第12話:ラムネのビー玉と、浴衣の袖を引く指
第12話:ラムネのビー玉と、浴衣の袖を引く指
一九八七年、八月中旬。
お盆を過ぎても一向に衰える気配を見せない猛暑の中、俺と陽子の『市立図書館での勉強会』は、すっかり二人の日常として定着していた。
「あー、終わった! 今日の分のノルマ達成!」
午後四時。図書館の冷房の効いた学習室を出て、むわっとした熱気の壁にぶつかった瞬間、陽子が大きく伸びをして笑った。
彼女の手からキャンバス地のトートバッグをひょいと受け取り、自分の左手に提げる動作も、今では息を吸うのと同じくらい自然なものになっている。
「お疲れ、中村先生。今日の数学の微分積分、マジで頭から煙が出るかと思ったよ」
「ふふっ、高橋君、最後の方は目が死んでたもんね。でも、すごくペース早いよ。この調子なら夏休み中に二学期の範囲、全部終わっちゃうかも」
並んで駅前通りを歩いていると、どこからか、ピーヒャララという陽気な笛の音と、ドンドンと腹に響く太鼓の音が聞こえてきた。
「あれ? このお囃子の音……」
陽子が音のする方へ顔を向ける。
商店街の入り口にある掲示板には、筆文字でデカデカと書かれた『駅前神社・納涼夏祭り』のポスターが貼られていた。今日と明日の二日間、夕方から地元の神社で縁日が開かれるらしい。
「ああ、今日から夏祭りか」
俺がポスターを見上げて呟くと、陽子も「本当だ。もうそんな時期なんだね」と目を細めた。
(……夏祭り、か)
一周目の十六歳の俺なら、こんな地元の小さな祭りなど見向きもせず、クーラーの効いた部屋でテレビを見ているか、佐藤たちとゲーセンに入り浸っていただろう。
陽子を祭りに誘うなどという発想すら、当時の俺の頭には一ミリも存在しなかった。
だが、今は違う。
俺は、左手に提げた彼女の重いトートバッグの感触を確かめながら、少しだけ早くなる心臓の鼓動を深呼吸で落ち着かせた。
「あのさ、中村さん」
「ん?」
「もし、この後ヒマならさ。……一緒に祭り、行かない?」
俺がなるべくさりげない、高校生らしい軽いトーンを作って誘うと、陽子は一瞬だけきょとんと目を丸くした。
それから、パァッと顔を輝かせて、嬉しそうに頷いた。
「行く! 私、お祭り大好きなんだ! リンゴ飴とか、綿飴とか……あっ、でも」
陽子は自分の着ているTシャツとデニムのスカートを見下ろして、少しだけ困ったような顔をした。
「せっかくだから、浴衣着ていきたいな。一度家に帰って着替えてきてもいい?」
「もちろん。じゃあ、夜の七時に、神社の鳥居の前で待ち合わせってことでどう?」
「うんっ! わかった、絶対行くね!」
陽子はトートバッグを受け取ると、足取りも軽く、駅の反対側にある自宅の方角へと小走りで帰っていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は内心で(よっしゃ)と力強くガッツポーズをした。
* * *
午後六時五十分。
駅前神社の鳥居の前は、すでに大勢の家族連れや中高生たちでごった返していた。
提灯のオレンジ色の明かりが連なり、焼きそばやイカ焼きの焦ける香ばしい匂いが、むせ返るような夏の夜の空気に混ざり合っている。
スマートフォンなんて影も形もない一九八七年。
