずっと強く、俺の理性を激しく揺さぶった。


(いかん……これは高校生には刺激が強すぎる……!)

中身が五十三歳のオヤジであろうと、この身体は血気盛んな十六歳だ。好きな女の子とこんな距離で密着すれば、心臓が爆発しそうになるのは避けられない。


俺は慌てて本をしっかりと掴み、スッと一歩後ろに下がって距離を取った。

「ご、ごめん。これ、結構重いから。俺が持つよ」


「う、うん……ありがとう、高橋君。ごめんなさい、私、背が低いから……」

陽子も動揺を隠すように、俯きがちに早口で答えた。


「気にしないでいいよ。高いところの荷物を取るのは、男の役目だからさ」

俺が少しだけ大人の余裕を装って(内心はバックバクだが)微笑みかけると、陽子は少しだけ安心したように、小さく「ふふっ」と笑った。


「高橋君って、本当にいつも助けてくれるね。……なんだか、お兄ちゃんみたい」

「お兄ちゃんって。俺たち、同い年だろ」

「あはは、そうだっけ。でも、すごく頼りになるよ」


学習室の席に戻る道すがら、俺は左手に重い資料集を抱えながら、そっと息を吐いた。

一周目の俺は、彼女のこういう小さなSOSに気づけず、いつも自分のことばかり優先していた。

だが、今の俺は違う。彼女の手の届かない場所にある重い荷物は、俺が全部代わりに引き受ける。それが、たとえただの資料集一冊でも、未来の人生の重圧であっても。


午後三時。

充実した勉強会を終え、俺たちは図書館の外に出た。

夕方になっても、夏の太陽はまだまだ容赦なくアスファルトを焦がしている。


「あー、頭使った! でも、すごく勉強になったよ。高橋君、ありがとう」

伸びをしながら笑う陽子の手から、俺はごく自然な動作で、あのキャンバス地のトートバッグを受け取った。


「ううん、俺の方こそ。……はい、これ貸して」

「あ、いいの? トートバッグだから、肩に掛けられるんだけど……」

「いいの。俺の左腕の筋トレだから。今日は図形問題で頭しか使ってないからね」


俺がまたしても『筋トレ』という苦しい言い訳を口にすると、陽子は呆れたように笑いながらも、素直に鞄を預けてくれた。


「……じゃあ、明日も同じ時間でいいかな?」

駅へと続く並木道を歩きながら、陽子が上目遣いで尋ねてくる。


「うん、それでOK。明日からは英語の長文も少し見てほしいな」

「任せて。バッチリ鍛えてあげるから!」


ジリジリと照りつける太陽の下、セミの声に負けないくらい明るい彼女の笑い声が響く。

重いトートバッグを握る左手には、確かな充実感があった。


この夏休み。

学校という枠組みを外れた場所で、俺たちの距離は、確実に、そして穏やかに近づいていく。

彼女の隣を歩くこの特等席を、今度こそ、絶対に誰にも譲るつもりはなかった。

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