第26話 テレビから流れた「昭和が終わった日」と、別れと始まりの卒業式
第26話 テレビから流れた「昭和が終わった日」と、別れと始まりの卒業式
一九八九年(昭和六十四年)、一月七日。
その日の朝は、いつになく不気味なほど静かだった。冬休みの終わりを明日に控えた土曜日。石油ストーブの暖かさで二度寝の微睡みに落ちていた俺は、一階のリビングから聞こえてくる、異様なほど緊迫したテレビの音声で目を覚ました。
『天皇陛下におかせられましては、本日午前六時三十三分、吹上御所において崩御あらせられました――』
急いで階段を駆け下りてリビングに向かうと、父親が休日の朝刊も読まず、食い入るようにブラウン管を見つめていた。キッチンで朝食を作っていた母親も手を止め、お玉を持ったまま無言でテレビ画面を凝視している。
画面の中では、黒いネクタイを締めたアナウンサーが沈痛な面持ちで同じ言葉を繰り返し、次々と昭和の歴史――焼け野原からの復興、高度経済成長、そして東京オリンピックの映像などを振り返る特別番組が延々と流し出されていた。
俺は五十代の記憶として、この日を鮮明に知っていた。
『昭和』という、戦争と復興、そして未曾有の経済成長という激動の時代を駆け抜けた長く重い元号が、ついにその幕を下ろした日だ。
そして、この日から日本中が数日間にわたって、レンタルビデオ屋の棚から娯楽ビデオテープが消え失せ、街から一切の歌舞音曲やネオンサインが消えるほどの強烈な「自粛ムード」に包み込まれることを。
「……昭和が、終わったんだな」
父親が、腕を組みながらポツリと呟いた。その声には、自分たちが青春を過ごし、がむしゃらに働き続けてきた時代の一つの区切りに対する、言葉にできない喪失感が滲んでいた。
「ええ……。なんだか、信じられないわね。一つの時代が本当に終わっちゃうなんて」
母親も静かに同意する。
俺も黙って、画面の中で流れる白黒の古いニュース映像を見つめていた。
(ここからだ。ここから、『平成』という新しい時代が始まる)
世間は今、悲しみに包まれながらも、底流ではバブル経済の狂熱がマグマのように煮えたぎっている。日経平均株価はこの年の年末に史上最高値(三万八千九百十五円)をつけ、そして直後に崖から転げ落ちるように崩壊していく。
長く苦しい「失われた三十年」と「就職氷河期」のカウントダウンが、静かに、しかし確実に始まった瞬間だった。
その日の午後。俺は陽子を誘い、近くの少し大きめな公園へと向かった。
街を歩いていても、いつもは賑やかな商店街のスピーカーからBGMは消え、行き交う人々の顔もどこか所在なげだ。正月飾りが慌ただしく外され、代わりに半旗が掲げられた光景は、新しい年が明けたばかりとは思えないほど重苦しく、空の色までが鉛色に沈んで見える。
「なんだか、街がすごく静かだね……。テレビもずっと、特別番組ばっかりだし」
公園のベンチに並んで座り、自販機で買った温かい缶のしるこで手を温めながら、陽子がぽつりと呟いた。
彼女は俺があげたダークブラウンのウールのコートを着て、その首元には俺が贈ったワインレッドのマフラーをしっかりと巻いている。
「ああ。一つの時代が終わったってことだ」
「昭和が、終わっちゃったんだよね。私たち、昭和生まれの人間になっちゃった」
「そういうことだな。でも、俺たちの人生の本番はこれからだ」
俺の言葉に、陽子は小さく頷いた。
「うん。……ねえ、高橋君。新しい時代は、どんな風になるのかな。私、ちゃんと短大に受かって、保母さんになれるのかな。なんだか急に時代が変わっちゃって……自分が置いてけぼりにされそうな気がして、ちょっと怖いよ」
共通一次試験と私立大学・短大の一般入試を目前に控えた時期特有の、漠然とした不安。そこに「改元」という巨大な社会的変化が重なり、十八歳の彼女の心を揺さぶっているのだろう。
俺は自分の缶コーヒーをベンチに置き、マフラーに顔を埋めている彼女の肩を、ポンと軽く叩いた。
「さあな。誰もわからないさ。バブルが弾けて、とんでもない不景気が来るかもしれないしな。でも、どんな時代になっても、俺が中村さんを守る。それだけは変わらない」
五十代のオヤジの魂が言わせた、キザで重すぎるセリフ。だが、この日、この時代の変わり目に、どうしても彼女に伝えておきたかったのだ。
陽子は一瞬驚いたように大きな目を見開いた後、ふわりと柔らかく笑い、俺の肩にコツンと頭を預けてきた。
「ふふっ……高橋君、時々すっごく大人みたいな顔して、映画のセリフみたいなこと言うよね。でも、すごく安心した。ありがとう。私も、高橋君の隣で一緒に頑張るよ」
