第13話:日焼けした悪友と、文化祭の立候補
第13話:日焼けした悪友と、文化祭の立候補
一九八七年、九月一日。
四十日間に及ぶ長い夏休みが終わり、いよいよ二学期の始業式がやってきた。
九月に入ったとはいえ、残暑はまだまだ厳しい。
相変わらずエアコンのない教室は、窓を全開にしていても熱気がこもり、それに加えて、久しぶりに顔を合わせた高校生たちの「浮かれた熱気」が充満していた。
「おい健一! お前、相変わらず白っちい顔してんな! どこも遊びに行かなかったのかよ!」
朝のホームルーム前。俺の席に乗り込んでくるなり、バンッと背中を叩いてきたのは、悪友の佐藤だった。
振り返った佐藤の顔を見て、俺は思わず吹き出しそうになった。
海やプールで遊び呆けていたのだろう。元々ガサツな男が、見事に真っ黒に日焼けして、まるでどこかの原住民のような風貌になっている。
「いてっ……お前こそ、なんだその黒さ。夜になったら歯しか見えなくなりそうだな」
「へへっ、いいだろ? 湘南の方まで遠征して、ギャルに声かけまくってきたんだぜ! まあ、全敗だったけどな!」
あっけらかんと笑う佐藤の周りでは、他のクラスメイトたちも夏休みの土産話に花を咲かせている。
「〇〇遊園地に行った」「誰々と誰々が夏休みの間に付き合い始めたらしい」など、若さ特有の無軌道でキラキラとした話題が、教室のあちこちから飛び交っていた。
(……若いな、やっぱり)
五十三歳の精神を持つ俺にとって、この教室の喧騒は少しだけ眩しすぎた。
一周目の俺は、間違いなくこの輪の中心で、佐藤と一緒にくだらない自慢話を大声でがなり立てていたはずだ。だが、今の俺には、そんな浮かれた話題よりもずっと大切で、愛おしい『夏休みの記憶』があった。
ガラッ。
教室の前方の扉が開き、ふわりと、あの石鹸の香りが鼻先をかすめた。
「おはよう、高橋君。佐藤君も、おはよう」
少しだけはにかむような笑顔で登校してきた陽子。
彼女の姿を見た瞬間、俺の脳裏に、あの夏祭りの夜の光景が鮮明にフラッシュバックした。
夜空に咲く花火。ラムネの瓶。そして、はぐれないようにと強く握りしめた、彼女の小さくて熱い手のひらの感触。
「おっ、おはよう中村! ってかお前ら、夏休み中も一緒に図書館で勉強してたんだろ? 真面目かよ!」
佐藤がからかうように言うと、陽子は少しだけ頬を赤くして「佐藤君が不真面目すぎるんだよ」と笑って返した。
「……おはよう、中村さん」
俺は、佐藤に悟られないように、できるだけ平坦な高校生らしい声を装って挨拶をした。
「うん、おはよう。……なんだか、教室で会うのはすごく久しぶりな気がするね」
陽子が鞄を机に置きながら、俺の顔を見て小さく微笑む。
その瞳の奥には、図書室での勉強会や夏祭りの夜を共有した『二人にしかわからない秘密の距離感』が確かに宿っていて、俺の心臓を静かに、けれど確実に跳ねさせた。
「だな。なんか、周りがうるさくて落ち着かないよ」
俺が苦笑いしながら答えると、陽子も「ふふっ、そうだね」と同意するように頷いた。
* * *
「はいはい、席につけ。静かにしろー」
始業式を終えた後のロングホームルーム。
担任の教師が教卓に立ち、出席簿でパンパンと机を叩いた。
「二学期は行事が目白押しだ。まずは来月末の『文化祭』。今日はこの時間で、うちのクラスの出し物と、それを仕切る『文化祭実行委員』の男女一名ずつを決めたいと思う」
文化祭。
その単語が出た瞬間、さっきまで浮かれ気分だった教室の空気が、スッと冷え込んだ。
高校の文化祭といえば青春の代名詞のように思えるが、それはあくまで『当日遊ぶ側』の話だ。クラスの出し物を企画し、放課後に残って準備を仕切る『実行委員』など、面倒くさい重労働以外の何物でもない。誰もが「自分以外の誰かがやってくれないか」と、牽制し合うように視線を泳がせている。
「誰か、立候補するやつはいないか? いないなら、くじ引きで決めるぞ」
教師の言葉に、教室中が息を潜める。
佐藤などは、絶対に当てられないようにと、わざとらしく教科書の下に顔を隠して気配を消していた。
(……一周目では、どうやって決まったんだったか)
俺が三十年前の薄っぺらい記憶を掘り起こそうとした、その時だった。
「……あの、先生」
隣の席から、遠慮がちだが、凛とした声が上がった。
