第19話:絵看板の映画館と、ワインレッドの毛糸
第19話:絵看板の映画館と、ワインレッドの毛糸
一九八七年、十月下旬の最後の日曜日。
文化祭の熱狂から一週間が過ぎ、街の空気は一段と冷え込みを増して、本格的な秋の深まりを感じさせていた。
「よし……変じゃないな」
俺は自室の姿見の前で、自分の服装を何度も確認していた。
着ているのは、紺色のシンプルなスイングトップ(ブルゾン)に、色落ちの少ないジーンズ。
この時代、世間の若者たちは肩パッドの入ったDCブランドの服や、やたらとダボついたシルエットの服に夢中になっていたが、五十三歳の感性を持つ俺にはどうにもハードルが高すぎた。結局、一番無難で年相応(高校生相応)に見える、清潔感だけを重視した服装に落ち着いたのだ。
今日は、俺がうっかりスルーしてしまった『陽子の十七歳の誕生日』をやり直すための、約束の日。
高校生同士の、しかも休日に待ち合わせて映画を観に行くというイベント。これを『デート』と呼ばずして何と呼ぶのか。
(落ち着け。相手は十七歳の女の子だ。元・営業本部長の交渉術とエスコート力を見せてやる……)
鏡の中の自分にそう言い聞かせるものの、心臓は朝からずっと早鐘を打っている。
ポケットの中には、数日前に隣町のデパートまでわざわざ自転車を走らせて買ってきた、少し大きめの紙袋が入っていた。
* * *
午前十時、駅前の時計塔の下。
約束の十分前に到着した俺は、缶コーヒーで冷えた手を温めながら、改札口の方をそわそわと見つめていた。
スマートフォンで「今着いたよ」と連絡を取り合える未来とは違う。待ち合わせは常に一発勝負だ。相手の姿を探すこのじれったい時間すら、今の俺にはたまらなく愛おしい。
「……高橋君!」
人混みの中から、鈴の転がるような声が響いた。
小走りで駆け寄ってくる陽子の姿に、俺は危うく手に持っていた缶コーヒーを落としそうになった。
ベージュの柔らかいケーブル編みのニットに、秋らしいチェック柄のロングスカート。足元はこげ茶色のローファー。首元には少しだけ華奢なネックレスが光っている。
夏休みの私服姿とも、浴衣姿とも違う。秋の装いに身を包んだ彼女は、少しだけ大人びて見えて、そしてどうしようもなく可愛かった。
「おはよう。……ごめんね、待たせちゃった?」
息を弾ませながら上目遣いで尋ねてくる陽子に、俺は必死で顔の熱を誤魔化した。
「あ、いや。俺も今来たとこだから。……その、今日の服、すごく似合ってる」
スマートに褒めるつもりが、どうしても声が上ずってしまう。
陽子はパッと頬を赤くして、ニットの袖口を少しだけ引き伸ばしながら俯いた。
「……ありがとう。高橋君も、そういうジャケット、かっこいいと思う。なんか、いつもよりシュッとして見えるっていうか……」
お互いに照れ隠しで視線を泳がせる、不器用な数秒間。
(いかん、このままじゃ駅前で固まったまま日が暮れる)
「ええと、じゃあ行こうか。映画館、ここから歩いて十分くらいだし」
「うんっ!」
並んで歩き出すと、自然と二人の距離が近くなる。
手は繋いでいないが、歩幅を合わせて歩くたびに、お互いの肩が触れそうになる距離。冷たい秋風も、二人で歩いているこの空間だけは温かく感じられた。
辿り着いたのは、商店街の路地裏にある昔ながらの映画館だった。
現代のようなシネマコンプレックスではない。劇場の入り口の上には、職人がペンキで手描きした、巨大で少しだけ顔のバランスがデフォルメされた『絵看板』が掲げられている。
「わあ、すごい迫力だね。絵看板、昨日新しく描き直されたばっかりみたい」
陽子が看板を見上げて目を輝かせる。
今日観るのは、大ヒット中のハリウッド映画。戦闘機のパイロットたちの友情と恋愛を描いた、誰もが知る超大作だ。
ガラス張りの小さな窓口で紙のチケットを二枚買い、売店で瓶のコーラとポップコーンを買って、薄暗い劇場内へと足を踏み入れた。
床は少しだけベタつき、赤いビロード張りの座席は年季が入っている。館内には、古い埃とポップコーンのバターの匂いが混ざり合った、昭和の映画館特有の匂いが充満していた。
「ここ、真ん中で見やすいね」
指定席などない時代だ。俺たちはスクリーンの中央付近の席を見つけ、隣り合って腰を下ろした。
やがてブザーが鳴り、館内の照明がフッと落ちる。
スクリーンに映像が映し出され、腹の底に響くような大音量で映画が始まった。
だが。
俺の意識は、スクリーンの中の戦闘機よりも、すぐ右隣に座る陽子の存在に完全に支配されていた。
暗闇の中、すぐ横から伝わってくる彼女の体温。
ポップコーンを食べるために時折動く、小さな手のシルエット。
そして何より俺を狂わせそうになっていたのは、『座席間の肘掛け(アームレスト)』問題だった。
昔の映画館の座席は狭く、肘掛けは一つしかない。
俺が右腕を肘掛けに乗せていると、ポップコーンを取ろうとした陽子の左腕が、暗闇の中で何度も俺の腕に触れるのだ。
そのたびに、ビクッと電流が走ったように俺の肩が跳ねる。
(落ち着け。大人の男なら、ここはスマートに肘掛けを譲るべきだろ……!)
