第15話:ラジカセのノイズと、黄色いメジャーの距離
第15話:ラジカセのノイズと、黄色いメジャーの距離
一九八七年、九月下旬。
文化祭まで残り一ヶ月を切り、放課後の二年B組の教室は、すっかり『お化け屋敷の制作工房』と化していた。
教室の隅の机に置かれた黒いラジカセからは、誰かが持ってきたカセットテープが回り、流行りのロックバンドのビートが少し割れた音で響いている。
「おい健一……これで段ボール百枚目だぞ。もう親指の付け根が限界なんだけど……」
床に座り込み、ハサミを握りしめたままゾンビのような声を上げているのは、悪友の佐藤だった。
「甘えるな。お前には先週の『不法侵入の罪』で、段ボール二百枚の刑を言い渡したはずだぞ。あと百枚、気合で切れ」
「鬼! 悪魔! 実行委員の権力乱用だ!」
文句を言いながらも手を動かし続ける佐藤を横目に、俺は壁面パーツの補強作業を進めていた。
あの日、佐藤に教室での『いい雰囲気』を見られて以来、俺はあえて彼を文化祭準備の最前線に引きずり込んだ。口封じの意味もあるが、何よりクラスのムードメーカーである彼が真面目に働けば、他の男子たちも自然と手伝うようになるという、五十三歳の元・営業本部長としてのマネジメント戦略だ。
おかげで、クラスの準備は予想以上にスムーズに進んでいた。
「……ねえねえ、陽子」
ふと、少し離れた女子たちの作業グループから、ひそひそと声を潜めた会話が聞こえてきた。
耳を澄ますつもりはなかったが、ラジカセの曲の合間の静寂に、その声は妙にはっきりと俺の耳に届いてしまった。
「最近さ、陽子ってずっと高橋君と一緒にいるよね。夏休みも図書館で勉強してたって聞いたし」
「えっ!? そ、それは、たまたま勉強教えてもらってただけで……!」
「ふーん? でも、実行委員も一緒に立候補してたじゃん。もしかして、二人はそういう関係だったりして?」
「ちょっと、からかわないでよぉ……! 本当に、ただのクラスメイトなんだから!」
女子特有の、面白半分で恋愛の噂を詮索する甲高い笑い声。
陽子は顔を真っ赤にして、必死に手を振って否定している。
(……まあ、そうなるよな)
俺はガムテープを切りながら、内心で小さく息を吐いた。
高校生という生き物は、少しでも男女が仲良くしていれば、すぐに『付き合っている』と騒ぎ立てる。ましてや、あの口の軽い佐藤が「放課後に二人きりでいい雰囲気だった」なんて噂を少しでも流していれば、周りが放っておくはずがない。
一周目の俺なら、周りに冷やかされるのが面倒で、陽子とあえて距離を置いていただろう。
だが、今の俺にとって、そんな外野の冷やかしなどどうでもよかった。問題は、陽子自身がその噂を嫌がって、俺から離れてしまわないかどうかだ。
「……高橋君」
数分後。
作業の手を止めた俺の背中に、少しだけ緊張したような声がかけられた。
振り返ると、体操服姿の陽子が、首から黄色い裁縫用のメジャーを下げて立っていた。
「あ、中村さん。壁の装飾、終わったの?」
「うん、今あっちのグループに任せてきたところ。……あのね、お化け役の衣装のサイズを測りたくて。高橋君、『ドラキュラ伯爵』の役でしょ?」
今回の出し物では、男子数名がお化け役として通路に立つことになっている。俺は実行委員の権限で、一番安全で動かない『ドラキュラ』のポジションをちゃっかり確保していた。
「ああ、衣装係は中村さんがやってくれてるんだっけ。よろしく頼むよ」
俺が立ち上がって両腕を軽く広げると、陽子は「うん」と頷き、メジャーの端を引っ張って俺の前に立った。
「じゃあ、まず肩幅から測るね。ちょっと失礼します……」
陽子が俺の背後に回り込み、両肩にメジャーを当てる。
背中越しに伝わってくる、彼女の微かな息遣い。そして、動くたびにふわりと香る、あの石鹸のような匂い。
近い。
図書館の書架や、夏祭りの人混みよりも、ある意味で無防備な距離だ。
「……高橋君って、意外と肩幅あるんだね」
背後から、メジャーの目盛りを読み上げる彼女の声が、いつもより少しだけ固い。
