第27話 十九歳の誕生日と、初めてのシルバーネックレス
第27話 十九歳の誕生日と、初めてのシルバーネックレス
一九八九年(平成元年)、四月。
激動の昭和が終わり、新しい元号と共に始まった俺たちの大学・短大生活は、まさに『狂乱』という言葉がふさわしい時代の空気の中にあった。
俺が進学した都内の私立大学のキャンパスは、異様な熱気に包まれていた。
肩パッドの入った原色のDCブランドの服に身を包み、ソバージュヘアを揺らして歩く女子大生たち。彼女たちを高級外車で迎えに来る『アッシー君』と呼ばれる他大学の男子学生や若手サラリーマン。学生の分際で数万円もするディスコのVIPルームを借り切り、毎晩のようにコンパという名の馬鹿騒ぎを繰り返すサークル連中。
彼らの顔には「明日は今日より必ず良くなる」「日本は世界一の経済大国だ」という、無邪気で底抜けの楽観主義が張り付いていた。
「高橋、お前今日もバイトかよ? せっかくの華金なのに付き合い悪いな。六本木で女子大との合同コンパあるのにさ」
ゼミの同級生が、真新しいアルマーニのジャケットを羽織りながら呆れたように言ってくる。
「悪いな。俺はそういうの、柄じゃないんでね」
俺は洗いざらしの綿のシャツにチノパンという、この時代では地味極まりない格好のまま、トートバッグを肩にかけてキャンパスを後にした。
(……狂っている。五十代の記憶を持ったまま見ると、このバブルという集団催眠の異常さが嫌というほどよくわかる)
年末には日経平均株価が史上最高値の三万八千九百十五円に到達する、日本経済の歴史的な頂点。だが、数年後には彼らが着ている高級スーツも外車もすべて借金の山と化し、新卒の求人は氷のように凍りつくのだ。
俺は浮かれる同級生たちを尻目に、時給が異常に高騰している肉体労働や家庭教師のアルバイトをいくつも掛け持ちし、ひたすら現金(タネ銭)を稼ぎまくっていた。
稼いだ金は、当時の郵便局の定額貯金(金利が年五〜六パーセントという、現代から見れば信じられないほどの超高金利だった)に全額突っ込んでいる。来るべき氷河期と、日本の優良株が底値で叩き売られる崩壊のタイミングをじっと待ち構えるためだ。
俺の青春は、甘いキャンパスライフなどではない。愛する人を守り抜くための『サバイバル資金の調達期間』だった。
一方、県内の保育短大に進学した陽子の生活は、バブルの狂騒とは無縁の、過酷で地道なものだった。
「……高橋君、ごめんね。今日も夜遅くになっちゃって」
受話器の向こうから聞こえる陽子の声は、ひどく疲れ切っていた。
初夏の夜。俺はアパートの近くの公衆電話から、陽子の実家に電話をかけていた。当時はまだ携帯電話などなく、連絡手段といえば親の目を盗んでかける家電か、十円玉を握りしめて並ぶ公衆電話しかなかったのだ。
「いいよ、気にするな。それより、今日もピアノの居残り練習だったのか?」
「うん……。バイエルの課題曲がどうしても指が回らなくて。先生、すっごく厳しいんだもん。それに、明日は図画工作でエプロンシアターの発表があるから、これから徹夜でフェルトを縫わなきゃいけなくて……ふぁぁ」
電話口で、彼女が小さくあくびを噛み殺す音が聞こえた。
保母(保育士)を養成する短大のカリキュラムは、たった二年間で膨大な専門知識と実技を詰め込むため、想像を絶するほどハードだ。
ピアノ、幼児心理学、小児栄養学、そして大量の課題製作。バブルに浮かれてディスコで踊り狂っている同世代の女子大生たちとは対極の、泥臭くて涙ぐましい努力の日々。
一周目の俺は、そんな彼女の苦労を「短大生なんだから気楽でいいよな」などと軽く見て、寄り添おうとしなかった。
「……無理するなよ。手先が不器用なのは知ってるんだから、完璧を目指さなくていい。子供たちにとっては、綺麗に縫えてるかどうかなんて関係ない。中村さんが一生懸命作ったってことが伝われば、それで十分なんだから」
俺が静かにそう言うと、受話器の向こうで数秒の沈黙があり、やがて陽子の鼻をすする小さな音が聞こえた。
「……うん。うんっ……ありがとう、高橋君。なんだか、すごく安心した」
「徹夜なんかしないで、キリのいいところで寝ろよ」
「わかった。……ねえ、高橋君。早く会いたいな」
「ああ。来月になれば少し落ち着くんだろ? 中村さんの誕生日には、美味いものを食いに行こう」
「本当!? えへへ、やったあ。それを楽しみに、私、頑張るね!」
電話を切ると、夏の夜の生ぬるい風が頬を撫でた。
(待ってろよ、中村さん。十九歳の誕生日には、絶対に最高の笑顔にしてみせる)
そして、九月。
残暑がまだ厳しくも、夕暮れ時には秋の虫が鳴き始める頃。
俺たちは、少し背伸びをして都内にある落ち着いた雰囲気のフレンチレストランにいた。大学生の分際で行くには少し敷居が高い店だったが、バブル期特有の「学生でもこのくらいは」という見栄の文化を利用し、数ヶ月前からアルバイト代を貯めて予約していたのだ。
陽子は今日のために買ったのだろう、淡いベージュのワンピースに身を包み、少しだけ口紅を引いていた。高校生の頃のあどけなさが少しずつ抜け落ち、大人の女性としての美しさが蕾を開き始めている。その眩しさに、五十代のオヤジの理性は開始十分でノックアウト寸前だった。
「すごいね……こんな素敵なレストラン、初めて来たよ。本当に私なんかが入ってよかったのかな」