待ち合わせといえば、事前に決めた時間と場所だけが頼りだ。相手が遅れてきても連絡を取る手段はなく、ただひたすらに群衆の中から相手の姿を探すしかない。
だが、その『待つ時間』すら、今の俺にはたまらなく贅沢なものに思えた。
「高橋君!」
人混みを縫うようにして、鈴の転がるような声が俺の名前を呼んだ。
振り返った俺は、危うく呼吸を忘れるところだった。
提灯の明かりに照らされて立っていたのは、紺色の地に、白と水色の朝顔が大きくあしらわれた浴衣姿の陽子だった。
いつもは下ろしている黒髪がうなじの高さでまとめられ、少しだけ大人びた雰囲気を醸し出している。足元では、歩くたびに下駄がカラン、と涼しげな音を立てていた。
「ごめんね、待った? 帯を結ぶのに手間取っちゃって……」
陽子は少し恥ずかしそうに、帯の結び目を手で押さえながら上目遣いで俺を見た。
(……反則だろう、これは)
五十三歳のオヤジの心臓が、痛いほど跳ね回る。
一周目の人生で、俺は彼女の浴衣姿など一度も見たことがなかった。彼女がこんなにも美しく、そして可憐に夏を装う女の子だったということを、三十年以上経って初めて知ったのだ。
「いや、全然待ってないよ。……それにしても」
俺は、湧き上がる強烈な感情と、十六歳特有の照れくささを必死に抑え込みながら、少し目を逸らして言った。
「すごく似合ってる。……その、浴衣が」
「えっ……」
誤魔化すような俺の不器用な言葉に、陽子はパッと顔を赤くして、それから、俯きがちに「……ありがとう」と小さく呟いた。
「高橋君も、その……甚平、似合ってるよ。なんだか、いつもより大人っぽく見える」
俺が着てきたのは、親父のお下がりの紺色の甚平だった。私服のポロシャツで来るよりも、少しは祭りの雰囲気に合わせようと引っ張り出してきたのだが、彼女にそう言ってもらえるなら着てきた甲斐があったというものだ。
「じゃあ、行こうか。何から食べる?」
「うん! まずは絶対、リンゴ飴!」
二人は並んで、縁日の屋台がひしめく神社の参道へと足を踏み入れた。
だが、予想以上に参道は混雑していた。すれ違う人々の肩がぶつかりそうになり、陽子が人混みに流されそうになって小さくよろける。
「あっ、ごめんなさい……」
「大丈夫か?」
俺は咄嗟に手を伸ばし、彼女の細い肩を支えた。
陽子の中学時代の古傷である、足の骨折。
日常生活に支障はないとはいえ、この人混みで下駄を履いて歩くのは、きっと俺が想像する以上に足に負担がかかっているはずだ。
いつもなら「鞄を持つ」という口実で彼女の負担を減らすことができるが、今日の彼女は小さな巾着袋を一つ持っているだけだ。
(どうする。どうやって、不自然じゃなく彼女をエスコートする……?)
五十三歳の頭脳をフル回転させた結果、俺が出した答えは、至極シンプルで、高校生らしい不器用なものだった。
「ほら、中村さん。迷子になるぞ」
俺は、自分の甚平の左袖を、陽子の目の前にスッと差し出した。
「え……?」
「ここ、掴んどけって。はぐれたら、携帯電話もないし見つけられないだろ」
「……えっ? けいたい、でんわ?」
陽子が不思議そうに首を傾げた瞬間、俺は背筋に冷や汗が走るのを感じた。
(やべっ! つい未来の感覚で口走っちまった!)
