第16話:黒いポリ袋の窓と、サテン生地のマント
第16話:黒いポリ袋の窓と、サテン生地のマント
一九八七年、十月。
季節はすっかり秋めいて、朝夕の風に肌寒さを感じるようになってきた。学校の制服も、爽やかな夏服から、長袖のブラウスやワイシャツへと衣替えを済ませている。
文化祭本番まで残り二週間。
放課後の二年B組の教室は、いよいよ『お化け屋敷』の最終形態へと近づきつつあった。
「おい佐藤! 窓の隙間、まだ光が漏れてるぞ! ガムテープでしっかり塞げ!」
「わかってるよ! つーか、黒いポリ袋を窓ガラス全面に貼るの、地味に腕がキツいんだよ!」
脚立に乗って文句を垂れる佐藤に指示を出しながら、俺は迷路の壁となる段ボールの立て付けを確認していた。
当時の学生のお化け屋敷といえば、家庭用の黒いゴミ袋を切り開いて窓という窓に貼り付け、教室を強制的に暗室にするのが定番のやり方だった。見栄えはチープだが、中に入ってしまえば意外なほどの暗闇と圧迫感を生み出すことができる。
「高橋君、お疲れ様。あっちの壁、すごく頑丈にできたね」
パイプ椅子に座って作業の進捗をノートに記録していた陽子が、パタパタと小走りで駆け寄ってきた。
「おう、中村さんもお疲れ。とりあえず迷路の骨組みは完成だな。あとは内部の装飾と、小道具の配置だけど……」
「うん、そのことなんだけどね」
陽子は少しだけ得意げな笑みを浮かべると、背手に隠していた黒い布の塊をバサッと広げて見せた。
「ジャーン! ドラキュラ伯爵のマント、完成しました!」
それは、手芸店で安く売られている、ツヤツヤとした黒いサテン生地で作られたマントだった。裏地には真っ赤な布が縫い付けられており、襟元には型崩れしないように厚紙が仕込まれている。高校生の出し物の衣装としては、驚くほど本格的な仕上がりだ。
「おおっ、すごいなこれ! 中村さんが一人で縫ったのか?」
「うん。お母さんのミシン借りて、夜な夜なダダダッて。……ねえ、ちょっと羽織ってみてくれない? サイズが合うか確かめたいから」
「わかった」
俺が少し身を屈めると、陽子は背伸びをして、俺の肩にバサリとマントを掛けた。
サテン生地特有のひんやりとした感触と、微かに漂う陽子の家の柔軟剤の匂いが鼻をくすぐる。
「ええと、首元のリボンを結ぶから、ちょっと動かないでね」
陽子が俺の正面に回り込み、マントの首元にある黒いリボンを手に取った。
その瞬間。俺は全身の筋肉が硬直するのを感じた。
リボンを結ぶため、陽子が一歩踏み込んできたことで、俺と彼女の距離が、あの図書室での密着騒ぎに匹敵するほど近くなったからだ。
彼女が真剣な顔で手元を見つめるたびに、長いまつ毛が瞬き、柔らかな吐息が俺のワイシャツの胸元あたりにふわりとかかる。
(……やばい。近い。息ができない)
五十三歳のオヤジの心臓が、まるで思春期の少年のように激しく警鐘を鳴らす。
俺は自分の動揺を悟られないよう、不自然なほど背筋をピンと伸ばし、視線を天井の蛍光灯へと逃がした。
「……あれ? なんかリボンの長さが少し違っちゃったかな。ちょっと結びにくいや」
陽子がぶつぶつと呟きながら、俺の喉元あたりで指先を細かく動かす。その指が時折、俺の首筋に触れるたびに、ビクッと肩が跳ねそうになるのを必死に堪える。
「……高橋君? なんだか、すごくガチガチになってない?」
不審に思ったのか、陽子がリボンを結ぶ手を止めて、不思議そうに見上げてきた。
至近距離でバチリと視線が合う。
「あ、いや! これは、その……ドラキュラ伯爵の役作りの一環っていうか! 威厳を出すために、姿勢を正してるだけだから!」
俺が裏返った声で苦しい言い訳を口にすると、陽子は数秒間きょとんとした後、こらえきれないようにプッと吹き出した。
「ふふっ、なにそれ。ドラキュラって、そんなに直立不動なの?」
「う、うるさいな。初心者だから手探りなんだよ」
陽子は楽しそうにくすくすと笑いながら、最後にリボンをきゅっと蝶々結びにしてくれた。
「はい、完成! ……うん、すごく似合ってる。サイズもぴったりだよ」
陽子が数歩下がって全体を見渡し、満足そうに手を叩く。
「おーい、どうだドラキュラ伯爵……って、おおっ! すげえ本格的じゃん!」
脚立から降りてきた佐藤が、俺の姿を見て目を丸くした。
「おいおい健一、お前だけそんな立派な衣装ずるいぞ! 俺のフランケンシュタインなんて、頭にボルト(紙コップ)くっつけるだけだっていうのに!」
「うるさい。これは実行委員の特権だ」
俺がマントをバサァッと翻して悪役っぽく笑って見せると、教室に残っていた他のクラスメイトたちからも「おーっ!」「似合ってる!」と歓声が上がった。
陽子は、自分が作った衣装が褒められているのが嬉しいのか、少し恥ずかしそうに、でもとても誇らしげに微笑んでいた。
* * *
午後六時半。
『下校時刻です。速やかに下校してください』という生徒指導の教師のアナウンスに従い、俺と陽子は並んで駅へと向かう道を歩いていた。
すっかり日が短くなった十月の夕暮れ。
冷たさを増した秋の風が、街路樹の落ち葉をカラカラと鳴らしながら足元を転がっていく。
俺の左手には、いつものように自分の学生鞄と、陽子のキャンバス地のトートバッグが二つまとめて握られている。
「……なんだか、あっという間だね」
並んで歩きながら、陽子がぽつりと呟いた。
「ん? 何が?」
「文化祭の準備。最初は面倒だなって思う人もいたかもしれないけど、形になってくると、みんなすごく楽しそうに作業してくれて。……でも、終わっちゃうのが少し寂しいなって、ちょっと思っちゃった」
陽子がマフラーの代わりにブラウスの襟元を少し引き寄せながら、寂しそうに笑う。
『祭りの前の高揚感と、終わってしまうことへの寂しさ』。
それは、高校生という特別な時間の中でしか味わえない、最高に贅沢で甘酸っぱい感情だ。一周目の俺は、その価値に気づくこともなく、ただ時間を浪費してしまっていた。
「……そうだな」
俺は秋の夜気を胸いっぱいに吸い込みながら、前を向いたまま答えた。
「でもさ。準備がこれだけ楽しいんだから、本番はもっと楽しいに決まってる。終わった後の寂しさなんて吹き飛ぶくらい、最高の文化祭にしてやろうぜ、中村委員長」
俺がわざとおどけたように「委員長」と呼ぶと、陽子は一瞬だけハッとして、それから、いつもの柔らかい笑顔を取り戻した。
「……うんっ! そうだね、高橋委員長!」
街灯のオレンジ色の光が、歩道に二人の影を長く落とす。
彼女と過ごす二周目の高校生活は、どんな些細な瞬間も、決して色褪せることのない宝物のように輝いていた。
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