第18話:フラッシュの残像と、オクラホマミキサーの魔法
第18話:フラッシュの残像と、オクラホマミキサーの魔法
一九八七年、十月下旬。
抜けるような秋晴れの空の下、ついに我が校の文化祭『秋桜祭』の幕が上がった。
朝から校内は、普段の静寂が嘘のような喧騒と熱気に包まれていた。
廊下には色とりどりのお花紙で作られたアーチが飾られ、階段の踊り場からは、どこかのクラスが持ち込んだラジカセから流れる流行りのポップスがガンガンと鳴り響いている。
中庭の模擬店エリアからは、ソースの焦げる香ばしい匂いや、綿飴の甘ったるい香りが風に乗って校舎の中まで漂ってきていた。
現代のように、スマートフォンで手軽に動画を撮ってSNSで共有できる時代ではない。
この一九八七年の文化祭というものは、その日、その場所にいる者だけが共有できる、文字通りの『一期一会のお祭り』だった。だからこそ、生徒たちの熱量も、目の前の非日常に向かうエネルギーも、凄まじいものがある。
「おい健一! お前、そのマントすげえな! マジで本物の吸血鬼みたいじゃん!」
二年B組の教室の前で、頭に紙コップのボルトを貼り付け、顔を緑色に塗ったフランケンシュタイン役の佐藤が、俺の姿を見るなり大声を上げた。
「お前が安っぽすぎるだけだろ。顔の絵の具、すでに首のあたりが剥げてきてるぞ」
俺は呆れながら、自分の首元で結ばれた黒いリボンにそっと触れた。
陽子が徹夜で縫い上げてくれた、漆黒のサテン生地に真紅の裏地がついたドラキュラ伯爵のマント。ワイシャツの襟を立ててこれを羽織るだけで、素人のお化け屋敷にはもったいないほどの重厚感が出る。
「高橋君、おはよう! わあ……やっぱりその衣装、すごく似合ってる!」
教室の中から、受付用の段ボールの看板を抱えた陽子が小走りで出てきた。
今日の彼女は、クラスの女子がお揃いで作製した、赤いハチマキに『二年B組 実行委員』とマジックで書かれた腕章をつけている。いつもより少しだけ高めの位置で結ばれたポニーテールが、歩くたびに元気よく揺れていた。
「おはよう、中村さん。このマントのおかげで、俺は何もしなくても立ってるだけで怖がらせられそうだよ」
「ふふっ、よかった。それじゃあ、いよいよオープンだね。高橋君、中の配置についてくれる?」
「了解。受付の誘導、頼んだぞ」
午前九時。校内放送のファンファーレと共に、文化祭が正式にスタートした。
俺が黒板で緻密に計算した『動線のコントロール』と『死角の恐怖』を組み込んだ二年B組のお化け屋敷は、瞬く間に大評判となった。
「B組のお化け屋敷、マジでヤバいらしいぞ」という噂が口コミ(当時はこれが最強の伝達手段だ)で広がり、開始一時間で廊下には長蛇の列ができた。
暗闇の迷路の中、俺はドラキュラとして、最後のクランクの曲がり角に音もなく直立していた。
お客さんが「もう何もないだろう」と油断して息を吐いた瞬間、暗闇の中からサテンのマントをバサッと翻して一歩だけ前に出る。ただそれだけで、女子生徒たちは鼓膜が破れそうなほどの悲鳴を上げ、男子生徒も腰を抜かして逃げていく。
(……ふむ。顧客の心理的ハードルを下げたところへ、最大級のインパクトを叩き込む。営業の基本プレゼンと同じだな)
俺は暗闇の中で一人、五十三歳の元・営業本部長としての謎の達成感を噛み締めていた。
一周目の人生で、部下を怒鳴り散らして取ってきた数億円の契約よりも。今、目の前で悲鳴を上げて逃げていく高校生たちのリアクションを見る方が、なぜだかずっと心が満たされるような気がした。
ふと、迷路の入り口の方から、陽子の明るい声が聞こえてきた。
「はい、次のお客様、二名様ご案内しまーす! 中は本当に暗いので、足元に気をつけて、絶対に前の人から離れないでくださいねー!」
厚紙で作った手作りのメガホンを口に当てて、一生懸命に列の整理と誘導をこなす陽子の姿が、隙間から漏れる光の中にうっすらと見えた。
