第24話 共通一次の重圧と、支え合う放課後
第24話 共通一次の重圧と、支え合う放課後
一九八八年(昭和六十三年)、一月中旬。
三学期が始まって間もないこの時期、全国の高校は一種の異様な緊張感に包まれる。
当時『共通一次試験』と呼ばれていた全国一斉の大学入試(のちのセンター試験、共通テストの前身)が実施されるからだ。
三年生のフロアからはパタリと無駄口や笑い声が消え、廊下ですれ違う先輩たちの顔には、悲壮感にも似た焦燥が色濃く浮かんでいた。ピリピリとした重苦しい空気は、一つ下の階にいる俺たち二年生にも容赦なく伝播してくる。
「いいかお前ら! 共通一次が終わった瞬間から、お前らはもう『三年生〇学期』だと思え! 今から受験勉強を始めない奴に、来年の桜は絶対に咲かないぞ!」
ホームルームの度、生活指導の熱血教師が教卓をバンバンと叩きながら唾を飛ばす。窓の外ではどんよりとした鉛色の雪雲が空を覆い、すきま風の吹き込む教室は、部屋の隅で石油ストーブを焚いていても足元から底冷えがした。
「うへぇ、三年生〇学期ってなんだよ。まだ二年生の冬休みが終わったばっかなのにさ……」
前の席の佐藤が、うんざりしたように首をすくめる。周囲のクラスメイトたちも、口々に「マジかよ」「まだ部活あるし」と不満を漏らしていた。
だが、五十代の記憶を持つ俺の感覚は違った。
(……教師の言う通りだ。時間はいくらあっても足りない)
バブル経済が絶頂に向かうこの時代、私立大学の受験者数は団塊ジュニア世代の増加も相まって右肩上がりで膨れ上がり、受験戦争は『四当五落(睡眠時間四時間なら受かり、五時間なら落ちる)』などという狂った精神論がまかり通るほど苛烈を極めていた。偏差値至上主義と詰め込み教育のピークとも言える時代だ。
俺は将来の就職氷河期を乗り切るため、絶対に潰しが効く上位の経済・情報系学部を狙う必要がある。そして陽子は、短大の保育科とはいえ、決して低くない倍率を勝ち抜かなければならない。のんびり構えている暇など、一秒たりともなかった。
放課後。
底冷えのする図書室の片隅で、俺と陽子は向かい合って参考書を広げていた。
図書室は古い紙の匂いと、部屋の隅で赤々と燃える石油ストーブの匂いが混ざり合っている。窓の外では、早くも冬の短い夕闇が迫りつつあった。
「……うーん、全然わかんない」
陽子が小さくため息をつき、シャープペンシルを持ったまま机に突っ伏した。
彼女の目の前には、分厚い英語の文法書と、真っ赤になるまで書き込まれたノートが広げられている。首元には、室内でも外さないワインレッドのマフラー。
「どうした、中村さん。関係代名詞のところか?」
俺が覗き込むと、陽子は机に顔の半分を押し付けたまま、涙目になって上目遣いでこちらを見た。
「うん……。that とか which とか、もう何が何だか。私、英語本当に苦手で……保母さんになるのに、なんでこんな難しい英語やらなきゃいけないのかなって、時々思っちゃう」
弱音を吐く彼女の言葉に、俺は少しだけ苦笑した。
「まあ、気持ちはわかるよ。でも、受験ってのは『理不尽なルールの中でどれだけ食らいつけるか』の我慢比べみたいなもんだからな。それに、これからの時代……何が役に立つか、本当のところは誰にもわからないしな」
俺は立ち上がり、彼女の隣の席へと移動した。
静かに椅子を引き、すぐ隣に腰を下ろすと、陽子がハッとしたように身を縮め、微かに頬を赤らめた。冬の乾燥した空気の中で、彼女からほのかにシャンプーの石鹸のようないい香りが漂ってくる。五十代のオヤジの理性が一瞬ぐらついたが、俺はわざとらしく咳払いを一つして、ペンを手に取った。
「貸してみな。難しく考えすぎてるんだよ。英語の文法なんて、結局はパズルだ」
俺は彼女のノートの端に、主語と動詞を四角と丸で囲み、矢印を引いて視覚的に構造を分解していった。
社会に出てから、バブル崩壊後のコストカットの煽りで海外の安い取引先と嫌というほど英語のメールをやり取りし、分厚い契約書を血眼になって読まされた五十代の泥臭い経験が、こんなところで役に立つとは思わなかった。日本の高校生が引っかかるような文法レベルなら、実践的な視点からいくらでも噛み砕いて教えることができる。
「ここは『誰が・どうした』の骨組み。で、この which から後ろは、ただの『おまけの飾り』だ。飾りが長すぎるから後ろに回してるだけ。そうやって分解して読めば、ただの足し算だろ?」
俺が図解しながら説明すると、陽子の目が次第に丸くなり、やがてパァッと明るく輝いた。
「あっ……! ほんとだ、意味が繋がった! すごい、高橋君。学校の先生の説明よりずっとわかりやすい!」
「……そうか? ならよかった」
「すごいすごい! じゃあ、こっちの仮定法ってやつも教えて!」
身を乗り出してきた彼女の肩が、俺の肩にコツンと触れる。
その柔らかな感触と温もりに、俺は心臓が口から飛び出そうになるのを必死で堪えた。
(近すぎる。無防備すぎるぞ、中村さん……!)
