第20話:黄色い現像袋と、マフラーのぬくもり
第20話:黄色い現像袋と、マフラーのぬくもり
一九八七年、十一月上旬。
文化祭の熱狂から二週間が過ぎ、街を吹き抜ける風には、はっきりと冬の冷たさが混じるようになっていた。
衣替えを完全に終えた校内では、男子は黒い学ランの第一ボタンまでをきっちりと留め、女子はセーラー服の上に指定の紺色のカーディガンを羽織る姿が当たり前になっている。
教室の隅には、まだ火は入れられていないものの、冬の到来を告げる焦げ茶色の巨大な石油ストーブが鎮座していた。吐く息はまだ白くならないまでも、朝方の教室の窓ガラスは外気との温度差でうっすらと結露し始めており、誰かが指で描いた相合い傘の落書きが白く浮かび上がっている。
「おおーい! お前ら、注目!!」
朝のホームルームが始まる十分前。黒板の前に立って英単語帳を開いていた俺の耳に、バンッと勢いよく前方のドアを開け放つ乱暴な音が飛び込んできた。
冷たい廊下の空気と一緒に教室へ転がり込んできたのは、いつもの佐藤だった。彼の手には、黄色と緑色が鮮やかにプリントされた見慣れた紙袋が、誇らしげに掲げられている。
街の写真屋、いわゆる『DPEショップ』の現像袋だ。
「秋桜祭の写真、昨日やっと現像上がってきたぜ! 焼き増ししたいやつは、この封筒の裏に自分の名前と写真の番号書けよな!」
その言葉を合図に、教室中の生徒たちが「マジで!?」「早く見せろ!」とワッと佐藤の机の周りに群がった。
スマートフォンで何百枚もの写真を撮り、その場ですぐにSNSで共有できる未来とは違う。この時代の写真は、使い捨てカメラの限られた二十四枚のフィルムの中に切り取られた『一発勝負の記録』だ。自分がどんな顔で写っているのか、好きなあの子がどんな表情をしているのか。それは数日間待って、写真屋から上がってきたこの分厚い束をめくるまで、誰にもわからない。
「うわっ、ちょっと待って! 私の顔、光飛びすぎてのっぺらぼうみたいになってる!」
「おい、これ後夜祭のキャンプファイヤーじゃん。すげえ綺麗に撮れてるな」
「お化け屋敷の中の暗闇でフラッシュ焚くなよ佐藤! ただの壁しか写ってねえじゃねえか!」
ワイワイと盛り上がる歓声の中、俺は自分の席に座ったまま、窓の外の落ち葉を眺めていた。
五十三歳の精神を持つ俺にとって、今さら自分の若かりし頃の写真に一喜一憂するようなテンションはない。画面をスワイプするのではなく、指紋がつかないように艶やかな印画紙の端をつまみ、手から手へと回していくアナログな文化祭の余韻。それを「懐かしいな」と遠巻きに眺めているだけだった。
ただ、陽子が可愛く写っている写真があれば、後で佐藤に頼んでこっそり一枚焼き増ししてもらおう、というくらいの冷静な打算は巡らせていた。
だが、その大人の余裕ぶった冷静さは、次の瞬間に木端微塵に打ち砕かれることになる。
「おいおいおい! みんな見ろよこれ、大スクープだぜ!!」
佐藤が、束の中から一枚の写真を高く掲げて、ニヤニヤとひどく意地悪な笑いを浮かべた。
「なんだなんだ?」と群がっていたクラスメイトたちの視線が一斉にその写真に集まり、数秒の静寂の後。
「うおおおおっ!?」
「ええーっ!?」
今日一番の、いや、二学期が始まって以来最大のどよめきが教室を揺るがした。
「おい健一、お前いつの間にこんなことになってたんだよ!」
「ヒューヒュー! なになに、完全に夫婦じゃんこれ!」
「ちょっと中村さん、顔真っ赤だよ!」
クラス中の三十数人の視線が、一斉に俺と、少し離れた席に座っていた陽子に突き刺さる。
「な、なんだよ……」
俺が訝しげに立ち上がって佐藤の机を覗き込むと、そこには、文化祭の昼休憩に中庭のベンチで撮られたあの一枚が、くっきりと色鮮やかに現像されていた。