足の古傷に負担をかけないよう、時折パイプ椅子に座りながらも、その顔には充実した笑顔が弾けている。
(……いい笑顔だ)
三十年以上前の俺は、彼女がこんなにも眩しい顔で笑う女の子だということを、本当に何もわかっていなかった。自分の遊びにかまけ、彼女の献身を当たり前のものとして消費し、最後にはボロ雑巾のように捨てた。
あの笑顔を守り抜くためなら、俺は残りの人生のすべてを悪魔に売り渡したっていい。
暗闇に身を潜めながら、俺は改めて、ポケットの中に入っているダークグリーンのブックカバーの感触を確かめ、静かに決意を新たにした。
* * *
午後一時。
クラスの他のメンバーとシフトを交代し、俺と陽子はようやくお昼休憩の時間を迎えた。
「あーっ、疲れたぁ! でも、すごい大盛況だね! 受付のチケット、もう半分以上なくなっちゃったよ!」
「中村さん、声出しすぎだろ。メガホン持ってたって、喉潰すぞ」
「だって、お客さんが途切れないんだもん。嬉しい悲鳴ってやつだよ」
俺たちは事前に買っておいた『食券』(厚紙にスタンプが押された手作りのチケットだ)を握りしめ、中庭の模擬店エリアへと足を運んだ。
「高橋君、何食べる? 私、焼きそばとフランクフルトがいいな」
「じゃあ、焼きそば二つと、フランクフルト二本買ってくるよ。中村さんはそこのベンチで座って待ってて」
「えっ、でも私も一緒に並ぶよ」
「いいって。受付でずっと立ちっぱなしで、足疲れてるだろ。俺はずっと暗闇にいて体訛ってるからさ、ちょっと歩きたいんだよ」
俺が不器用に理由をつけて彼女の肩を軽くベンチへと押すと、陽子は「もう、またそうやって気を使うんだから……」と小さく膨れながらも、大人しく座ってくれた。
数分後。
透明のプラスチックパックに輪ゴムで留められたソース焼きそばと、ケチャップがたっぷりとかかったフランクフルトを手にして、俺は陽子の待つベンチへと戻った。
「はい、お待たせ」
「わあ、ありがとう! いただきまーす!」
秋の爽やかな風が吹き抜ける中庭で、二人並んで食べるチープな模擬店の味。
具材のキャベツは焦げていて、麺は少し伸びているけれど、五十三歳の舌にも、高級な料亭の料理よりずっと美味しく感じられた。
「……ねえ、高橋君」
割り箸で焼きそばを口に運びながら、陽子が不意にこちらを見た。
「ん?」
「お誕生日のやり直しのことなんだけど……。文化祭が終わったら、って言ってたじゃない?」
「あ、ああ。忘れるわけないだろ。来週の日曜、ちゃんと予定空けといてよ?」
「うん。……あのね、私、どこに行きたいか決めたの」
陽子が少しだけ上目遣いになり、期待と照れが混ざったような瞳で俺を見つめた。
「……どこに行きたいの?」
俺が聞き返した、まさにその瞬間だった。
「おおーい! お二人さん、いい雰囲気のところ失礼しまーす!!」
背後から、鼓膜を破るようなデカい声が響いた。
振り返ると、カメラを手にした佐藤が、ニヤニヤとだらしない笑みを浮かべて立っていた。
佐藤の手に握られているのは、前年に発売されたばかりで爆発的な大ヒットを記録している、富士フイルムの『〇ツンとルン』。いわゆる、使い捨ての『レンズ付きフィルム』だ。
現代のスマホカメラと違い、現像に出すまでどんな写真が撮れているかわからない。そして、限られた二十四枚、あるいは三十六枚のフィルムの中に、当時の若者たちは青春のすべてを焼き付けていた。
「おい佐藤、お前シフトはどうした。フランケンシュタインがサボってどうする」
「へへっ、今は休憩時間だよ! それより健一、陽子ちゃん! こっち向いて笑え! 実行委員の記念撮影だ!」
「ちょっ、ちょっと待って佐藤君! 私、今焼きそば食べてて口の周りが……!」
陽子が慌てて割り箸を置き、口元を手で隠そうとした瞬間。
バチッ!!
