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53歳の初恋リフレイン  作者: げりっぱ
高校生編

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第17話:暗闇の迷路と、十七歳の誕生日

第17話:暗闇の迷路と、十七歳の誕生日


一九八七年、十月十二日。

秋の日は釣瓶落としとはよく言ったもので、放課後のチャイムが鳴ってから一時間もすれば、窓の外はすっかり茜色から群青色へとグラデーションを変えていた。


文化祭を翌週に控えた二年B組の教室は、日常の授業風景を完全に消し去り、黒いポリ袋と段ボールが支配する異空間『お化け屋敷』へと変貌を遂げていた。

今日は、クラスの連中が全員帰った後、実行委員である俺と陽子の二人だけで、完成した迷路の『最終ルート確認(デバッグ)』を行うことになっていた。


「それじゃあ、中村さん。窓の暗幕を全部閉めるぞ」

「う、うん。お願い」


俺が教室の隅にあるスイッチを切り、最後に残った扉を閉めると、教室の中は完全な『漆黒』に包まれた。

隙間から漏れる微かな外灯の光だけが頼りだ。この暗さなら、目を凝らしても一メートル先がようやく見えるかどうかというレベルである。


「うわっ……外から見るより、中に入ると全然違うね。本当に真っ暗……」

俺のすぐ後ろから、陽子の少しだけ震える声が聞こえた。


「だろ? 佐藤のやつらが無駄にガムテープで隙間を徹底的に塞ぎやがったからな。まあ、お化け屋敷としては百点満点の暗さだ」

「高橋君、足元気をつけてね。机の脚が出っ張ってる場所があったはずだから」

「おう。俺の背中から離れないようについてきてくれ」


俺たちは懐中電灯を持たず、あえて本番のお客さんと同じ条件で迷路の中をゆっくりと進み始めた。

段ボールの壁を手探りで伝いながら、右へ、左へと曲がる。

俺が黒板で解説した『動線』が見事に機能しており、ただの教室が何倍にも広く感じられるような錯覚に陥る作りになっていた。


「きゃっ!」

最初のクランクを曲がった瞬間、陽子が小さく悲鳴を上げた。

天井から吊るされていたコンニャク(を模した濡れタオル)が、彼女の肩をかすめたのだ。


「大丈夫か?」

「び、びっくりした……わかってても、暗いと怖いね」

陽子の手が、暗闇の中で迷うように宙を掻き、そして確かな温もりを求めて、俺のワイシャツの背中の生地をきゅっと掴んだ。


夏祭りの夜、甚平の袖を掴まれた時の記憶が鮮明に蘇る。

だが、今回は周囲に誰もいない、完全な暗闇の密室だ。彼女の微かな息遣いと、シャンプーの香りが、暗闇の中でより一層輪郭を帯びて俺の五十三歳の理性を容赦なく揺さぶってくる。


「……高橋君、なんか心臓の音、すごくない?」

背中越しに布地を掴んだまま、陽子が不思議そうに呟いた。


「そ、そうか? そりゃお化け屋敷だからな! 俺だって怖いんだよ!」

俺は真っ暗で顔が見えないことをいいことに、全力で言い訳を放った。中身がオヤジであろうと、大好きな女の子と暗闇で密着していれば、心臓が爆発しそうになるのは自然の摂理だ。


