第22話:粉雪のプラットフォームと、ほどけない右手
第22話:粉雪のプラットフォームと、ほどけない右手
一九八七年、十二月二十四日。
世間がクリスマスイブの浮かれたムードに包まれる中、二年B組の教室は、明日から始まる冬休み前の冷たい静けさに包まれていた。
「おい健一、冬休み中も図書館通いってマジか? お前、もう少し青春しろよな! せっかくのクリスマスだぞ!」
放課後、帰支度をしながら佐藤がやれやれといった顔で肩をすくめる。
「うるさい。来年の一月には大学受験に向けた模試もあるんだよ。お前も少しは勉強しろ」
「へへっ、俺は冬休みはスキーにバイトに大忙しなの! じゃあな、良いクリスマスを、そして良いお年を――っと!」
佐藤はニヤニヤと悪戯っぽく笑いながら、仲間たちと一緒に賑やかに教室を飛び出していった。
ガタッと扉が閉まり、教室には静けさが戻る。
俺は自分の学生鞄に数学の参考書を詰め込みながら、ふと、自分のコートのポケットに手を突っ込んだ。
(……しまった。手袋、忘れたな)
今朝、家を出る時に母さんが「寒くなるから持って行きなさい」と用意してくれていたはずの手袋を、玄関の下駄箱の上に置きっぱなしにしてきてしまったらしい。
まあ、男が一つくらい手袋を忘れたところで大した寒さではない、と軽く考えていた。この時の俺は、その小さなうっかりが、後ほどとんでもない『照れくさい口実』になるとは夢にも思っていなかったのだ。
「お待たせ、高橋君。お腹、すいちゃったね」
席に戻ってきた陽子が、自分のキャンバス地のトートバッグを肩にかけながら、柔らかく微笑んだ。
彼女の首元には、もちろん俺が贈ったワインレッドのマフラーがしっかりと巻かれている。
「ああ、待たせたな。じゃあ、今日もいつも通り図書館に行こうか」
「うん!」
二人は並んで学校をあとにし、夕暮れ時の街を駅へと歩き始めた。
空はどんよりとした鉛色に染まり、時折、冷たい風に乗って非常に細かい白いものがチラチラと舞い始めていた。
「あ、雪……かも」
陽子が空を見上げて、嬉しそうに目を細める。
ホワイトクリスマス。この時代のロマンチックな響きが、高校生たちの心をくすぐるには十分すぎる演出だった。
駅のプラットフォームに到着した頃には、風の冷たさは一段と増していた。
「うぅ、寒い……」
陽子が小さく身を震わせ、セーラー服の袖口をキュッと引いて手を温めようとする。
俺は自分のポケットに手を入れた瞬間、すっかり忘れていた『手袋の不在』を思い出した。
(やばい、指先が凍えそうだ……)
寒さに耐えながら、俺は自分のコートの両ポケットに両手を深く突っ込み、身を縮こまらせて電車の到着を待っていた。
すると、少し小柄な陽子が、何やらもじもじとした様子で俺の横にピタリと寄り添ってきた。
「……高橋君」
「ん?」
俺が振り返ると、陽子は少しだけ頬を赤らめ、自分のワインレッドのマフラーに顔の半分を埋めながら、恥ずかしそうに目を伏せた。
「あのさ……手袋、忘れたの?」
「ん、あー……まあ、家に置いてきちゃってさ。平気平気、男はこれくらい……」
強がって見せたものの、かじかんだ指先はすでに感覚が怪しくなり始めていた。
すると陽子は、少しだけ決心したような顔をして、自分のコートのポケットから右手をスッと抜いた。
そして――身長差がある分、少しだけ背伸びをするようにして、俺が自分のコートの右ポケットに突っ込んでいた腕の袖口のあたりへと、そっと手を伸ばしてきた。
「え……?」
俺が驚いて目を丸くすると、陽子は真っ赤な顔のまま、上目遣いで小さな声で言った。
「もしよかったら……その、ポケット……一緒に入れても、いい……?」
――っ!?