凄まじい光量のフラッシュが瞬き、俺と陽子の顔を白く染め上げた。
「あーっ! もう、佐藤君! 絶対変な顔で写ったよ今!」
目をぱちぱちとさせながら抗議する陽子を見て、佐藤はガハハと腹を抱えて笑った。
「いいんだよ、それが文化祭のリアルってやつだ! 現像上がってくるの楽しみにしてろよな! じゃあ、俺は次の獲物を探しに行ってくるぜ!」
嵐のように現れた佐藤は、そのまま風のように走り去っていった。
網膜に焼き付いたフラッシュの白い残像が消えていく中、俺は隣の陽子を見た。
「……びっくりしたな」
「うん……写真、どんなふうに撮れてるのかな。変な顔してたら、高橋君の実行委員の権力で佐藤君のネガごと没収してね」
陽子が冗談めかして笑う。
その笑顔を見つめながら、俺は内心で(佐藤、後でジュースでも奢ってやる)と密かに感謝していた。
スマートフォンなんてないこの時代において、不意打ちで撮られたあの使い捨てカメラの一枚は、俺と彼女がこの一九八七年の秋に『確かに一緒にいた』という、何よりの証拠になるのだから。
「それで。……やり直しの誕生日、どこに行きたいの?」
俺が先ほどの会話の続きを促すと、陽子はコホンと小さく咳払いをしてから、少しだけ恥ずかしそうに言った。
「あのね。……映画、観に行きたいな。今やってる、洋画のロードショー」
「映画か……わかった。チケット、俺が買っとく」
「本当!? やったぁ、楽しみにしてるね!」
焼きそばのプラスチックパックを丁寧に重ねながら笑う彼女の横顔を見つめながら、俺の心臓は高校生らしくバクバクと跳ね回っていた。
ただの映画じゃない。彼女の十七歳の誕生日をやり直す、俺にとっては人生を懸けたデートだ。絶対に、一周目では見せられなかった景色を彼女に見せてやる。
* * *
午後五時。
一般客が帰り、校門が閉じられると、いよいよ文化祭のフィナーレである『後夜祭』が始まった。
グラウンドの中央に組まれた巨大な井桁の木材。
生徒会長が松明の火を放つと、オレンジ色の炎がバチバチと爆ぜる音を立てて、秋の夜空に向かって勢いよく燃え上がった。
『さあ、みんな! 輪になって! 後夜祭恒例、フォークダンスの時間だーっ!!』
放送委員のテンションの高いアナウンスと共に、巨大なスピーカーから『マイム・マイム』の前奏が流れ出す。
炎を囲むようにして、学年を問わず何百人もの生徒たちが巨大な輪を作る。
男も女も関係なく、隣り合った生徒同士で手をつなぎ、炎に向かって駆け寄り、そして下がる。
制服の擦れる音、熱気に当てられた歓声、そして夜空に舞い上がる火の粉。
一周目の俺は、こういう『学校の全体行事』を斜に構えて見ていた。
フォークダンスなんてダサい、面倒くさいと佐藤たちと抜け出し、部室棟の裏で隠れてタバコを吸う真似事をして時間を潰していたのだ。
だが、今は違う。
俺の視線は、炎を囲む巨大な輪の中で、少し離れた場所にいる一人の女子生徒を必死に追っていた。
マイム・マイムが終わり、曲が『オクラホマミキサー』へと切り替わる。
男子が内側の円、女子が外側の円を作り、音楽に合わせて男女が次々とパートナーを交代しながら踊っていく、昭和の学校行事の代名詞とも言えるダンスだ。