「ふふっ、ドラキュラ伯爵なのに怖がりなんだね」

陽子が背中越しにくすくすと笑う。その声には先ほどの緊張は消え、俺に対する絶対的な安心感が滲んでいた。


五分ほどかけて、俺たちは無事に迷路の出口(元々の教室の後ろのドア)へと辿り着いた。

俺がガラッとドアを開けると、廊下の蛍光灯の白い光が目に突き刺さり、二人は同時に「まぶしっ」と目を細めた。


「よし、ルートも強度も問題なしだな。これなら本番も絶対に成功するぞ」

「うんっ! 凄くよくできてた! 高橋君がみんなを引っ張ってくれたおかげだよ」


陽子が心底嬉しそうに笑いながら、自分のキャンバス地のトートバッグが置かれた教卓の方へと小走りで向かう。


「俺は口を出してただけだよ。実際に手ぇ動かしてたのは中村さんたちだろ」

俺も荷物をまとめるために自分の学生鞄を手に取り、帰り支度を始めた。


「じゃあ、戸締まりして帰るか。今日も随分遅くなっちゃったし」

俺が鍵の束を手に取って振り向くと、陽子はトートバッグを両手で胸に抱きかかえるようにして、少しだけモジモジと立ち尽くしていた。


「……高橋君」

「ん? どうした? 忘れ物か?」


「あのね。……これ」

陽子はトートバッグの中から、小さな四角い箱を取り出し、少しだけ上目遣いになって俺の前に差し出した。

それは、紺色の包装紙に包まれ、銀色の細いリボンが丁寧に掛けられた、手のひらサイズのプレゼント箱だった。


「……え?」

「今日、十月十二日だよね。……高橋君、十七歳のお誕生日、おめでとう」


ドクン。

心臓が、さっきのお化け屋敷の中とは全く違う音を立てて跳ねた。


「……俺の、誕生日?」

「うん。春の体力測定の時に、クラスの名簿見たから。……これでやっと、同い年だね」

陽子がふわりと、心底嬉しそうな笑顔を向けてくる。


『これでやっと、同い年だね』。


その言葉を聞いた瞬間。

俺の五十三歳の脳髄に、雷に打たれたような強烈な衝撃が走った。


(同い年……? ということは、陽子の誕生日は俺より先……一ヶ月違いということは、九月……!?)


血の気がサッと引いていくのがわかった。

九月。夏休みが明け、文化祭の実行委員に立候補し、二人で毎日のように残って段ボールを切っていた、あの日々の中。


俺は、大好きな彼女の十七歳の誕生日を、綺麗さっぱりスルーしていたのだ。


(やらかした……!! 完全にやらかした……!!)

なんたる大失態。彼女を幸せにすると誓っておきながら、自分の誕生日を祝われて初めて相手の誕生日に気づくなど、大人の男として、いや、一人の人間としてクズの極みではないか!


「なっ、中村さん……! 誕生日、先月だったのか!?」

俺が顔面蒼白で叫ぶと、陽子はきょとんとした後、少し困ったように眉を下げた。


「……うん。九月十五日。でも、あの頃ってちょうど実行委員の仕事が本格的に始まったばかりで、二人ともすごく忙しかったでしょ? だから、変に気を使わせるのも悪いなって思って」


「気を使わせるって……そんなことあるか! なんで言ってくれなかったんだよ! 俺、中村さんの誕生日に何にもしてないじゃないか!」


激しい自己嫌悪で頭を抱える俺を見て、陽子はクスクスと笑い出した。


「ふふっ、そんなに慌てないでよ。私ね、高橋君が毎日クラスのために頑張ってくれてるのを見るのが、一番のプレゼントだったんだよ。本当に」


なんていい子なんだ。一周目でこんな素晴らしい子を裏切った俺は、万死に値する。


「……開けても、いいかな」

俺は自己嫌悪にまみれた声で震えながら、包装紙のリボンを解いた。

中から出てきたのは、落ち着いたダークグリーンの布地で作られた、文庫本サイズの『ブックカバー』と、それに合わせた布製の『しおり』だった。


「高橋君、いつも図書室で難しい本を読んでるでしょ。だから、こういうのがいいかなって思って。……私のお小遣いで買える範囲のもので、ごめんね」


「……謝るなよ。謝らなきゃいけないのは俺の方だ」

俺はダークグリーンのブックカバーを、壊れ物のように両手でそっと包み込んだ。

「すげえ嬉しい。本当に。……大事に使うよ」


「本当? よかったぁ……」

陽子はホッとしたように胸を撫で下ろした。


「でも、絶対このままじゃ終わらせないからな」

俺は彼女の目を見て、これだけは譲れないという強い意志を込めて言った。

「文化祭が終わったら、絶対に埋め合わせする。中村さんの誕生日のやり直しだ。……覚悟しとけよ」


俺が十六歳の少年らしく、しかし五十三歳の意地を込めて宣言すると、陽子は少しだけ目を丸くして。

やがて、頬をほんのりと赤く染めながら、悪戯っぽく微笑んだ。


「……うん。じゃあ、楽しみにしてるね」


帰り道。

いつものように、俺の左手には二つの鞄が握られている。

俺の学生鞄の中には、彼女がくれたダークグリーンのブックカバーが入っていた。


(……絶対に、幸せにする。来年の十八歳の誕生日も。再来年の、シルバーのネックレスを渡す十九歳の誕生日も)


秋の夜空に浮かぶ月を見上げながら、俺は内心で強烈な誓いを立て直した。

少し不格好で、情けない十七歳の始まり。

だが、この失敗を取り返すための時間は、俺たちの前にまだたっぷりと残されていた。

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