陽子は運ばれてきた美しいオードブルを前に、フォークを持つ手を震わせながら目を輝かせている。
「中村さんの十九歳の誕生日だぞ。このくらい当然だ。それに、毎日徹夜で課題や実習を頑張ってるご褒美だ」
俺が微笑みかけると、陽子は照れくさそうに「ありがとう」と囁き、料理を口に運んだ。
美味しい料理と、他愛のない学生生活の報告。
互いに別の学校に通い、会える時間は高校時代より減ってしまったが、こうして向かい合っていると、空白の時間など一瞬で埋まってしまう。一周目の人生で失ってしまったこの穏やかな時間が、今は何よりも愛おしかった。
やがて食後のデザートと紅茶が運ばれてきたタイミングで、俺はジャケットの内ポケットから、綺麗なリボンのかかった小さな箱を取り出した。
有名な海外のジュエリーブランドの、特徴的なミントブルーの小箱。当時、クリスマスや誕生日にこの箱をプレゼントされることが、若い女性たちの間で一つのステータスとなっていた。
「はい、誕生日おめでとう」
テーブル越しに箱を差し出すと、陽子の動きがピタリと止まった。
「えっ……嘘、これって……高橋君、あの、すっごく高いんじゃ……!」
「いいから、開けてみてくれ」
陽子は恐る恐る、手が震えるのを抑えながら白いリボンを解き、小箱を開けた。
中に入っていたのは、流れるような美しい曲線を描く、純銀のティアドロップ(雫)型のネックレスだった。派手すぎず、かといって子供っぽくもない。これから保母として社会に出る彼女が、プライベートでずっと身につけられるような、上品で洗練されたデザインを選んだのだ。
「わあ……っ、綺麗……!」
陽子の大きな瞳から、ぽろりと本物のティアドロップのような涙がこぼれ落ちた。
「本当に、私なんかがもらっていいの? 高橋君、毎日汗だくになってバイトしてくれてたのに……こんな高価なもの……」
「中村さんだから、もらってほしいんだ」
俺は立ち上がり、彼女の後ろに回って、その細い首元に冷たいシルバーのチェーンを回し、小さな留め具をパチンと留めた。
ベージュのワンピースの胸元で、銀の雫が照明の光を反射して静かに輝いている。
「すごく、似合ってる」
俺が席に戻ってそう告げると、陽子は胸元のネックレスを両手でそっと包み込みながら、泣き笑いのような顔で俺を見た。
「ありがとう……高橋君。私、一生大切にする。お風呂に入る時も、寝る時も、ずっと外さない」
「おいおい、錆びるからお風呂の時は外してくれ」
俺が苦笑交じりにツッコミを入れると、陽子はようやく「ふふっ」と声を立てて笑った。
(一周目では、俺は自分の遊び代ばかり優先して、彼女の十九歳の誕生日にまともなプレゼント一つ買ってやれなかった)
「いつか、ちゃんとしたの買ってやるよ」と誤魔化した俺に、彼女は寂しそうに笑って頷いただけだった。あの時の後悔が、五十代になって俺の胸をどれほど苛み続けたか。
俺は紅茶のカップを置き、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめ返した。
少しだけ、心臓の鼓動が早くなる。
「……中村さん」
「なあに?」
「来年、中村さんが二十歳になる時は、大人の証としてゴールドのリングを贈る。そして、中村さんが短大を卒業して社会に出る二十一歳の時には……もっと特別な、一生の約束になるものを贈るつもりだ」
「えっ……」
俺はテーブルの上で、彼女の小さな右手を自分の両手でしっかりと包み込んだ。
「俺と、正式に付き合ってほしい。これから先もずっと……俺の隣にいてくれないか」
レストランの静かなBGMすら耳に入らないほどの静寂が、二人の間に落ちた。
陽子は目を見開き、やがてその瞳から先ほどとは比べ物にならないほどの大粒の涙が、ポロポロとテーブルにこぼれ落ちた。
「……うんっ……」
陽子は俺の手を強く握り返し、何度も何度も深く頷いた。
「私でよかったら……ずっと、ずっと一緒にいる。絶対に離れないから……!」
その震える声を聞いた瞬間、俺の中で張り詰めていた何かが、ふっと解けるような気がした。
高校二年の秋からずっと、手探りで守り続けてきた彼女との絆が、今、明確な一つの『形』になったのだ。
俺は照れ隠しに小さく息を吐き、少しだけ意地悪く笑ってみせた。
「……それじゃあ、今日からは『陽子』って呼んでもいいか? あと、たまに俺の悪い癖で『お前』って言っちまうかもしれないけど……許してくれよな」
陽子は驚いたようにパチクリと瞬きをした後、花がほころぶような、とびきり嬉しそうな笑顔を見せた。
「うんっ! じゃあ私も……『健一くん』って呼ぶね。お前って呼ばれるのも、ちょっとだけ憧れてたから……いいよ」
「なんだそりゃ」
「えへへ、内緒」
胸元で揺れる純銀のネックレスと、互いの名前を呼び合う新しい響き。
一九八九年、九月。
狂乱のバブル経済が頂点へと向かい、世間が浮足立つ中で、健一と陽子はついに、ただの同級生から「恋人」へとその歩みを進めた。
二人の絆は、この銀の輝きのように冷たく静かに、しかし決して錆びることのない確かな純度を持って結びついていた。
時代がどれほど狂い、やがて崩壊の波が押し寄せようとも。俺はこの手を、二度と離さない。
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