俺は内心で自分に言い聞かせ、不自然なほど腕を縮めて左側へと身を寄せる。
すると、それに気づいたらしい陽子が、暗闇の中でそっと俺の方へ顔を寄せ、耳元で囁いた。
「……高橋君、狭い? 私、もう少しこっちに寄ろうか?」
「えっ……あ、いや、全然狭くないから! 気にしないで!」
俺が慌てて小声で返すと、陽子は不思議そうに首を傾げた後、今度は意図的に、自分の左腕を俺の右腕にピタリと密着させてきた。
「……っ!」
「ふふっ。じゃあ、こうして半分こしようね」
スクリーンから放たれる青白い光に照らされた陽子の横顔は、悪戯っぽく笑っていた。
(……負けた)
五十代の理屈も余裕も、十七歳の女の子の無邪気な破壊力の前には完全に無力だ。
俺は心臓の爆音を映画の爆発音で誤魔化しながら、彼女の腕の温もりを全神経で感じ取っていた。映画の内容なんて、正直半分も頭に入ってこなかった。
* * *
二時間の映画が終わり、外に出ると、秋の空はすでに夕暮れのオレンジ色に染まり始めていた。
「あーっ、面白かった! 戦闘機のアクションもすごかったけど、やっぱり最後の再会のシーン、感動しちゃったな」
「そうだな。あの教官、最初からいいキャラしてたしな」
適当に相槌を打ちながら、俺たちは駅前にあるレトロな喫茶店へと入った。
カランコロンとドアベルが鳴り、コーヒーサイフォンがポコポコと音を立てる、薄暗くて落ち着いた空間。
窓際の向かい合った席に座り、クリームソーダとホットケーキを注文する。
向かいに座る陽子は、まだ映画の余韻に浸っているのか、楽しそうにパンフレットを眺めていた。
(……よし。渡すなら、今だ)
俺はテーブルの下で、膝の上に置いていた紙袋をギュッと握りしめた。
十七歳の誕生日プレゼント。
一周目の俺は、自分のことで精一杯で、彼女に何かを贈るという発想すら持てなかった。
これが、二周目の俺からの、初めての『まともな贈り物』になる。
「……あのさ、中村さん」
「ん? どうしたの?」
俺は深呼吸をして、少しだけ震える手で、その紙袋をテーブルの上にコトリと置いた。
「これ。……誕生日の、やり直し。遅くなって、本当にごめん」
陽子は目を丸くして、紙袋と俺の顔を交互に見つめた。
「えっ……! 映画だけじゃなかったの……?」
「俺の気が済まないからさ。たいしたものじゃないけど……開けてみてよ」
俺が不器用に目を逸らしながら促すと、陽子は「ありがとう」と小さな声で呟き、震える手で紙袋を開けた。
中から出てきたのは、透明なフィルムに包まれた、落ち着いたワインレッド色の毛糸のマフラーだった。
「わあ……! すごく綺麗な色……!」
「朝晩、だいぶ寒くなってきただろ。お化け屋敷の時も、図書室の帰りも、中村さん少し寒そうにしてたからさ。……これからの季節、学校の行き帰りに使ってくれたらなって思って」
俺がガシガシと首の後ろを掻きながら、言い訳みたいに早口で言うと。
陽子はマフラーを袋から取り出し、その柔らかい毛糸の手触りを確かめるように、両手でそっと頬にすり寄せた。
「……あったかい」
陽子の瞳に、薄っすらと涙の膜が張っているのが見えた。
「高橋君。私、こんなに嬉しいお誕生日、初めてだよ。……本当に、本当にありがとう」
「大げさだって。ただのマフラーだぞ」
俺が照れ隠しにホットコーヒーのカップに口をつけると、陽子は満面の笑みで、いきなりそのマフラーを自分の首にくるくると巻き始めた。
「ちょっ、中村さん!? 店の中、暖房効いてるだろ! 汗かくぞ!」
「いいの! 高橋君が選んでくれたんだから、今すぐ身につけたいの!」
ワインレッドのマフラーに顔の半分を埋めながら、嬉しそうに目を細める陽子。
その姿があまりにも可愛らしくて、そしてあまりにも愛おしくて。
俺はもう誤魔化すのも諦めて、ただ静かに、彼女の笑顔を見つめ返した。
(……来年も、再来年も。俺がお前を、絶対に温めてやるからな)
喫茶店の窓の外、秋の夕暮れが少しずつ夜の気配へと変わっていく。
十七歳の誕生日という、遅れてやってきた俺たちの記念日は、甘いクリームソーダの味と、ワインレッドの毛糸の温もりとともに、深く、深く心に刻まれていった。
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