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53歳の初恋リフレイン  作者: げりっぱ
高校生編

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第23話 新年の初詣と、一総決算の始まり

第23話 新年の初詣と、一総決算の始まり


一九八八年、一月一日。元旦。

キンと冷え切った冬晴れの空の下、俺と陽子は地元の古い神社へと続く長い石段を並んで登っていた。


吐き出す息は、驚くほど輪郭を帯びて真っ白に浮かび上がり、すぐに冬の乾いた空気の中へと溶けて消えていく。昨夜遅くにうっすらと降ったらしい細かな雪が、鳥居の脇や石灯籠の笠の上にうっすらと積もり、初日の出の柔らかな光を反射して、まるで砕いたダイヤモンドのように細かく煌めいていた。

元旦特有の、どこかピリッとした神聖な緊張感。それに混じって、神社の境内の奥から漂ってくるお神酒のアルコール臭や、屋台が煮立たせている甘酒の甘ったるい匂い、そして古びた木材と線香が混ざり合ったような独特の香りが、凍てつく鼻腔を容赦なくくすぐってくる。


「あけましておめでとう、高橋君」


陽子は真新しいネイビーのウールのコートのポケットに両手を深く突っ込み、少しだけ息を白く弾ませながら俺の顔を見上げた。

その首元には、去年のクリスマス――あの雪の降るプラットフォームの帰り道に俺が贈った、ワインレッドのマフラーがふんわりと巻かれている。彼女が一歩石段を登るたびに、上質なウールの毛羽立ちが冬の陽射しに揺れ、冷たい風から彼女の細い首をしっかりと守ってくれていた。


「ああ、あけましておめでとう、中村さん。今年もよろしくな」

「うんっ! 今年も、二人でいっぱい頑張ろうね」


彼女の屈託のない、弾けるような笑顔を見ていると、胸の奥がキュッと締め付けられるような、温かくて甘い痛みが走る。

周囲を見渡せば、新年のお参りに訪れた晴れ着姿の家族連れや、少し背伸びをして毛皮のストールを羽織った若い女性たち、そして、見覚えのある地元の高校の同級生たちの賑やかな話し声があちこちから聞こえてくる。


一九八七年という、俺にとってあまりにも激動だった一年が、音を立てて過ぎ去った。

五十三歳で孤独な死の淵にあったはずの俺が、なぜか十七歳のあの日にタイムリープし、一周目の人生で最低な別れ方をしてしまった彼女と、もう一度同じ時間を生き直すことになった。

手探りで、不器用で、五十代のオヤジの理性を総動員しながらも、結局は十七歳の感情に振り回され続けた日々。

だが、その甲斐あって、俺たちは一周目には存在しなかった『確かな絆』を少しずつ、しかし確実に築き上げてきた。クリスマスにポケットの中で手を繋いだあの温もりは、今も右手のひらに幻のように残っている。


そして、新しい年――一九八八年(昭和六十三年)が幕を開けた。

俺たちにとってこの年は、高校生活の総決算であり、人生の岐路となる『受験の年』そのものだった。


長い石段をやっとの思いで登りきると、境内は想像以上の人だかりだった。

「うわぁ、すごい人だね。はぐれないようにしなきゃ」

陽子が少し不安そうに周囲を見回し、自然な動作で俺のコートの袖口をキュッとつまんだ。そのささやかな信頼の証が、いちいち五十代の心臓に悪い。


「そうだな。まずは手水舎(ちょうずや)に行こうか。こっちだ」

俺は袖をつかむ彼女を庇うようにして人混みを掻き分け、手水舎へと向かった。


木造の古びた手水舎の屋根からは、つららが何本も垂れ下がっていた。

柄杓を取り、凍てつく冷たい水をすくって悴んだ指先を清める。凛とした水が肌を刺すような、いや、骨まで凍りつくような冷たさだったが、隣で同じように懸命に手を清めている陽子の横顔を見ていると、不思議と胸の奥がじんわりと温かくなっていく。

彼女は冷たさに「ひゃっ」と小さく声を上げながらも、丁寧に作法通りに手と口を清め、ハンカチでしっかりと水気を拭き取っていた。


やがて、人波に揉まれながらも、俺たちはようやく本殿の前に立った。

賽銭箱に硬貨を投げ入れ、大きな鈴の緒を揺らして、ガランガランと鈍い音を響かせる。

二礼・二拍手・一礼。

隣に並んだ陽子は、すっと目を閉じ、両手を合わせると、微動だにせず熱心に何かを祈り続けていた。その横顔は真剣そのもので、長いまつ毛が時折、冷たい風に小さく揺れている。