右手を繋ぎ、左手を合わせ、ステップを踏んで、次の相手へ。
次々と目の前に現れるクラスメイトや見知らぬ女子生徒たちと、機械的にステップを合わせる。
(……あと五人。あと四人)
俺の鼓動は、オクラホマミキサーの軽快なリズムを無視して、早鐘のように打ち鳴らされていた。
女子の輪が一つずつズレていくたびに、あのポニーテールが、あの赤いハチマキが、俺の方へと近づいてくるのがわかる。
夏祭りの夜、人混みに紛れて手を握った時とは違う。
これは、学校という公の場で、音楽という魔法に乗せて、堂々と彼女の手を握ることができる数秒間。
(……あと一人)
そして。
音楽のフレーズが切り替わると同時に、目の前に、少しだけ息を弾ませた陽子がやってきた。
「あ……」
陽子が、俺の顔を見て小さく息を呑む。
炎のオレンジ色の光に照らされたその頬は、踊りの熱気のせいだけではなく、微かに朱色に染まっていた。
「……お疲れ、中村さん」
俺は、緊張で震えそうになる声を必死に誤魔化しながら声をかけた。
「う、うん。高橋君も……お化け屋敷、大成功だったね」
陽子が、少しだけ俯きがちに、右手を出してくる。
俺は、自分の手汗を制服のズボンで軽く拭ってから、彼女の小さな右手をそっと握った。
そして、左手を彼女の左手と重ね合わせる。
お互いの手のひらから伝わってくる、確かな熱と、少しだけ震える体温。
ステップを踏みながら、炎の周りを半周する。
繋いだ手から伝わる鼓動が、まるで俺自身の心臓に直結しているようにドクドクと響いている。
たった数十秒の、短い短い二人だけの時間。
「……高橋君」
ステップを踏みながら、陽子が顔を上げ、俺の目をまっすぐに見つめた。
周囲の喧騒も、流れている音楽も、すべてが遠くに退いていくような錯覚に陥る。
「来週の映画……すっごく、楽しみにしてるからね」
その言葉は、炎の爆ぜる音にかき消されそうなほど小さな声だった。
だが、俺の耳には、どんな大音量のスピーカーよりもはっきりと届いていた。
「……お、おう! 任せとけ。ちゃんと埋め合わせするからさ」
俺が顔を赤くしながら必死に頷き返した瞬間。
無情にも音楽のフレーズが終わり、パートナー交代のタイミングがやってきた。
繋いでいた手が、ゆっくりと離れていく。
指先から、彼女の熱がすり抜けていく感覚。
だが、その喪失感よりも、彼女が残していってくれた笑顔の余韻の方が、はるかに俺の胸を熱くしていた。
「……じゃあ、また来週ね!」
陽子は次の男子生徒の元へと移動しながら、俺に向かってひらりと手を振った。
「おう」
俺も少しだけぎこちなく手を振り返し、次のパートナーへと向き直る。
夜空には、炎から舞い上がった火の粉が、まるで小さな星くずのようにキラキラと吸い込まれて消えていく。
文化祭の終わりの寂しさと、来週の『誕生日のやり直し』という、心臓が爆発しそうなほどの期待。
一九八七年の秋。
十七歳の二人の時間は、少しの不器用さと、溢れるほどの甘酸っぱさを抱えながら、確かな熱を帯びて加速し始めていた。
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