(……うわっ)
俺は思わず息を呑んだ。
フラッシュの強い光に照らされた、色褪せない昭和のカラー写真の中。
俺は焼きそばのプラスチックパックを左手に持ちながら、驚いて顔を背けようとする陽子の肩を庇うように、自分の右腕を彼女の背中側に大きく、そして力強く回していた。
そして陽子の方も、突然のフラッシュに驚き、無意識のうちに俺の胸元へと身を寄せるような姿勢になっている。
背景が少し暗く沈んでいるせいもあって、まるでスポットライトを浴びたような二人の姿は、どう言い逃れをしようにも『周囲の目を盗んで身を寄せ合う恋人同士』にしか見えなかった。
五十三歳のオヤジの目から客観的に見ても、これは完全にアウトな構図だ。保護欲が前に出過ぎた結果、ただの同級生に対する距離感を完全にバグらせてしまっている。
「お、おい! これは違う! 佐藤がいきなりフラッシュ焚いたから、驚いて庇っただけだ!」
俺は激しく動揺し、見事に裏返った声で必死に否定した。
元・営業本部長としてのスマートな切り返しなどどこへやら。顔を真っ赤にしてテンパりまくる、ただの十六歳の少年の無様すぎる反応だった。
「いやいや、驚いただけでそんな自然に肩抱くか普通?」
「二人で実行委員やってた時から怪しいと思ってたんだよなー!」
「結婚式の招待状、いつくれるのー?」
遠慮のないからかいの言葉が、四方八方から容赦なく飛んでくる。
チラリと陽子の方を見ると、彼女は両手で顔を覆い、耳の先までゆでダコのように真っ赤にして机に突っ伏していた。その背中が、恥ずかしさで小刻みに震えているのがわかる。
(やばい、中村さんが泣きそうだ……!)
「う、うるさい! お前ら、人の昼飯邪魔した挙句に変な写真撮りやがって! 佐藤、それ没収だ!」
俺は顔から火が出そうなほど熱くなるのを感じながら、人をかき分けて佐藤の机に突進し、その手から例の写真を強引にひったくった。
「あーっ! 証拠隠滅だ! 実行委員の権力乱用反対!」
佐藤がゲラゲラと笑い声を上げる中、ガラッと教室の前扉が開き、出席簿を持った担任教師が入ってきた。
「ほら、お前ら席につけ! ホームルーム始めるぞ!」
教師の一声で、騒ぎは強制的に終了させられた。
俺は奪い取った写真を学ランのポケットに突っ込み、激しく波打つ心臓を必死に落ち着かせようと深呼吸を繰り返した。
(参ったな……あんな大勢の前で冷やかされたら、中村さんも気まずくなるに決まってる)
せっかく映画館での『誕生日のやり直し』で良い雰囲気になり、彼女の喜ぶ顔を見られたというのに。周りからの冷やかしで彼女が傷ついたり、俺と距離を置こうとしたりしてしまったら元も子もない。
俺は授業中、ずっとそのことばかりを気にして、黒板の数学の数式など一つも頭に入ってこなかった。
* * *
放課後。
すっかり日の短くなった十一月の夕暮れ時。
冷え込みは朝よりも一段と厳しくなり、木枯らしが落ち葉をカラカラと音を立ててアスファルトの上を転がしていく。
俺と陽子は、いつもと同じように並んで駅へと向かう道を歩いていた。
俺の左手には、自分の学生鞄と彼女のキャンバス地のトートバッグ。
そして陽子の首元には、俺が誕生日に贈った『ワインレッドの毛糸のマフラー』が、ぐるぐるとしっかりと巻かれていた。
冷たい秋の風が吹く中、紺色のセーラー服に鮮やかなワインレッドがよく映えている。
彼女が自分で結んだのだろう、少し不格好な結び目から半分だけ顔を覗かせているその姿がたまらなく可愛くて、俺は歩きながら何度もチラチラと横目で盗み見てしまっていた。
だが、二人の間に流れる空気は、いつもよりずっと無口で、どこかぎこちなかった。
駅前通りのアーケードに入るまで、互いの足音と、遠くで鳴る踏切の音だけが響いている。