おそらく、来年に控えた短大受験の合格と、彼女が幼い頃からずっと憧れ続けてきた「保母さん」への第一歩を、神様に真剣に祈願しているのだろう。


俺も同じように二度深く頭を下げ、パンパンと力強く手を打ったあと、心の中で深く息を吸い込んだ。

頭の中では、五十代のオヤジの現実的かつ冷徹な思考回路が、一瞬にしてフル回転を始める。


(……一九八八年。世間は空前のバブル景気の真っただ中だ)


目を閉じても、テレビや新聞が連日報じる狂騒が脳裏に浮かぶ。

株価は連日最高値を更新し、都心の地価は狂ったように跳ね上がり、街には外車やDCブランドの服があふれている。大人たちは誰もが『日本は永遠に経済成長し続ける』『土地の値段は絶対に下がらない』と信じて疑わず、札束でタクシーを止めるような異常な浮かれっぷりを見せている。

今日この神社にいる大人たちの顔にも、どこか余裕というか、根拠のない万能感のようなものが漂っているように見えた。


だが、未来を知る俺には痛いほど分かっている。

この空前の好景気は、実体を伴わない壮大なバブル――砂上の楼閣に過ぎないということを。

やがて来る平成の初頭には、このきらびやかな神殿のような経済の仕組みも、音を立てて無惨に崩壊する。

そして、そのあとに待ち受けているのは、企業が一切の新卒採用を行わなくなる、地獄のような『就職氷河期』だ。

大企業が次々と倒産し、証券会社が自主廃業に追い込まれ、銀行ですら統廃合を余儀なくされる。新卒カードを失った若者たちはフリーターとして低賃金で使い潰され、「失われた三十年」という長く暗いトンネルを彷徨うことになるのだ。


自分が大学を卒業し、社会の荒波に放り出される頃には、どれほど過酷な現実が待ち受けていることか。

一周目の人生では、俺もそのあおりをモロに受け、必死に会社にしがみついて泥水をすするような営業マン生活を送った。そのストレスと余裕のなさが、結果的に陽子とのすれ違いを生み、最悪の別れへと直結してしまったのだ。


――だからこそ、この十八歳という時間をどう生き抜くかがすべての分かれ道になる。


陽子の夢を経済的・精神的に支え切ること。彼女が「保母」という薄給で激務の仕事に就いたとしても、生活の不安を感じさせないだけの基盤を作ること。

そして何より、自分自身がこの時代の濁流に飲み込まれず、確固たるサバイバル能力と資産基盤を築き上げること。

五十代の記憶と知恵を持つ俺にとって、この二度目の青春の始まりは、単なる学生生活の延長ではない。愛する者を守り抜くための、周到で『戦略的な戦場』なのだ。


(まずは大学受験。確実に将来の潰しが効き、経済の仕組みを学べる学部へ行く。そして、少しでも早く種銭を作り、バブル崩壊のタイミングを読んで堅実な資産運用――後のインデックス投資や高配当株のような――の土台を作らなければならない)


祈りを終えた陽子が、ふうと白い息を吐きながらゆっくりと目を開けた。

「高橋君、何をお願いしたの?」

彼女の澄んだ瞳が、俺を真っ直ぐに見上げてくる。


「ん? まあ、受験の合格祈願と……あとは、これからのこと色々とな」

「色々って?」

陽子が小首をかしげると、俺は小さく苦笑して首を振った。


「秘密。男には、色々と背負わなきゃいけないものがあるんだよ」

「えー、なにそれ。もったいぶって」

陽子は少しだけ唇を尖らせたが、すぐに「まあいいや」と笑って歩き出した。


「それより、おみくじ引こうぜ。今年一年の運試しだ」

「あ、それいい! 去年は吉だったから、今年こそは大吉がいいな」


本殿の脇、社務所の横に設けられた特設テントには、おみくじを求める人々の長い列ができていた。

俺たちは列に並び、木製の六角形の箱をカラカラと振って、出てきた棒の番号を巫女さんに伝えた。

手渡された真新しいおみくじを握りしめ、人混みから少し離れた大きなご神木の裏手へと移動する。


「せーのっ」

陽子が恐る恐る結び目を解き、紙面を覗き込んで「あっ……!」と小さな歓声を上げた。

「どうだった?」

「えへへ、大吉だった! 見て見て!」

陽子が嬉しそうに俺の目の前におみくじを突き出してくる。そこには達筆な文字で『願い事:叶う、ただし油断大敵』と書かれていた。


「お、すごいじゃないか。縁起がいいな」

「うん! これで受験もバッチリかも! 高橋君はどうだった?」


俺も自分の折りたたまれた紙を静かに開いた。

そこには、落ち着いた『吉』の文字が記されていた。


「俺は吉か。まあ、上も下もあるってことだな」

俺が苦笑いしながら文面を読むと、そこにはこんなことが書かれていた。

『商売:利あり、焦るべからず。学問:基礎を固めよ。恋愛:誠意を尽くせば通ず。』


(……なるほどな。今の俺の状況を的確に突いてきやがる。神様ってのは案外、見ているのかもしれないな)