陽子だった。彼女はスッと右手を挙げ、教師の顔を真っ直ぐに見つめている。
「私、女子の実行委員、やります。どうせ誰かがやらなきゃいけないなら、早く決めた方がいいと思うので」
教室中から、ホッとしたような安堵のため息が漏れる。
「おお、中村か。助かるよ。真面目なお前なら適任だ」
教師が満足そうに頷く。
(……思い出した)
一周目でも、こうだった。
誰もやりたがらない面倒な役回りを、責任感の強い陽子が自ら引き受ける。そして、足の怪我を抱えながら、放課後遅くまで一人で段ボールを運んだり、買い出しに行ったりして苦労していたのだ。
そして一周目の俺は、そんな彼女の苦労を横目で見ながら、「あいつ真面目すぎるよな」と佐藤たちと笑い合い、さっさとゲーセンへ遊びに行っていた。
最低のクズ野郎だ。
「よし、じゃあ女子は中村で決定な。次は男子だ。誰かやるやつは……」
教師が名簿に目を落とした瞬間。
俺は、自分の机をガタッと鳴らして立ち上がった。
「俺がやります」
教室の空気が、今度は驚きでピタリと止まった。
一番驚いていたのは、前に座っている佐藤だった。
「はぁっ!? お、おい健一! お前、頭打ったのか!? あんな面倒くせえ役、なんでお前が……!」
「うるさいな。別にいいだろ」
俺は佐藤の顔を手のひらで軽く押し退け、教師の方を見た。
「男子の委員、俺でお願いします」
「た、高橋か? まあ、最近お前は授業態度も真面目になったし、任せてもいいが……本当にいいんだな?」
「はい」
俺が力強く頷いて席に座ると、隣から、信じられないものを見るような陽子の視線を感じた。
俺はそちらを見ず、前を向いたまま、彼女にだけ聞こえるような小さな声でボソッと言った。
「……中村さん一人に押し付けて俺だけ帰ったら、夢見が悪くなりそうだからな」
言い訳がましい、高校生男子の不器用な照れ隠し。
だが、陽子は一瞬だけきょとんとした後、とても嬉しそうに、クスッと小さく吹き出した。
「……ふふっ。ありがとう、高橋君。すっごく心強いよ」
* * *
放課後。
ホームルームが終わり、クラスメイトたちが次々と部活や遊びへと散っていく中、俺と陽子の二人は教室に残っていた。
黒板には、さっきの話し合いで決まったうちのクラスの出し物、『お化け屋敷』の文字が書かれている。
「とりあえず、今日はお化け屋敷のレイアウト案だけ考えて、本格的な買い出しは来週からだね」
陽子が実行委員のノートを広げながら、テキパキと今後の予定を確認していく。
「おう。段ボールとか暗幕とか、重い資材の調達は全部俺がやるから。中村さんはデザインとか小道具の方を頼むよ」
「えっ、でも高橋君ばっかり力仕事じゃ悪いよ」
「いいの。俺は左腕の筋トレが日課だからな」
夏休み中から使い古している言い訳をまた口にすると、陽子は「またそれだ」と笑ってくれた。
夕日があかく差し込む、誰もいない放課後の教室。
夏休みの図書室とはまた違う、学校という空間での『二人きりの時間』。
「……ねえ、高橋君」
ノートに書き込みをしていた陽子が、ふと手を止めて俺を見た。
「今日、立候補してくれて、本当に嬉しかった。高橋君が一緒にやってくれるなら、文化祭の準備、すごく楽しくなりそう」
その無邪気で真っ直ぐな言葉に、俺の五十三歳の心臓がまたしてもドキンと跳ねる。
「……そんな大げさなもんじゃないって。どうせ俺、部活もやってなくて暇だったし」
俺は熱くなりかけた頬を誤魔化すように、わざとぶっきらぼうに答えて視線をそらした。
「それに……」
俺は黒板の『お化け屋敷』の文字を見つめたまま、十六歳の少年の声で、五十三歳の男の本音をこぼした。
「中村さんが一人で重い荷物持ったりしてんの、俺が見ててハラハラするからさ。そういうのは、俺に任せとけってこと」
沈黙が落ちる。
しまった、少し気障すぎたか。
俺が内心で焦って陽子の方を盗み見ると、彼女は驚いたように目を丸くし、それから、耳の先まで真っ赤に染めて俯いてしまった。
「……うん。頼りにしてるね、高橋君」
開け放たれた窓から、秋の気配を少しだけ含んだ夕方の風が吹き込んでくる。
二学期の始まり。
クラス中の喧騒から切り離されたこの放課後の教室で、俺たちは、新しい季節に向けてまた一歩、確かな距離を縮めていた。
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