「そうか? 普通の高校生サイズだと思うけど」
「ううん。制服だとあんまりわからなかったけど、背中とか、けっこうしっかりしてる……」
そこで言葉を切った陽子は、ハッとしたように息を呑み、慌ててメジャーを巻き取った。
「あ、ごめん! 変な意味じゃなくて、その、衣装の生地が足りるかなって思っただけで……!」
彼女が今、猛烈に俺を『異性』として意識しているのが痛いほど伝わってきた。
さっきの女子たちの冷やかしが、確実に彼女の心にさざ波を立てているのだ。
俺はゆっくりと振り返り、メジャーを握りしめて俯いている陽子を見つめた。
「中村さん。……もしかして、さっきの女子の話、気にしてる?」
俺が直球で尋ねると、陽子の肩がビクッと跳ねた。
「き、聞こえてたの……!?」
「まあ、少しだけね。俺たち、いつも一緒にいるから、変に噂立てられちゃったみたいだな」
俺が努めて高校生らしく、困ったような苦笑いを作って見せると、陽子はギュッと唇を噛み、申し訳なさそうに眉を下げた。
「……ごめんね、高橋君。私が一緒にいるせいで、変な噂になっちゃって。迷惑、だよね……?」
上目遣いで俺の顔色を窺う、その不安げな瞳。
(迷惑なわけあるか。むしろ『そうです、俺の最愛の彼女です』って学校中に拡声器で叫びたいくらいだ)
五十三歳のオヤジの強烈な本音が喉まで出かかったが、俺はそれを強靭な理性で胃袋の奥底へと飲み込んだ。
ここで変にボディタッチなどして大人の余裕を気取れば、この繊細な十六歳の関係性は一気に崩れてしまうし、なにより俺自身の心臓が持たない。
俺は照れ隠しのように自分の首の後ろをガシガシと掻きながら、わざと明るいトーンで笑い飛ばした。
「迷惑なわけないだろ。むしろ、中村さんみたいな真面目で、その……可愛い女子と噂になるなら、俺としては鼻が高いけどね」
十六歳の少年らしい、少しだけ不器用な直球の言葉。
だが、そこには一片の嘘もない。
陽子は目を丸くして俺を見上げ、それから、みるみると顔を林檎のように真っ赤に染め上げた。
「か、かわいいって……! もう、高橋君、からかわないでよ!」
「からかってないって。それにさ」
俺は限界を迎えた照れを誤魔化すように、わざとらしくコホンと咳払いをして両腕を広げた。
「と、とにかく! 周りがなんて言おうと、俺たちは実行委員なんだからさ。……変に気にして距離置くとか、そういうの、絶対なしだからな」
俺が目を逸らしながら早口でまくしたてると、陽子は一瞬だけポカンとした。
「……ほら、次は胸囲の測定だろ。早くしないと、ドラキュラの衣装が間に合わないぞ」
俺が赤くなった顔を隠すように急かすと、陽子はしばらく俺の不格好な態度をじっと見て。
やがて、ふっと肩の力を抜いて、小さく吹き出した。
「……ふふっ。高橋君、自分で言っておいてすっごく顔赤いよ」
「う、うるさいな。夕日が眩しいだけだろ」
「はいはい。じゃあ、夕日のせいってことにしておくね」
ラジカセから流れていたカセットテープが、カチャッという音を立ててA面の終わりを告げた。
少しだけ静かになった教室の隅で、陽子は再び黄色いメジャーを伸ばし、今度は躊躇うことなく、俺の背中から胸へと腕を回した。
「じゃあ、息を軽く吸ってー。……うん、オッケー!」
背中に触れる彼女の腕の感触と、からかうような明るい声。
周りの冷やかしという小さな障害は、俺たちの距離を遠ざけるどころか、むしろお互いの絆を確かめ合うための、最高のスパイスになっていた。
「よし、これでドラキュラ伯爵のサイズはバッチリ! かっこいいマント、作ってあげるから楽しみにしててね」
「おう。期待してるよ」
文化祭本番まで、あと少し。
段ボールの匂いと、絵の具の汚れと、不器用な距離感。
青春という名の眩しすぎる日々を、俺は五十三歳の魂で、一秒たりともこぼさないように深く味わっていた。
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