思わぬ言葉に、五十三歳のオヤジの脳髄が盛大にショートした。
背の低い彼女が、俺のコートのポケットに自分の小さな手を差し入れようとしてくれている。
(いや、俺のコートだぞ? 身長差的に、俺が少し屈まないと無理じゃないか……!)
慌てて体勢を整えようとしたが、それよりも先に、陽子は冷たくなった指先を俺のコートの右ポケットの隙間へとすべり込ませ、俺の右手の指先にそっと自分の指を絡めてきた。
彼女の指先は驚くほど冷たかったが、ポケットという狭い空間の中で密着した途端、お互いの体温がじわりと伝わってくる。
少し背の低い彼女に合わせて、俺がほんの少しだけ体を傾けると、彼女の頭がちょうど俺の肩のあたりにこつんと寄りかかるような絶妙な距離になった。
「……これなら、寒くないでしょ」
陽子は顔を背けながら、消え入りそうな声でそう呟いた。
だが、ポケットの中で繋がれた彼女の手のひらは、ブルブルと小さく震えながらも、驚くほどしっかりと俺の指を握りしめて離さなかった。
心臓の音が、プラットフォームを吹き抜ける風の音よりも激しく頭の中で響き渡る。
(……反則だろ、こんなの)
大人の余裕も、冷静な理性も、十七歳のこの圧倒的な破壊力の前にすべて木端微塵に吹き飛んでしまった。
今の俺は、ただの、片思いの女の子とポケットの中で初めて手を繋いだ不器用な少年だった。
「……だな。すごく、あったかい」
掠れた声でそう返すのが精一杯だった。
陽子はそれを聞いて、マフラーの奥でふっと、これ以上ないほど嬉しそうに微笑んだ。
ゴウン、ゴウンと、鈍い音を立てて電車がプラットフォームに滑り込んでくる。
ドアが開き、暖かい車内の空気がふわりと流れ込んできた。
電車に乗り込み、横並びの座席に腰を下ろす。
さすがに車内ではポケットから手を外し、俺は自分のコートのポケットから出した右手を、そっと隣に座る陽子の手に重ね合わせた。今度は、冷えないようにしっかりと包み込むようにして。
陽子は恥ずかしそうに目を伏せたが、その手を振り払うことはせず、指先をキュッと握り返してきた。
車内は、クリスマスイブということもあっていつもより少しだけ賑やかだった。
吊り広告には、バブル景気の勢いを象徴するようなスキー旅行のポスターや、新時代の幕開けを予感させる真新しい家電の広告が並んでいる。
電車がガタゴトと心地よいリズムを刻みながら、夜の街を走り抜けていく。
(……一九八七年も、もうすぐ終わる)
振り返れば、この一年は目まぐるしく過ぎ去っていった。
一周目の人生で散々な結末を迎えた彼女と、こうして再び同じ時間を生き、少しずつ、けれど確かな絆を積み上げてきた。
だが、知っている。このきらびやかな時代のすぐ先には、誰もが予想しなかったバブルの崩壊が待ち受けており、やがてやってくる就職氷河期という荒波が、若者たちの未来を容赦なく揺さぶることを。
社会の仕組みがどれほど変わろうとも。
世の中がどれほど不透明な未来に向かっていこうとも。
俺は隣で静かに揺れる彼女の横顔を見つめながら、繋いだ手にぐっと力を込めた。
彼女が保母という夢に向かって歩む道のりも、俺が未来の荒波を生き抜いて築く経済的な基盤も、すべてはこの繋いだ手の先にある。
窓の外では、夜の闇に紛れて、粉雪がしんしんと降り続いていた。
時代の大きな節目を迎えようとしている昭和の終わり。
十七歳の冬の温もりは、静かに、そして力強く、二人の未来を照らし出すようにいつまでもほどけなかった。
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