第21話:わら半紙の進路調査と、重たい荷物の約束
第21話:わら半紙の進路調査と、重たい荷物の約束
一九八七年、十一月下旬。
期末テストを二週間後に控えたこの時期、俺と陽子の放課後の定位置は、再び市立図書館の学習室へと戻っていた。
外の空気はすっかり冬の匂いに変わり、日が落ちるのもすこぶる早い。
図書館の暖房はすでに稼働しており、窓ガラスは外気との温度差で白く曇っている。静まり返った室内には、シャープペンシルが紙を擦るカリカリという音と、時折誰かがページをめくる音だけが、心地よいリズムで響いていた。
俺は自分の机の上に広げた、一枚の『わら半紙』を前にして、ひどく頭を悩ませていた。
ガリ版刷りで作られた『第二回 進路希望調査』のプリント。高校二年の二学期といえば、卒業後の進路を『文系・理系』の選択から、具体的な志望校や学部へと絞り込んでいかなければならない時期だ。
(……さて、どうするか)
俺はシャープペンシルを指先で回しながら、五十三歳の脳髄をフル回転させて『未来の歴史』を逆算していた。
現在、一九八七年。日本経済は狂乱の『バブル景気』へと突入していく真っ只中にある。
俺が順当に四年制大学に進学したとして、卒業するのは五年後の一九九三年(平成五年)。――それはまさに、バブルが弾け飛び、企業がこぞって採用を絞り始める『就職氷河期』の入り口だ。
一周目の俺は、そんな時代の波など微塵も読めず、周囲に流されるままに三流大学の経済学部へ進み、氷河期の煽りをモロに受けて就職活動で地獄を見た。
(銀行や証券会社などの金融系、それに不動産業界は絶対に避けなければならない)
未来を知る俺の脳裏には、数年後に倒産していくことになる大手証券会社や銀行の名前が、はっきりと刻み込まれている。バブルの徒花として散っていく業界に足を踏み入れるのは自殺行為だ。
では、その後にやってくる『失われた三十年』と呼ばれる長い長い不況の時代において、堅実に生き残り、俺に十分な稼ぎをもたらしてくれる業界はどこか。
(……IT、いや、この時代で言うところの『情報通信』か、あるいは絶対に潰れない『インフラ系』の堅実なメーカーだな)
一九九〇年代後半から、世界はインターネットの爆発的な普及によって劇的に変わる。五十代になってからの俺は、システムの知識がないせいで部下のマネジメントにどれほど苦労したか知れない。
彼女を――中村陽子を、一生不自由なく守り抜くための『最強の盾(経済力)』を手に入れるには、大学選びから戦略的に動かなければならない。
俺は決意を固め、文系理系の枠にとらわれず、将来のインターネット社会やインフラ事業に直結する『国立大学の情報工学部』あるいは『堅実な大手通信企業への就職に強い学部』を第一志望の欄に力強く書き込んだ。
偏差値は今の俺の成績よりかなり高いが、五十三歳の論理的思考と、残された一年半の時間をすべて勉強に注ぎ込めば、絶対に手が届くはずだ。
「……ふぅ」
自分の人生の再設計図を書き終え、小さく息を吐いた俺は、ふと、斜め向かいに座る陽子の様子を盗み見た。
彼女の首元には、図書館の中であっても、俺が誕生日に贈ったワインレッドのマフラーがふんわりと巻かれている。暖房が効いているから外してもいいはずなのだが、彼女は「落ち着くから」と言って、いつも大事そうに身につけてくれていた。
(……それにしても、今日は全然進んでないな)
陽子の手元に視線を落とすと、彼女は期末テストの範囲である日本史の教科書を開きっぱなしにしたまま、俺と同じ『進路希望調査』のプリントを、さっきからずっと見つめていた。
ペンの裏側でコツコツと唇を叩きながら、思い悩んだように眉をひそめている。
俺は少し身を乗り出し、小声で話しかけた。
「……中村さん。進路調査、まだ迷ってるの?」
俺の声にビクッと肩を揺らした陽子は、「あ、ううん」と慌てて首を振った。
そして、少し恥ずかしそうに自分のプリントの『第一希望』の欄を、俺の方へと傾けて見せてくれた。
そこには、丸みを帯びた丁寧な字で、こう書かれていた。
『県立保育短期大学(保母志望)』
(……保母さん、か)
この時代、まだ『保育士』という名称は一般的ではなく、女性の保育職は『保母さん』と呼ばれていた。
「やっぱり、保母さん一択なんだな。夢、変わってないじゃん」
俺が小さく笑って言うと、陽子はプリントを見つめたまま、小さく「うん」と頷いた。
「すごいよ。中村さんなら、絶対にいい保母さんになれると思う。子供とか、めっちゃ懐きそうだしさ」
俺が素直な感想を伝えると、陽子はパッと顔を明るくしかけたが。
すぐにまた、自信なさげに眉を下げて、マフラーの端を指でいじり始めた。
「……なれるかな。本当は、ずっと前から保母さんになるのが夢だったんだけど」
「ブレてないのに、何か迷ってることでもあるの?」
陽子はしばらく黙り込み、やがて、机の下にある自分の右足の足首あたりを、そっと手で撫でた。
「……私、中学の時に足の骨、折っちゃったでしょ。陸上もそれで辞めざるを得なくて」
「……うん」