特に『恋愛:誠意を尽くせば通ず』の一文には、五十代のオヤジの心臓をチクリと刺すような重みがあった。一周目で誠意を欠き、最低な態度で彼女を傷つけた俺には、耳の痛い言葉だ。


「高橋君? どうしたの、難しい顔して」

陽子が俺の顔を下から覗き込んでくる。

「いや、なんでもない。油断するなってのは、俺への戒めだな。浮かれるなってことだ」

「もう、高橋君はいつも慎重なんだから。でも……きっと大丈夫だよ」


陽子はそう言って、境内を吹き抜ける冷たい風の中を、誇らしげに、そして信頼に満ちた瞳で微笑みながら歩き出した。


「なんで言い切れるんだ?」

俺が少し意地悪く問い返すと、陽子は歩きながら振り返り、マフラーの奥でふふっと笑った。


「だって、高橋君はいつも私をしっかり引っ張ってくれるもん。それに、すごくよく考えて行動してるでしょ? だから、高橋君が失敗するなんて、私には想像つかないな」

「……買い被りすぎだろ」


俺は照れ隠しにそう吐き捨てながらも、彼女の真っ直ぐな信頼の言葉に、胸の奥が熱くなるのを止められなかった。

一周目の俺は、彼女のこの無条件の信頼を裏切り、仕事の忙しさと自分の不甲斐なさを言い訳にして、彼女を突き放した。

二度と同じ轍は踏まない。彼女が向けてくれるこの純粋な眼差しを、今度こそ一生かけて守り抜いてみせる。


帰り道、俺たちは温かい甘酒を一杯ずつ買って、境内の端にあるベンチに腰を下ろした。

紙コップから立ち上る湯気が、冷たい空気に触れて白く濁っていく。

「あったかいね……」

陽子が両手で紙コップを包み込むように持ち、ふうふうと息を吹きかけながら少しずつ口に運ぶ。その横顔は、まるで小動物のように愛らしかった。


「そういえば、中村さん。今年の目標って何かあるのか? 受験以外で」

俺が何気なく尋ねると、陽子は甘酒を飲み込み、少しだけ考える素振りを見せた。


「うーん……そうだなあ。少し、料理のレパートリーを増やしたいかな」

「料理?」

「うん。将来、保母さんになったら、きっと毎日忙しいでしょ? だから、手早く美味しいものを作れるようになっておきたいなって。それに……」


陽子はそこで少しだけ言葉を濁し、チラリと俺の方を見た。

「それに?」

「……誰かに、美味しいって言ってもらいたいし」


顔を真っ赤にしてうつむく彼女を見て、俺はまたしても脳髄がショートしそうになった。

(五十代のオヤジを、これ以上からかうな……心臓が持たんぞ)


「……そうか。じゃあ、楽しみにしてるよ」

俺が平静を装ってそう答えると、陽子はパッと顔を上げ、嬉しそうに頷いた。


「うん! いっぱい練習するね!」


空はすっかり高く晴れ渡り、冬の太陽が二人の足元に短い影を落としている。

冷たい風は相変わらず容赦なく吹き付けてくるが、陽子の笑顔と甘酒の温もりが、確かな熱となって俺の体を芯から温めてくれていた。


(十八歳の年、か……)


この一年が終われば、俺たちは別々の道へと進むことになる。

俺は大学へ、陽子は短大へ。

環境が変わり、付き合う人間が変わり、そして時代そのものが大きくうねりを上げて狂奔し始める。

すれ違いの種は、これから無数にばら撒かれるだろう。


だが、俺の決意は揺るがない。

俺は自分のコートのポケットの中で拳を固く握りしめた。


彼女が安心して自分の夢に向かって歩めるように。

十九歳の誕生日には、あの時買えなかった本物のシルバーネックレスを贈ろう。

二十歳の誕生日には、大人の証としてゴールドのリングを贈ろう。

そして、彼女が社会に出る二十一歳の秋には――決して色褪せることのない、プラチナのリングと共に、俺のすべてを懸けて彼女に永遠を誓おう。


そのためなら、どんな地味な努力でも、どんな泥臭い戦いでもやってみせる。

俺たちの青春の総決算であり、人生のサバイバルの幕開け。

一九八八年、一月一日。

この冷たく澄んだ冬の空の下で、俺たちの二度目の戦いが、確かな足取りで静かに動き出し始めていた。

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