彼女の髪から漂うシャンプーの香りと、肩から伝わる温もりを感じながら、俺はポケットの中で拳を握りしめた。
(これから来る『平成』は、決して生易しい時代じゃない。だが、俺の持てるすべての知識と経験で、この笑顔だけは絶対に守り抜いてみせる)
そして、二月。
俺たちは息を潜めるようにして、受験本番の荒波に立ち向かった。
記録的な寒波が日本列島を覆う中、俺は第一志望である都内の有名私立大学の経済学部へ、陽子もまた、県内でも有数の伝統を持つ保育科の短大へと試験を受けに向かった。
会場のピリピリとした空気、暖房の効きすぎた教室、カリカリという鉛筆の音だけが響き渡る空間。五十代のオヤジにとっては数十年ぶりのペーパーテストだったが、死に物狂いで頭に詰め込んだ知識と、論理的な読解力を武器に、俺は手応えを確信していた。
三月の上旬。
それぞれの自宅のポストに、薄っぺらい封筒ではなく、分厚い「合格通知書」が入った速達の封筒が届いた日。
俺たちは駅前の公衆電話から互いに連絡を取り合い、受話器越しに「受かった!」「俺もだ!」と大声で叫び合った。周囲の目を気にする余裕などないほど、それは純粋な十八歳の歓喜だった。
そして季節は巡り、三月中旬。
春の柔らかな陽射しが降り注ぐ中、俺たちは地元の高校の卒業式を迎えた。
体育館に響き渡る『仰げば尊し』と『蛍の光』の歌声。涙ぐんで鼻をすする女子生徒たち。厳格だった生活指導の教師たちの、少し寂しそうな、だが誇らしげな横顔。
俺も、この三年間――いや、タイムリープしてからの約一年半の濃密な時間を振り返り、感慨深い思いに包まれていた。
一周目の俺は、卒業式なんてただの通過儀礼だと斜に構え、親の金で大学に行くことの重みも分かっていなかった。だが今は違う。ここからが、社会という戦場へ向けての本格的な助走期間なのだ。
卒業証書を受け取り、教室での最後のホームルームが終わると、校庭は別れを惜しむ生徒たちでごった返した。
あちこちで記念写真を撮るフラッシュが焚かれ、後輩の女子生徒たちが憧れの先輩のボタンをもらいに駆け回っている。
俺は校門の近く、まだ蕾の固い桜の木の下で、陽子と向かい合っていた。
「高橋君。ご卒業、おめでとう」
「中村さんもな。おめでとう」
彼女の胸元には、俺が誕生日にあげた木彫りの猫『こま』のキーホルダーが、スクールバッグにちょこんと揺れている。
「……あのね、高橋君」
陽子が少しモジモジとしながら、俯きがちに口を開いた。
「どうした?」
「これ……もらってくれないかな」
そう言って彼女が差し出したのは、小さな手作りの御守りだった。不器用なステッチで、可愛らしい四つ葉のクローバーが刺繍されている。
「えっと……私、不器用だからあんまり上手じゃないんだけど。大学に行っても、高橋君がずっと元気で頑張れるようにって」
顔を真っ赤にして差し出す彼女の手から、俺はその御守りをそっと受け取った。
「ありがとう。……すごく嬉しいよ」
五十代のオヤジの涙腺が、ついに決壊しそうになる。一周目の人生では、こんな心のこもった贈り物をもらった記憶はなかった。
俺は御守りを大切に詰襟の学生服の内ポケット――心臓の一番近くにしまい、彼女の真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
「俺からも、渡したいものがあるんだ」
俺は、三年間着古した黒い詰襟の学生服に手をかけた。そして、首元から数えて二番目――心臓に一番近い位置にある金色の『第二ボタン』に指をかけ、ブチッと少し乱暴に引きちぎって、彼女の小さな手に握らせた。
「えっ……高橋君、これ……」
「俺は大学、中村さんは短大。春から通う場所は別々になるし、会える時間も減るかもしれない。でも……俺の気持ちは、ずっと中村さんのそばにあるから」
陽子は信じられないというように、手のひらに乗った金色の第二ボタンを見つめ、やがて大粒の涙をポロポロとこぼした。
「……うんっ……! 私も、ずっと高橋君のそばにいるからっ……!」
泣き笑いのような顔で、彼女は第二ボタンを両手で大切に胸に抱きしめた。
春風が吹き抜け、桜の蕾がほころび始めた枝を小さく揺らす。
激動の昭和が終わりを告げ、新しい『平成』という時代が幕を開けた。
そして、俺たちの十八歳の青春もまた、一つの終わりを迎え、新たな人生のステージへと踏み出していくのだった。
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