「保母さんって、子供を抱っこしたり、おんぶして走り回ったり、すごく体力を使う仕事じゃない?……もし、足の古傷が痛んで、子供に怪我させちゃったらどうしようとか、そもそも私なんかに、そんな重労働が務まるのかなって……最近、ずっと考えちゃってて」
伏せられた長いまつ毛の奥で、不安に揺れる瞳。
彼女は、かつて陸上の夢を絶たれた時の『自分の体に対する不信感』を、未だに心の奥底に抱え続けていたのだ。
ドクン、と。
俺の胸の奥で、何かが熱く疼いた。
一周目の人生で、俺は彼女のこんな不安を、一度でも聞いてやったことがあっただろうか。
彼女が保母になるという夢を叶えるために、どれほどの不安と戦い、自分の古傷と向き合ってきたのか。俺はそんな大切なことすら知ろうともせず、ただ隣で笑っている彼女に甘えきっていたのだ。
(……ふざけんな。お前が無理なら、他の誰が夢を叶えるっていうんだ)
五十三歳のオヤジの魂が、猛烈な勢いで吠え立てる。
『お前は絶対に世界一の保母さんになれる。重労働だろうがなんだろうが、さっき書いた俺の人生設計ですべてをカバーして、一生お前を養って、すべての重荷から守り抜いてやる!』――そんな、大人としての強烈で、重すぎる本音が喉の奥まで込み上げてきた。
だが、ここでそんな保護者みたいな気障な台詞を吐けば、彼女は絶対に引く。俺はあくまで、彼女と同じ目線に立つ十七歳の同級生でなくてはならないのだ。
俺は机の下でギュッと拳を握りしめ、頭の中のオヤジの理屈を必死に高校生の言葉に翻訳しようと試みた。
「あのさ、中村さん」
「ん……?」
「……足の怪我のこと気にして夢を諦めるなんて、もったいないよ。体力仕事なんて、なんとでもなるっていうか……」
「でも、子供抱っこしたり、重い荷物運んだり……」
「だったら、俺が運ぶよ」
考えるより先に、口が勝手に動いていた。
「えっ……?」
陽子が目を丸くして、俺の顔を見る。
言ってしまってから、俺は自分の顔が一気に沸騰するのを感じた。
(やばい! なに言ってんだ俺は! 意味わかんないだろ!)
「あ、いや! 今のはその……!」
俺は真っ赤になった顔を隠すように、ガシガシと頭を掻きむしりながら、しどろもどろに言葉を繋いだ。
「ほら、俺、夏休みからずっと中村さんのカバン持ってるじゃん! 別に苦でもなんでもないっていうか、むしろ筋トレになってちょうどいいくらいだし! だから、その……もし保母さんになって、重い荷物とかで困った時は……俺に持たせりゃいいじゃん! ずっと持ってるんだから、慣れてるし……!」
必死に言い訳を重ねれば重ねるほど、ただの『便利な荷物持ち宣言』みたいになっていく。
(ああもう、違う! 俺が言いたかったのはこんなダサいことじゃなくて……!)
スマートな励ましとは程遠い、穴があったら入りたいほどの不格好さだ。
だが。
そんな俺の無様なテンパり具合を見て、陽子はぽかんとしていた目をゆっくりと細め。
堪えきれないように、小さな声で「ふふっ」と吹き出した。
「……なにそれ。高橋君、大人になってもずっと私の荷物持ちしてくれるの? 業者さんみたい」
「う、うるさいな! ただの例え話だって言ってるだろ!」
陽子は、くすくすと笑いながら、目尻に滲んだわずかな涙を指先でそっと拭った。
その表情からは、さっきまでの重苦しい不安や迷いが、嘘のように晴れ渡っているのがわかった。
「……ありがとう、高橋君」
陽子は、俺の目をまっすぐに見つめ返し、ワインレッドのマフラー越しに、とても優しく、そして嬉しそうに微笑んだ。
「高橋君が業者さんになって手伝ってくれるなら、なんだか、本当に何でもできそうな気がしてきた」
「……だから、業者じゃないっての。でも、まあ……そういうことだから。諦めるとか、言うなよ」
俺が不器用に目を逸らしながら言うと、陽子はもう一度「うんっ」と力強く頷き、手に持っていたシャープペンシルを握り直した。
カリカリ、という心地よい音が再び響き始める。
陽子は、わら半紙の『第一希望』の欄を黒く塗りつぶしたり消したりすることなく、その横の『理由』の欄に、迷いのない筆圧で文字を書き込み始めた。
窓の外では、完全に日が落ちて、冷たい冬の夜が街を包み込もうとしていた。
だが、図書館の学習室の片隅、向かい合って座る二人の間には、どんなに強い木枯らしにも消されることのない、確かな熱が宿っていた。
(……言っちまったもんは仕方ない)
俺は自分のノートに視線を落しながら、真っ赤になった顔の熱を冷ますように、内心で静かに腹を括った。
彼女の重い荷物は、俺が全部持つ。
就職氷河期だろうが、失われた三十年だろうが、俺が選んだ道で生き抜き、彼女の心にのしかかる不安もすべて請け負ってみせる。
それは五十代のオヤジの果てしない保護欲であり、不格好にしか言葉を紡げない、十七歳の少年の初恋の意地だった。
あと少しで、一九八七年が終わる。
冬休みを前にして、俺たちの関係は、また一つ、目には見えない確かな繋がりを深めていた。
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