第25話 十八歳の誕生日と、小さな手帳の誓い
第25話 十八歳の誕生日と、小さな手帳の誓い
一九八八年(昭和六十三年)、九月。
記録的な猛暑だった夏がようやく終わりを告げ、朝夕の風にわずかな秋の気配が混じり始めた頃。
高校三年生の夏休み――いわゆる受験生にとっての『天王山』は、文字通り息つく暇もない死闘の連続だった。
俺は連日、予備校の夏季講習と自宅学習、そして週に数回のアルバイトを掛け持ちしながら、分厚い参考書と格闘し続けていた。五十三歳の記憶と論理的思考力があるとはいえ、十八歳の脳細胞に詰め込まなければならない暗記量は膨大だ。それでも、確実に将来の潰しが効く上位の経済・情報系学部に入るため、一切の妥協は許されなかった。
日曜日の午後。
自室の机に向かっていた俺は、ふとシャーペンを置き、引き出しの奥から一冊の小さな黒い手帳を取り出した。
誰にも見せることのない、俺だけの『秘密の預言書』であり、未来の航海図だ。
窓の外からは、夏の終わりを惜しむようなツクツクボウシの鳴き声が聞こえてくる。扇風機が首を振りながら、生ぬるい風を部屋の中に循環させていた。
俺は手帳のページを開き、黒のボールペンで几帳面な字を書き連ねていく。
『一九八九年末:日経平均株価、三万八千九百十五円(最高値)』
『一九九〇年:大暴落の始まり。総量規制。バブル崩壊』
『一九九二年〜:就職氷河期の本格化』
『一九九七年:大手証券会社の自主廃業、都市銀行の破綻』
書き並べた文字を見つめているだけで、五十代のオヤジとしての胃の痛むような記憶がフラッシュバックしてくる。
今、世間はテレビをつければ連日「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と騒ぎ立て、誰もが浮かれ切っている。だが、あと数年もすれば、この国は長く暗い『失われた三十年』という泥沼に沈んでいくのだ。
俺はさらに、今後のサバイバル計画――資産防衛と形成のロードマップを書き加えた。
『バブル絶頂期:一切の投機には手を出さず、アルバイト代は徹底的に現金として蓄える』
『バブル崩壊後:パニック売りで底を打った、インフラやBtoBの優良な【日本の高配当株】を少しずつ拾い集める』
『二〇〇〇年代以降:金融法制が整い次第、世界経済の成長を確実に取り込める【全世界株式へのインデックス投資】を主軸に据え、長期的な複利で資産を雪だるま式に増やす』
まだ「NISA」はおろか、投資信託という言葉すら一般に定着していないこの時代に、こんな未来の投資戦略を語っても誰も信じないだろう。
だが、俺には分かっている。就職氷河期を乗り切り、陽子に絶対に苦労をかけない強固な家庭を築くためには、給料だけに依存しない『資本の防壁』がどうしても必要なのだ。
俺は手帳をパタンと閉じ、引き出しの奥底に再び隠した。
「……待ってろよ。絶対に、お前を守り抜いてみせる」
独り言は、秋の入り口の風に溶けて消えた。
その日の夕方。
俺は駅前にある昔ながらの喫茶店『ルノワール』の奥の席で、陽子と向かい合っていた。
えんじ色のベルベットのソファに、琥珀色の照明。店内には静かなジャズが流れ、焙煎されたコーヒー豆と微かなタバコの香りが混ざり合った、八〇年代特有の落ち着いた大人の空間だ。
「お待たせ、高橋君!」
カランコロンとドアベルを鳴らして店に入ってきた陽子は、少し息を弾ませながら俺の前の席に座った。
今日は九月の半ば。陽子が、十八歳の誕生日を迎えた日だった。
彼女は白いブラウスに、秋らしいマスタード色のフレアスカートを合わせている。少し背伸びをしたような、清楚で大人びた装いが、嫌でも俺の心拍数を跳ね上げさせた。
「誕生日、おめでとう。中村さん」
「えへへ、ありがとう! ついに私も十八歳だよ。なんだか不思議な気分」
陽子は運ばれてきたメロンクリームソーダのストローを咥えながら、嬉しそうに目を細めた。
十八歳。女性にとっては、結婚も法的に認められ、車の免許も取れるようになる、一つの大きな節目だ。
「はい、これ。俺からの誕生日プレゼント」
俺は鞄の中から、綺麗にラッピングされた小さな箱を取り出し、テーブル越しに手渡した。
「えっ、いいの!? ありがとう……! 開けてもいい?」
「ああ、もちろん」