(……よし、俺から言うしかない)
五十三歳の男として、変な空気のまま彼女を帰すわけにはいかない。
「……あのさ、中村さん」
アーケードの街灯の下を通り過ぎる瞬間、俺がポツリと口を開いた。
「ん?」
マフラーに顔を半分埋めたまま、陽子が上目遣いでこちらを見る。
吐く息が、街灯の光に反射して微かに白く濁っていた。
「朝のこと、ごめんな。佐藤のやつらが変に冷やかしたりして。……嫌な思い、しただろ」
俺が少しだけ声を落として、できるだけ誠実に謝る。
彼女の足の負担を減らすために鞄を持ち、図書室で一緒に勉強し、映画館で誕生日を祝い直した。そのすべての行動は、純粋に彼女を喜ばせたい、守りたいという俺の身勝手な想いからきている。だが、その結果として彼女に『クラスの噂の的』という負担を強いてしまっているのだとしたら、それは本末転倒だ。
俺の不器用な謝罪を聞いて、陽子は歩みを止めず、前を向いたまま小さく首を横に振った。
「ううん。……びっくりはしたけど、嫌な思いなんて、してないよ」
その声はマフラー越しにくぐもっていたが、確かな感情がこもっていた。
陽子は立ち止まり、俺の方を向くと、セーラー服のポケットから一枚の四角い紙切れを取り出した。
「これ。……さっき、佐藤君にお願いして、こっそりもらっちゃった」
陽子の手のひらに乗っていたのは、朝、俺が佐藤から奪い取ったはずの『例の写真』だった。どうやら、俺が奪う前に焼き増し用の束から抜き取っていたものか、あるいは佐藤が気を利かせて裏でもう一枚渡していたらしい。
「あっ、それ……」
俺が言葉を失っていると、陽子は、ツヤツヤとした印画紙の表面を指先でそっと撫でながら、少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。
「この写真の私たち……すごく、仲良しに見えるね」
夕日に照らされた彼女の瞳は、朝のパニックのような動揺ではなく、とても柔らかく、そしてほんの少しの切なさを帯びた光を放っていた。
写真の中で、不器用に彼女の肩を庇う俺。
驚きながらも、どこか安心しきったように俺の胸元に身を委ねている陽子。
客観的に切り取られたその一枚は、俺たちがこの数ヶ月間で積み上げてきた『距離』の答え合わせのようでもあった。
「……ああ」
俺は、学ランのポケットの中で拳をぎゅっと握りしめ、自分の中の五十三歳の理性を総動員して、湧き上がる強烈な感情を押し殺した。
ここで気の利いた大人びた台詞を吐くのは間違っている。今の俺は、彼女と同じ時代を生きる、ただの不器用な高校生でなくてはならない。
「……すごく、いい写真だと思う。俺も、大切にするよ」
俺が真っ直ぐにそう伝えると、陽子はマフラーに口元を隠したまま、嬉しそうに目を細めた。
マフラーのワインレッドの毛糸に、彼女の頬の朱色が溶け込んでいくように見えた。
「ふふっ。高橋君、なんだか顔が赤いよ? 夕日のせい?」
「う、うるさいな。風が冷たいからだろ」
「そういうことにしておくね」
冷たい木枯らしが吹き抜ける中、俺たちは再び歩き出した。
スマートフォンもSNSも、加工アプリもない時代。
たった一枚の、ピントが少し甘くてフラッシュの光が強すぎる不格好な写真が、二人の間に確かな『特別』を焼き付けていた。
駅の改札前で、「じゃあ、また明日ね」と手を振る彼女の姿を見送る。
ワインレッドのマフラーが揺れるたびに、俺の心臓は高校生らしく高鳴り続けていた。
冬の足音はもうすぐそこまで近づいていたが、彼女の笑顔を思い出すだけで、俺の心はどんなストーブよりも温かく、芯から熱く満たされていた。
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