だが、陽子はそんな俺の内心の葛藤など知る由もなく、純粋な尊敬の眼差しでノートと俺の顔を交互に見つめている。
その純真な期待に応えるためだけに、俺は必死に冷静な『家庭教師』を演じ続けた。
図書室の閉館を知らせるチャイムが鳴るまで、俺たちはみっちりと二時間、勉強に没頭した。
外に出ると、世界はすでに完全な夜の闇に包まれていた。
一月の凍てつくような寒風が、容赦なく詰襟の学生服とコートの隙間に入り込んでくる。
「うぅ、寒い……っ!」
陽子が身をすくめ、マフラーに顔を埋めるようにして小走りになる。俺も詰襟の首元をすくませて、駅へと続く帰り道を急いだ。
「あ、高橋君! あそこ、寄っていかない?」
駅前の商店街に差し掛かったあたりで、陽子がふと立ち止まり、一軒の店を指さした。
それは、昔から地元にある小さな精肉店だった。店先では、年季の入ったガラスケースの中で、自家製の肉まんやコロッケがもうもうと湯気を立てて売られている。コンビニなどまだそれほど普及していないこの時代、高校生たちの買い食いスポットといえばこういう個人商店だった。
「肉まんか。いいな、俺が奢るよ」
「えっ、いいの? 今日は勉強まで教えてもらったのに……」
陽子が遠慮がちに両手を振るのを、俺は笑って制した。
「いいんだよ。遅くまで逃げずに、苦手な英語と格闘したご褒美だ。……おばちゃん、肉まん二つ」
「あいよ! ほかほかのやつね!」
割烹着姿のふくよかなおばちゃんが、白い紙に包んだ熱々の肉まんを二つ手渡してくれた。
俺たちは商店街の隅にある小さなアーケードの柱の陰に並んで立ち、身を寄せるようにして寒さを凌ぎながら肉まんにかぶりついた。
「はふっ……んん〜っ、美味しい! 先生、ごちそうさまです!」
陽子が目を細め、冗談めかして俺を「先生」と呼びながら、口いっぱいに肉まんを頬張る。鼻の頭を少し赤くしながらハフハフと幸せそうに食べる姿は、見ているこちらまで温かい気持ちにさせてくれる。
俺も一口かじり、熱い肉汁と湯気を堪能しながら、ふと横に立つ彼女を見た。
「……なぁ、中村さん」
「ん? なあに?」
もぐもぐと口を動かしながら、陽子がこちらを見上げる。
「さっき、図書室でため息ついてただろ。英語がわからなくて……っていうのもあるんだろうけど、本当は、もっと別のことで不安なんじゃないか?」
五十代の年の功というか、彼女の僅かな表情の陰りは見逃さなかった。ただ勉強がわからないというだけの悩みではない、もっと根深い不安が、さっきの彼女の瞳には揺れていた。
図星を突かれたのか、陽子は口の中のものをゆっくりと飲み込むと、紙に包まれた食べかけの肉まんを見つめたまま、小さく頷いた。
「……高橋君には、誤魔化せないな」
白い息を吐きながら、陽子はぽつりとつぶやく。
「実はね、昨日、お母さんと少し喧嘩しちゃったんだ。私、どうしても保母さんになりたいから短大の保育科に行きたいって言ってるんだけど……お母さんは『女の子なんだから、無理して進学なんかしなくても、地元の会社に事務員として就職して早くお嫁に行けばいい』って」
一九八八年。男女雇用機会均等法が施行されてから数年が経っているとはいえ、世間にはまだまだ「女性は短大か高卒で一般職に就き、腰掛けで数年働いて寿退社するのが一番の幸せ」という価値観が根強く残っていた。ましてや地方の保守的な家庭ならなおさらだ。