陽子が慎重に包装紙を解くと、中から現れたのは、落ち着いたダークブラウンの木製のペンケースだった。そしてその中には、細身で上品な真鍮製のシャープペンシルと、ころんとした丸い木彫りの『猫の置物』が入っている。
「わあ……っ、綺麗! このシャープペンシル、すごく書きやすそう。それに、この猫ちゃん……!」
陽子は木彫りの猫を手のひらに乗せ、愛おしそうに頬ずりをした。
「可愛い……。なんだか、ぽっちゃりしてて、独楽みたいに丸っこいフォルムがたまらないね」
「中村さん、猫好きだっただろ。それに、これから短大の受験勉強もあるし、保母さんになったら日誌とか色々と書き物をすることが多いって聞いたからさ。いいペンを持っていれば、少しはモチベーションも上がるかと思って」
俺が少し照れくさそうに言うと、陽子は目を潤ませて、何度も何度も頷いた。
「うんっ、すっごく嬉しい! 私、このペンでいーっぱい勉強して、絶対に保母さんの試験に合格するね。……そうだ、この猫ちゃん、丸くて独楽みたいだから、『こま』って名前にしようかな」
『こま』。
その素朴で愛らしい響きに、俺は思わず微笑んだ。
「こま、か。いい名前だな。勉強に疲れた時は、その『こま』を見て癒やされてくれ」
「ふふっ、うん。こま、これからよろしくね」
陽子は木彫りの猫に優しく語りかけながら、ペンケースを宝物のように胸に抱きしめた。
その純粋すぎる喜びに触れるたび、俺の胸の奥で、甘い痛みと強烈な決意が交差する。
一周目の俺は、彼女の十八歳の誕生日に何を贈ったのだったか。
確か、近所の雑貨屋で買った安いハンカチか何かで、照れ隠しに「ほらよ」と乱暴に渡しただけだった気がする。彼女はそれでも「ありがとう」と笑ってくれたが、今の俺から見れば、当時の自分を殴り飛ばしてやりたいほどの不甲斐なさだ。
(まだ、大したものは買ってやれない)
今の俺はしがない高校生で、アルバイト代の多くは将来の防衛資金として貯蓄に回している。だから、今の俺にできる精一杯の誠意が、このペンと小さな猫の置物だった。
喫茶店を出ると、外はすっかり日が落ち、涼しい秋の夜風が吹き抜けていた。
駅へと続くイチョウ並木の下を、俺たちは肩を並べて歩く。
「……ねえ、高橋君」
陽子がふと、歩幅を合わせて俺を見上げた。
「ん?」
「私ね、十八歳になって、少しだけ大人に近づいた気がするの。だから……これからは、高橋君に頼るばっかりじゃなくて、私も高橋君を支えられるようになりたいな」
街灯の光に照らされた彼女の横顔は、いつになく真剣だった。
「受験が終わったら、私もアルバイト始めるつもり。それで、いつか……高橋君にも、恩返しさせてね」
その健気な言葉に、五十代のオヤジの涙腺が危うく決壊しそうになる。
俺は立ち止まり、彼女の真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
「恩返しなんて、いらないよ」
「え……?」
「中村さんが俺の隣で、毎日笑っててくれること。それが俺にとっての、一番の恩返しだから」
恥ずかしいセリフだったが、これだけは絶対に伝えておかなければならなかった。
陽子は一瞬ぽかんとした後、顔を真っ赤にしてうつむき、「もう、高橋君ってば……急にそういうこと言うんだから」と、照れ隠しのように俺のコートの袖をきゅっと掴んだ。
その小さな手を、俺はそっと自分の手のひらで包み込んだ。
夜風は冷たかったが、繋いだ手と手からは、確かな熱が伝わってくる。
(来年の九月……お前が十九歳になる誕生日には)
俺は心の中で、固く誓った。
かつて一周目の俺が、金がなくて買うことができず、心の中で「いつか本物のシルバーを贈る」と言い訳をしたまま果たせなかった、あの約束。
来年の誕生日には、俺がアルバイトで死に物狂いで貯めた金で、絶対に彼女の胸元に『本物のシルバーネックレス』を輝かせてみせる。
激動の一九八八年、秋。
彼女の十八歳の誕生日は、俺にとっての未来への強固な誓いの日となった。
二人で歩く夜道の先には、狂乱のバブルの頂点と、その後に崩壊していく恐ろしい時代の足音が、確実に、そして静かに迫りつつあった。
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