一九八七年現在、『携帯電話』などという代物は、一部の大金持ちが肩から提げるような巨大な無線機くらいしかない時代だ。高校生が当たり前に持ち歩くようなものでは絶対にない。
「あ、いや! ええと、その……公衆電話も混んでるだろうし、連絡手段がないだろってこと! ほら、はぐれないように掴んどけって!」
俺が必死に誤魔化して袖を突き出すと、陽子はキョトンとした後、フッと吹き出した。
「ふふっ、なにそれ。高橋君って、時々未来人みたいな変なこと言うよね」
「う、うるさいな。いいから早く」
陽子は楽しそうにくすくすと笑いながら、小さな手で、俺の甚平の袖口をきゅっと掴んだ。
指先から伝わってくる、微かな体温と引き合う力。
俺は左腕を少しだけ彼女の方へ寄せ、人混みから彼女を守るような立ち位置で、ゆっくりと歩幅を合わせて歩き出した。
袖を引かれるたびに、俺の心臓は高校生のようにバクバクと高鳴り、同時に、五十三歳の男としての強烈な保護欲が満たされていくのを感じていた。
「あ、高橋君! ラムネあるよ!」
袖を引く力が強くなり、陽子が指差した先には、氷水が張られた大きなたらいの中で、ガラス瓶のラムネがキンキンに冷やされていた。
「よし、買おう。おばちゃん、ラムネ二本」
俺が百円玉を渡して二本のラムネを受け取ると、陽子は嬉しそうにガラス瓶を受け取った。
「これ、開けるのちょっと苦手なんだよね……」
陽子が付属のプラスチックの押し玉を瓶の口に当て、手のひらで一生懸命に押し込もうとするが、ビー玉はなかなか落ちない。
「貸して。コツがいるんだよ、こういうのは」
俺は彼女の瓶を受け取り、手のひらの付け根でバンッ! と一気に押し込んだ。
シュワッという炭酸の飛沫とともに、カラン、と涼しげな音を立ててビー玉が瓶の中に落ちる。
「はい、どうぞ」
「わぁ、ありがとう! 高橋君、すごいね」
「これくらい、男なら誰でもできるって」
ラムネの瓶を傾け、炭酸の刺激を喉に流し込む。
瓶の中でビー玉がカランコロンと鳴る音は、三十年後の未来ではプラスチックの容器に変わってしまい、決して聞くことのできない『昭和の夏の音』だった。
その時。
ドォーン……! と。
腹の底を揺らすような低い音とともに、夜空に一輪の巨大な光の花が咲いた。
「あっ! 花火!」
陽子がラムネの瓶を持ったまま、夜空を見上げて歓声を上げた。
祭りのフィナーレを飾る、奉納花火だ。規模こそ大きな花火大会には敵わないが、神社のすぐ裏手の河川敷から打ち上げられるため、距離が近く、迫力は十分だった。
ひゅるるるる……ドンッ! パラパラパラ……。
赤、緑、金色。
次々と打ち上がる花火の光が、隣で見上げている陽子の横顔を鮮やかに照らし出す。
その瞳の中には、弾ける花火の光がキラキラと反射していた。
「……綺麗だね、高橋君」
花火を見上げたまま、陽子がぽつりと呟いた。
「ああ。本当に綺麗だ」
俺は、花火ではなく、光に照らされた彼女の横顔を見つめながら答えた。
一周目の人生で、俺はこの光景を知らなかった。
彼女がこんなに無邪気に笑い、ラムネのビー玉の音に喜び、花火を見て目を輝かせる女の子だったということを。
仕事の忙しさにかまけ、彼女との時間を作る努力を放棄し、結局は後輩の誘惑に負けて彼女を切り捨てた最低な男。
(俺は、二度とお前を泣かせない。この笑顔を、俺の残りの人生のすべてを賭けて守り抜く)
五十三歳の魂が、夜空に咲く花火に向かって、静かに、だが決して揺らぐことのない誓いを立てる。
「……高橋君?」
俺の視線に気づいたのか、陽子が不思議そうにこちらを振り向いた。
「ん?」
「どうしたの? 私の顔に、綿飴でもついてる?」
陽子が少し恥ずかしそうに頬を撫でる。
「いや、ついてないよ」
俺は小さく笑い、甚平の袖を掴んでいた彼女の手を、今度は俺の大きな右手で、ごく自然に、そっと包み込むように握った。
「えっ……」
陽子の肩がビクッと跳ねる。
「人混み、もっとすごくなってきたから。……はぐれないように、な」
俺が前を向いたまま、少しだけ不器用に言い訳をすると。
陽子は一瞬だけ言葉を失い、それから、握られた右手に少しだけ力を込め返してくれた。
「……うん。はぐれないように、だね」
ドォーン、と。
ひときわ大きな花火が打ち上がり、歓声が湧き起こる。
繋いだ手から伝わってくる、汗ばむような熱と、確かな脈動。
十六歳の夏休み。
俺たちは初めて、鞄や袖越しではない、お互いの手のひらの熱を共有しながら、夜空に咲く大輪の花火をいつまでも見上げていた。
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