第14話:段ボールの山と、お化け屋敷の『動線』
第14話:段ボールの山と、お化け屋敷の『動線』
一九八七年、九月中旬。
二学期が始まって半月が過ぎ、学校全体が来月末の文化祭に向けて、少しずつ浮き足立った空気を帯び始めていた。
放課後。
俺と陽子は、駅前のスーパーの裏口から、大量の空き段ボールを貰い受けて学校への帰路についていた。
「よいしょっと……」
俺は、ビニール紐で十字に固く縛られた、俺の身長の半分はあろうかという段ボールの束を両手で抱え上げ、バランスを取りながら歩いていた。
中身が空とはいえ、これだけの枚数を束ねるとかなりの重量になる。
「ねえ、高橋君。やっぱり半分、私が持つよ。そんなの一人で持ったら前が見えないし、絶対に重いってば」
俺の斜め前を歩きながら、陽子が心配そうに何度も振り返る。
「大丈夫だって。ほら、今日は左腕だけじゃなくて全身の筋トレの日だから」
俺が段ボールの山からひょっこりと顔を出して軽口を叩くと、陽子は呆れたようにため息をついた。
「もう。また筋トレって誤魔化す。……でも、本当に気をつけてね。足元、見えにくいんだから」
彼女が自分の古傷である足の痛みを隠して無理をするくらいなら、五十三歳のオヤジが翌日の筋肉痛に悶え苦しむ方が百倍マシだ。
俺は強がる高校生の顔を崩さず、「おう、任せとけ」と笑い返した。
* * *
誰もいなくなった放課後の教室。
机と椅子をすべて廊下に出し、床一面に新聞紙を敷き詰めた特設の作業場で、俺たちは集めてきた段ボールを解体し、お化け屋敷の壁面パーツを作り始めていた。
「ええと、ここをガムテープで繋ぎ合わせて……黒い絵の具で塗ればいいんだよね」
陽子が体操服に着替え、腕まくりをしながらハサミと格闘している。
俺はといえば、チョークを片手に黒板の前に立ち、お化け屋敷の『内部レイアウト』を図解していた。
「いいか、中村さん。お化け屋敷で一番大事なのは、ただ脅かすことじゃない。お客さんの『動線』をコントロールすることなんだ」
「ど、どうせん……?」
聞き慣れない単語に、陽子がパチクリと瞬きをする。
俺は構わず、五十三歳の元・営業本部長としてのプレゼンモードに入ってしまった。
「そう。人が無意識に歩くルートのことだ。たとえばこの入り口。入ってすぐに右に曲がらせることで、心理的な圧迫感を与える。そして、最初の角にはあえて何も置かない。お客さんが『なんだ、何もないじゃん』と油断した次の瞬間、この『死角』から一気に驚かす。恐怖っていうのは、安心とのギャップから生まれるんだよ」
黒板に矢印を引きながら熱弁を振るう俺を、陽子はぽかんとした顔で見上げていた。
そして、プッと吹き出したかと思うと、お腹を抱えて笑い始めた。
「あはははっ! なにそれ、高橋君! お化け屋敷のプロ!? それともどこかのデパートの店長さん!?」
「えっ」
彼女の大笑いを聞いて、俺はハッと我に返った。
(やばい、また大人目線のロジックで語りすぎた……!)