「私、頭もそんなに良くないし、足だって……たまに古傷が痛んだりするし。お母さんの言う通り、無謀なのかなって。本当に私なんかが、子供たちの命を預かる保母さんになれるのかなって……時々、すごく怖くなるの」
街灯の薄暗いオレンジ色の光に照らされた彼女の横顔は、今にも泣き出しそうに震えていた。
十七歳の、未来に対する純粋で、だからこそ重くのしかかる恐怖。
一周目の俺は、彼女のこういう繊細な悩みに正面から向き合うだけの心の余裕がなく、「親の言うことなんて気にしなきゃいいだろ」と適当に相槌を打ってしまっていた気がする。
だが、今の俺は違う。
俺は食べかけの肉まんを持つ手を下ろし、彼女の真っ直ぐな、少し潤んだ瞳を正面から見据えた。
「無謀なんかじゃない。中村さんは、絶対になれるよ」
強い口調で、言い切った。
「え……」
「中村さんは、誰よりも優しい。俺みたいな不器用で可愛げのない奴にも、いつも真っ直ぐに向き合ってくれる。足の傷だって、中村さん自身が痛みを経験してるからこそ、転んで泣いてる子供の痛みが誰よりもわかるはずだ」
俺の言葉に、陽子の目がわずかに見開かれる。
「周りや世間がどう言おうと関係ない。お母さんが反対するなら、説得する材料を一緒に考えよう。勉強でつまずいたら、俺が何度でも教える。だから……絶対に、夢を諦めるな」
だって俺は知っているのだ。
一周目の世界で、彼女がどれほど素晴らしい保母になっていたかを。
子供たちに愛され、保護者から深く信頼され、泥だらけになりながら笑顔で園庭を走り回っていたその眩しい姿を。
そしてその輝きを、俺自身の不甲斐なさと自分勝手な振る舞いで曇らせてしまったことを。
「俺が、ついてる。中村さんが夢を叶えるまで、いや、叶えた後も……俺がずっと、一番の味方でいるから」
冷たい北風が吹き抜け、アーケードの古い看板がガタガタと音を立てた。
陽子は俺の言葉に打たれたように、じっと俺の目を見つめ返していた。やがて、その大きな瞳からポロリと大粒の涙がこぼれ落ち、ワインレッドのマフラーに小さな染みを作った。
「……うんっ……」
陽子は何度も何度も首を縦に振り、コートの袖で乱暴に涙を拭った。
「ありがとう……高橋君。私、頑張る。絶対に諦めない」
泣き笑いのような顔で、彼女は残りの肉まんを勢いよく口に押し込んだ。
「んんっ、冷めてきちゃったけど、やっぱり美味しい!」
「無理して喉に詰まらせるなよ」
俺が苦笑いしながら背中をさすると、彼女は照れくさそうに笑い声を上げた。
冬の夜は凍てつくように寒かったが、二人の間に流れる空気は、嘘のように温かかった。
彼女の夢を守る。それが、俺の二度目の人生の最大のミッションだ。
そのためにも、俺自身が強くなければならない。
(明日、冬休みのバイト代がまとめて振り込まれる。駅前の銀行で、いよいよ『あの準備』を始めるとするか……)
俺は心の中で、数年後に迫る経済の崩壊に向けた『自分だけのサバイバル計画』の第一歩を、ひっそりと決意していた。
厳しい寒さの中、俺たちは肩を並べ、時折冗談を言い合いながら、明日へと続く夜道を力強く歩いていった。
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