高校の文化祭の出し物に「顧客の動線」だの「心理的死角」だの、真顔で語る十六歳がどこにいる。完全にやりすぎだ。
「あ、いや……その、昨日テレビでそういう映画の特集やっててさ! 受け売りだよ、受け売り!」
俺が慌てて黒板消しで図を消しながら誤魔化すと、陽子はまだ肩を揺らしながら笑っていた。
「ふふっ、でもすごいね。ただのお化け屋敷が、すごく本格的なアトラクションみたい。……よし、店長さんの指示通りに、私もしっかり壁を作るね!」
陽子は楽しそうに笑いながら、筆に黒い絵の具をたっぷりとつけ、段ボールの表面を塗りつぶし始めた。
俺もホッと胸を撫で下ろし、彼女の横にしゃがみ込んで、一緒に絵の具を塗り進める。
窓の外は、すでに茜色の夕焼けに染まっていた。
遠くのグラウンドから聞こえてくる野球部の金属音と、どこかの教室から微かに響く吹奏楽部の楽器の音色。
新聞紙の上に広げられた段ボールと、絵の具の匂い。
「……なんか、文化祭って感じがしてきたね」
陽子が、筆を動かしながら嬉しそうに呟く。
「そうだな。佐藤のやつら、俺たちに全部押し付けてゲーセン行きやがって。明日来たら、段ボール百枚切らせてやる」
「あはは、鬼監督だ。でも、みんなでワイワイやるのも楽しいけど……」
陽子はそこで少しだけ言葉を切り、手元の段ボールを見つめたまま、ぽつりと言った。
「私、こうやって……高橋君と二人で準備する時間も、嫌いじゃないな」
ドクン、と。
心臓が大きく跳ね上がり、手に持っていた筆が止まる。
俺が思わず陽子の方に顔を向けると、彼女もハッとしたようにこちらを向き、バチッと視線がぶつかった。
夕日を背に受けた彼女の横顔は、教室の空気と同じくらい、真っ赤に染まっていた。
「あ、ち、違うよ!? 変な意味じゃなくて、その、高橋君は真面目だから、一緒に作業しやすいっていうか……!」
慌てて両手で顔を扇ぐ陽子。
その拍子に、彼女の右手についていた黒い絵の具が、ベチャッと彼女自身の右の頬についてしまった。
「あっ……」
「……中村さん。顔、黒いぞ」
俺が指摘すると、陽子は「えっ!?」とさらに慌てて、手の甲で頬を拭おうとした。だが、余計に絵の具が伸びて、まるで泥棒髭のような無惨な状態になってしまう。
「あちゃー……待って、動かないで」
俺は苦笑しながら立ち上がり、ポケットから自分のハンカチを取り出すと、教室の手洗い場の水道で端を少しだけ濡らして固く絞った。
「ほら、上向いて」
「う、うん……ごめんなさい」
陽子が大人しく顔を上げ、きゅっと目を閉じる。
長いまつ毛と、少しだけ震えている小さな唇。
パーラーでパフェのクリームを拭ってやった時よりも、今の状況ははるかに『密室』で、はるかに距離が近い。
(落ち着け、俺。相手は十六歳の女の子だぞ。オヤジの理性を総動員しろ)
俺は自分にそう言い聞かせながら、震えそうになる指先を必死に制御し、濡らしたハンカチで彼女の頬の絵の具を、壊れ物を扱うようにそっと拭き取った。
「……うん、取れたよ」
「あ、ありがとう……ハンカチ、汚しちゃってごめんね。明日、洗って返すから」
「いいよ。水性絵の具だから、このあと自分で洗うし」
陽子がゆっくりと目を開ける。
至近距離で見つめ合う形になり、お互いの呼吸の音まで聞こえそうな静寂が落ちた。
「……高橋君って」
陽子が、俺を見上げたまま、吸い込まれそうな瞳で小さく呟く。
「時々、本当に……ドキッとするくらい、大人みたいな顔するよね」
その言葉の真意を測りかねて、俺が息を呑んだ瞬間。
ガラッ! と、教室のドアが勢いよく開いた。
「おーい健一! 準備終わったかー? 今から駅前でハンバーガー食って帰ろうぜ……って、おわっ!?」
顔を出したのは、ゲーセン帰りの佐藤だった。
夕暮れの教室で、至近距離で見つめ合っている俺と陽子の姿を見て、佐藤はあからさまに「見てはいけないものを見た」という顔でフリーズした。
「お、お邪魔しましたぁっ!!」
ピシャーン!!
凄まじい勢いでドアが閉まり、廊下を猛ダッシュで遠ざかっていく足音が響き渡る。
「……あいつ、絶対誤解したな」
「し、したね……」
俺たちは数秒間呆然とした後、どちらからともなく、プッと吹き出してしまった。
「もう、佐藤君ったらタイミング悪すぎ!」
「あいつには明日、段ボール二百枚の刑だな」
笑い合う声が、夕暮れの教室に響く。
顔に微かに残る熱を冷ますように、俺は窓から吹き込む秋の風を深く吸い込んだ。
文化祭本番まで、あと一ヶ月。
俺たちの『準備期間』は、まだ始まったばかりだった。
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